3   糸 満 市 の 戦 跡

 

 7時からホテルの朝食をとり、食事後、すぐに出発する。行先は、本島最南部、糸満市にある戦跡だ。

 

 

 

  

 
 泊まっていた東横イン美栄橋店は、ゆいレールの美栄橋駅の端からは、ごく近い。駅の入口は、この反対の端にあるので、歩く距離はもう少し長いのだけれども。国際通りに近いこともあり、また使ってもいいホテルだと思った。
 
 旭橋で下車。那覇バスターミナルは駅のすぐそばにあって便利だ。那覇のバスターミナルは、沖縄の主なバス会社がみな使っていて、どこに行くにしてもここが起点になっている。

 路線バスのターミナルとしては、日本有数の規模だと思う。そして、どことなく中国や韓国、東南アジアのバスターミナルと共通する雰囲気があるのだ。

 糸満バスターミナル行きは89系統。頻発していて便利だが、休日はやや少ない。

 

 ここでちょっとした失敗。ターミナルには糸満行きの表示があったので、そこでしばらく待ち、来たバスに乗車。(→の屋根のついている乗場から)

 乗車したバスは、開南、与儀十字路、壷川と回り、何とバスターミナルに戻ってくるのだ。そして、道路をはさんで、乗車した反対側のバス停に止まるのだ。そして、そこからたくさんの人が乗車してきた。(→の写真は、道路をはさんだバス停に停車中に撮影)

 10分あまり、遠回りして元にもどっただけだ。最初からわかっていれば、反対側のバス停にいったのだけれども、、

 
 30分ほどで、糸満バスターミナルに到着。糸満市の中心部を突き抜け、海岸の近くにある。

 

 

 

  

 
 乗車してきたバスは、再び那覇行きとなって戻るようだ。
 
 
   ↑は糸満発の時刻表。平和祈念公園へ行くのは82番、ひめゆりの塔へは82のほか107、108も行く。(2008年1月現在の時刻表です。あくまで目安として御覧ください。)

 この日は休日で、特に本数が少ない。糸満に着いたのは8時20分ごろで、すぐにひめゆりの塔に行く108番がくるが、そのあとで平和祈念公園に行くことを考えると、滞在時間が30分か1時間30分になり、30分は短く、1時間30分は長いと思ったので、8時30分の108番は見送り、9時の82番で、まず平和祈念公園に向かうことにした。

 

 25分ほどで平和祈念公園に到着。まずは、帰りのバスの時刻を確認。11時5分のに乗ることにしよう。本当は2時間ほどあれば、ちょうどよかったのだが、仕方がない。(2008年1月現在の時刻表です。あくまで目安として御覧ください。)

 

 

 平和祈念公園は、沖縄戦の最後の激戦のあった摩文仁の丘のほぼ全体が公園になっているものでとても広大だ。

 まず、目につくのが、平和祈念堂。

 

 内部の中心に安置されている平和祈念像。また、像を取り囲むように、平和をテーマにした絵画が展示されている。

 

 
 次に、平和祈念資料館へ。赤瓦を使った建物。展示のボリュームはかなりあり、ゆっくりと見ている時間がなかったので、また訪問したいと思っている。沖縄戦での、兵士による住民に対する自決の強要などの展示に注目したが、何せ時間がなく残念だった。
 
 資料館の南側には魚雷などの実物展示があり、さらにその南側には、広い公園になっている。
 
 その南側は、絶壁でその下は海になっているが、危険防止のため、投身した人も多いという絶壁をじかに見ることはできない。
 

 公園内には、沖縄戦の戦没者の名を刻んだ碑がたくさんならんでいるところがある。平和の礎(いしじ)だ。 

  

 
 この碑の名前は、戦没した米兵の名も刻まれている。
 

 さらに、さまざまな慰霊碑が並んでいるエリアがある。多くは県別の慰霊碑だが、県別以外の慰霊碑もある。また、県別の慰霊碑は30ほどで、全部の都道府県のがあるわけではない。 

 
 慰霊碑のエリアの一角に、戦没者の墓苑があった。ここに遺骨がおさめられているという。
 

 慰霊碑のエリアを十分に歩けないまま、バス出発の15分前になったのでバス停に向かった。

 1時間30分では時間不足だった。今度は3時間くらいかけて、また訪問しようと思った。

 バス停に駆け込み、何とか、糸満行きのバスに乗れた。今度は、ひめゆりの塔まで10分ほどの乗車。

 
 
 
 バス車内で、つり広告のようにしてお知らせがあった。

 冬季の冷房を中止するとのお知らせだ。むしろ、冬季にも気温によっては冷房を入れていたのだということのほうが、新発見であった。

 乗車した日は、結構暑くて、確かに弱い冷房があったほうがいいかなと思ったが、お知らせの通り、冷房ははいっていなかった。

  
 

 ひめゆりの塔前で下車。すぐ塔があった。

 ひめゆり部隊は沖縄師範学校女子部と第一高等女学校の生徒で構成されていた。 1945年5月25日に撤退命令が出た南風原陸軍病院から南下し、この付近の壕にひめゆり学徒は配属された。6月18日、部隊が解散された。死者の多くは解散後の避難中にでた。

 塔の前には、第三外科壕があり、ここに多くの生徒が集まっていたが、ここにガス弾が打たれ、多数の死者がでている。

 
 壕の中を柵ごしにのぞいてみたが、思っていた以上に、深く険しいものだった。出入りをどのようにしていたのだろうかとか、当時の周囲の様子はどうだったのだろうかとか想像してみた。

 かつては、ここには塔があっただけだったが、1989年に師範学校と高等女学校の同窓会によって資料館がつくられた。学校の様子や悲劇を語る証言などの展示がされている。

 

 ひめゆりの塔の前の付近と、帰りに乗車したバス。

 
 糸満に戻る途中の車窓の一コマ。
 

 糸満に着いたのは、13時すぎ。食事のできる店がなかなかみつからず、ようやく見つけた店で昼食。

 パ−ラーぜんざいや、という店で、食後はぜんざいを注文しようと入ったのだが、はじめに注文した、フーチャンプルのボリュームが多く、ぜんざいまで食べるのはあきらめた。

 フーチャンプルは、大きな麩と卵をとじたものと野菜の炒め物。

 
 糸満から89番のバスで那覇に戻る。ゆいレールの赤嶺駅で降りようと思っていたが、居眠りしてしまい、結局、バスターミナルまでバスに乗車。旭橋からゆいレールで空港に向かった。

 那覇からは、神戸空港行きの便で帰った。

  

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