杉原千畝記念館
岐阜県八百津町 2000年8月訪問
杉原千畝記念館の外観 | 記念館の前にある杉原千畝の胸像 |
記念館そばの「人道の丘」のモニュメント | 乗車した名鉄八百津線(現在は廃線) |
第二次大戦直前、赴任していたリトアニアのカウナス(当時はリトアニアの首都)の日本領事館で、ユダヤ人に対して、日本の通過ビザを発行することによって、約6000人のユダヤ人の命を救った人物、杉原千畝。 杉原が赴任したとき、ヨーロッパ各地でナチスドイツの勢力が拡大し、その支配地域ではユダヤ人が次第に行き場を失いつつあった。(さらに、しばらくあとホロコーストがはじまるのであった。)ユダヤ人にとって、唯一の安全な場所がオランダ領キュラソー島だったのだが、ここへたどりつくために、ソ連と日本の通過ビザが必要であった。ソ連のビザは日本のビザがあることを条件に発行されたので、日本のビザを入手したいユダヤ人が大勢、カウナスの領事館に集まった。 杉原は、当初、外務省の指示どおり、ビザの発行をしなかった。外務省は当時の同盟国ドイツとの関係などに配慮したのであろう。しかし、杉原は悩みぬいた末、日本の通過ビザを外務省の指示に反する形で発行しはじめた。連日、手書きでビザを発行した。そのビザを使って、ソ連、日本経由で安住の地に向かえたユダヤ人が約6000人なのだ。 杉原は、ユダヤ人に対する通過ビザの発行を、日本の外務省の反対を押し切る形でおこなった。そのため、戦争が終わって帰国後、その責任を問われることになった。すでに、戦争が終わり、日本が大きく変わっていたというにもかかわらず。 その後、彼は、「日本のシンドラー」として、イスラエルから表彰され、またその名が世界に知れわたった。日本でも、広く知られるようになり、劇団「銅鑼」による演劇「センポ・スギハァラ」が上演されたりした。(この演劇は今も演じられているロングランである。)それでも、日本の外務省の対応は冷たかった。彼は1986年に没した。 彼の記念館が、生地である岐阜県南部の木曽川沿いの町、八百津町にある。この記念館がオープンしたのは、2000年7月30日。私がバルト三国などの旅に出発した直後だったが、新聞でオープンのことはわかっていた。それで、カウナスの旧日本領事館などを見学して帰ってきた、その数日後、私は杉原千畝記念館を訪問した。 記念館ができてからしばらく後の2000年10月、当時の河野外務大臣が遺族に対して謝罪し、外交記念館に杉原の記念碑を設置しその除幕がおこなわれたことを新聞で知った。ようやく、日本が国として、杉原の行動を認めたのであった。 (これが、可能だったのは、河野さんが外務大臣であったから可能だったという面も大きいんじゃないかと思う。) |