灼熱のウズベキスタンを行く(5)

【ブハラの朝】

 ぐっすり眠ったものだ。目覚めたら7時。熱地獄バスでの疲労も何とかとれたようだ。窓の外はすでに日差しがきびしくなっていた。窓は歴史地区とは反対側についていたので、窓から見えるのは民家ばかりである。ほとんどの民家は、平屋建てで、白っぽい土で作られている。

 まずはシャワーで寝汗を落して、さっぱりする。そして昨夜に続きお菓子を食べながら、今日のコースについてもう一度検討を行っておく。昼頃までには、一筆書きのコースで主なみどころを見て回れそうだ。

 イタリア人の部屋はノックしても返事はなし。まだ寝ているのだろうか、もう出発しているのだろうか、はたまた、警戒して返事をしないのだろうか。自分の階をしきっているおばさんの部屋をのぞくが、おばさんは不在。レギストラーツィアをもらうつもりであったのだが、午後にホテルに戻ったときでも、明日の朝でもいいと考え、ひとりでブハラ観光に出発。

 薄暗く、陰気なホテルを出ると、すでに真昼と同じく強い日差しだ。雲はひとつもない。湿度が低いので、ほとんど毎日、雲ももられないのであろう。外に出た途端に汗が出てきた。今日も一日、暑さとの戦いだ。

 ザラフシャンホテルをはじめ、多くのホテルはブハラの中心から南に行ったところにあった。それで、タクシーで歴史地区まで向かおうとしたのであるが、ザラフシャンホテルの前にタクシーが待っているはずはない。歩きながらタクシーを捜し、拾えなければ1キロほど離れたオールドブハラホテルまで行って、そこからタクシーに乗ることにした。途中、ニューブハラホテルのそばを歩く。パッケージツアーでは、ここを利用する場合が多いようだ。新しくて快適そうなホテルだ。

 ところが、オールドブハラホテルでも客待ちのタクシーはなく、きついでに、歴史地区まで歩いて行くことにした。2キロほどであるが、炎天下のもとでは、つらいものがある。

 オールドブハラホテルの北側がブハラの中心部である。大きな公園に面して、旧共産党や市役所の建物などが並んでいる。公園には噴水があり、水が飛び散っていた。思わず、手足を水に当てて、涼をとる。

 公園の端から歴史地区に行くには、遠回りだけどわかりやすい幹線道路を通って行く方法と、近道だけどわかりにくい民家の密集地帯のなかの路地裏を通って行く方法がある。早く歴史地区にたどりついきたいので路地裏コースを選んだ。民家の様子を見てみたいという事情もあった。

 子どもが遊び、おとなは仕事や家事をしている中を、迷いつつ歩いた。ザラフシャンホテルから公園までは、ほとんど道を歩く人もいなかったのであるが、路地裏には人があふれていた。シャツ姿あり、民族衣装あり、裸もある。足元も、短靴あり、長靴あり、スリッパあり、裸足ありと、いろんな姿をしている住民を見ることができた。

 民家のなかには、扉が開け放しになっていて、家の中の様子が見えるようなところもある。あまり豊かではない生活ぶりが想像される。

 歴史地区の端には、四角形に石垣で取り囲んだ池があった。そうした池をハウズという。ここのハウズを中心にした広場は、ラビハウズと呼ばれている。ハウズの回りには、オープンレストランが何軒かあった。レストランの座席の一部は、椅子席ではなく、縁台のようなものの上に座るようになっていた。また、レストランとは無関係の縁台もあった。

 その縁台に人だかりがしていた。たくさんの男が上がりこみ、茶を飲み、ゲームをやったり、わいわいと賑やかにおしゃべりをしていた。ほとんどは年配の男たちである。



 ハウズが人々の憩いの場、社交の場になっているのは、いかにもオアシスの町らしいことである。かつてはたくさんのハウズがあったらしいが、この地の革命のあと、旧ソ連時代に大部分は埋められてしまって、現在は6つが残されているだけである。

 暑さのあまり、自分もハウズの回りの木陰でちょっと腰を下ろして休憩した。何とかホテルから歩いてきたのだが、これから観光だというのに、少々疲れてしまった。


【ブハラを散策1】

 ハウズのすぐそば、木立に隠れるようにして、ナーディル・ディワンベギのマドラサがある。入口は青を基調とした色タイルでおおわれているのだが、よく見ると絵が描かれている。二羽の鳳凰が飛んでいて、それらにはさまれて太陽が描かれているのだが、太陽の中には顔が描かれている。偶像崇拝を禁止しているイスラム教にあっては異例のことである。




 中へ入ると、中庭を取り囲むようにして並んでいる部屋が土産物屋として使われている。売り子も暑いためであろうか、品物を見ていても、あまり熱心には売ろうとはしない。自由に品物を見て行けるので、ひととおりほとんどの店を見て回った。土産物はサマルカンドで買う予定にしているので、今日はどんなものがあるのか見て回るのが目的なのである。


(コカルダシュのマドラサ)

 続いて、ターキ・サッラファンへ。とはいっても、ここは行くつもりがなくても通らなければならないのだ。つまり、道路をおおうような形で、建物が建っており、その建物の中を道路が通っているのだ。

 建物の中に入っていくとトンネルの中のような感じでうす暗い。天窓がいくつかついているのだが、あまり光線は入ってこないようだ。中には、道路の両側に店が並んでいて、民族衣装、じゅうたん、本などいろいろ売っていた。

 らくだに乗った人が、そのまま通過できるように、入口や屋根の高さは高く作られている。また、建物にはドームがついていて小さなモスクのような感じもするので、知らない観光客だったら、このまま入っていってもよいのかどうか迷うかもしれない。

 さて、ターキとは、かつてはバザールとして使われていた建物のことである。道路を歩いていくと、そのまま建物の中に引き込まれて、そこがバザールになっているという具合だ。ターキ・サッラファンとは、両替市場という意味で、かつては両替屋が並んでいたのだろう。このあと、通常の観光コースを歩いていくと、さらに、ターキ・テルパックフルシャン(帽子市場)、ターキ・サルガラー(宝石市場)というのがあって、それぞれ中ではいろいろなものを売っていたらしい。



 ターキ・サッラファンの中には、ジュース屋もあり、そこでジュースを一杯注文した。ジュース屋はタシケントやヒワでも見かけていたし、ブハラでもこの日、ここまで歩く間に何軒かの店を見ていたのであったが、どうも怪しげなジュースであったので、飲むのを控えていたのだ。

 ガラス製のコップが、飲みまわしになっていて、一応、洗浄機のようなものがあって、使い終わるとコップの中を洗い流すのであるが、その程度では気持ち悪かったのである。だが、すでに、ヒワにいたときから腹具合がおかしくなっていたので、どっちみち腹具合が悪いのだとか思い、思いきってジュースを飲んでみることにしたのだ。

 カウンター上に高さ1mくらいのガラス管がおいてあって、その中に濃縮ジュースが入っている。客がくると、そのジュースをコップに少し入れ、続いて、別の注ぎ口から炭酸水を入れて出来あがりなのだ。色は、茶色が多いのだが、その後、緑色、赤色、青色の濃縮ジュースの入った管が立ててある店もある。店によっては、3色置いているような店もあった。

 値段はどこで飲んでも共通で、一杯20cym(約6円)、味は炭酸水に甘味がついている程度。炭酸水だけでも売っていて、その場合は、一杯10cym(約3円)。しつこくなくて、味が口の中に残ることがなく、さっぱりとしているので、最初の怪しげだと思っていた警戒感はどこへやら、このあとも、いたるところでこのジュースを飲んだのだ。

 ターキ・サッラファンを抜け出ると、そこはかつてのキャラバンサライの跡で空き地になっていた。空き地はかなり大きく、そばにあるターキ・サッラファンよりも大きい。ターキでいろいろなものを売るためにやってきた商人たちは、このキャラバンサライを宿としたのであろう。ブハラには、キャラバンサライが100以上あったという。



 ブハラにはキャラバンサライの跡がほかにもいくつか残っているのであるが、建物自体は残念ながら残ってはいない。ヒワで見たキャラバンサライを思い出して想像するしかない。相当な数のらくだが、ブハラにやってきて、キャラバンサライでつながれていたのであろう。


【ブハラを散策2】

 ターキ・サッファラン(両替市場)をぬけ、キャラバンサライの跡を過ぎると、またまたターキ・テルパックフルシャン(帽子市場)だ。ドーム状の建物が道路をまたいで建っており、内部にはいろいろな店が出ている。

 ここを出ると、またまたキャラバンサライの跡。今は、土産物屋が露店を出している。その向かいには、アブドゥラアー・ハーンのティム。ティムというのもバザールの機能を持って、内部が小部屋にわかれている建物なのだが、ターキが道路の上に建てられているのに対して、ティムは普通の建物と同じく道路に面して建てられている。どういうわけか入場することはできなかった。

 ティムを過ぎると、またしてもキャラバンサライの跡。今は、広大な花壇になっている。花の名前はわからないが、赤、黄などの鮮やかな色をした花が一面に咲き乱れている。乾燥地帯ゆえ、水をやることが、花壇を維持するうえでの難問なのだが、ここでは大型のスプリンクラーで水まきをおこなっていた。

 やがて、ターキ・ザルガラーン(宝石市場)。また、道路の上に建っているバザールだ。こうしてみると、ブハラの旧市街地の中心部は、ターキやティムといった往時は周辺諸国からたくさんの人が集まったであろうバザールと、そこにやってくる人のためのキャラバンサライの跡がほとんどを占めているのである。


 ブハラが一国の首都として繁栄したのは二度ある。まず、9世紀から10世紀にかけてのサーマーン朝の時期。もう一度は、16世紀から20世紀初頭にかけてのブハラ・ハーン国の時期。このうちサーマーン朝の時期の建築物で残されているは、あとで見にいく廟だけである。それ以外の、ターキ、マドラサ、モスク、ミナレットなどはすべてがブハラ・ハーン国の初期のもののようだ。

 ブハラ・ハーン国が繁栄した当時、今のウズベキスタンには、すでに旧市街を見てまわったヒワ・ハーン国、このあとで見に行くコーカンド・ハーン国もあって、三国が競っていたのだが、三国のなかではブハラ・ハーン国が最も繁栄し、ブハラは中央アジア全体の中心地のようだったのだ。

 今は、中央アジアの首都といえるのはタシケントだし、この地域から興隆した国のなかで最強の国であったティムール帝国の首都はサマルカンドだが、ここブハラも16世紀から20世紀初頭にかけては、中央アジアの首都の役割を演じていたのだ。そう考えながら、残された建造物を見ていると感慨深いものがある。

 さて、ターキ・ザルガラーンを越えしばらく歩くと、カラーン・モスクとミーリ・アラブ・マドラサが向かい合っている広場に出る。疲れてしまったこともあり、ミーリ・アラブ・マドラサの入口のあたりに腰をおろす。青色のタイルで装飾されたカラーン・モスクの入口を心行くまで見つめる。


 カラーン・モスクは、16世紀に造られた巨大なモスクで、ブハラで最大のモスクだ。中に入ると、外からは見えなかった青色のドームが姿をあらわす。強い日差しをさけるため、中庭は歩かず、中庭を取り囲んでいる廊下を通って、ひととおり見学する。今や、この地のイスラム教の拠点になっているようだが、ソ連時代は、このモスクは穀物倉庫として使われていたらしい。


 カラーン・モスクに隣接して、カラーン・ミナレットがそびえている。遠くから見ると、土色のれんがを積み重ねたようにしか見えないが、そばまで行ってよく見ると精密な彫刻が施してある。ここにあがれば、ブハラの市街地がよくわかるはずなのであるが、開放はされていない。高さは46mあり、ブハラでは最も高い建造物である。遠くからやってくる隊商は、このミナレットを見てブハラに近づいたことを実感したことだろう。



 ブハラ・ハーン国の時代、このミナレットは死刑にも利用されていたという。死刑囚を袋につめ、ミナレットの上から落とすという方法である。19世紀の末まで、こうした死刑がおこなわれていたらしい。

 広場を挟んで、カラーン・モスクの対面にあるのが、ミーリ・アラブ・マドラサ。外から見ると、入口はカラーン・モスクと同じ造りになっていて、青色のタイルで装飾されている。内部は、ほかのマドラサと同様、中庭を取り囲むように二階建てになって、部屋が並んでいる。

 ブハラに多数あったマドラサ(神学校)の大部分は、ソ連時代には閉鎖されていたのだが、このミーリ・アラブ・マドラサだけは、閉鎖を間逃れ、細々とであろうがイスラム教指導者を養成していたらしい。


【ブハラを散策3】

 カラーン・モスクをあとにして、アルク(城砦)へと向かう。途中には、土産物屋が並んでいる。ジュース屋もあり、またまた、怪しげなジュースを一杯。この手のジュースにもためらいはなくなってしまった。

 子どもの物売りが、鳥のおもちゃを売っている。子どもが物売りをしなければ食べていけないのであろう。そんな子どもの姿をじっとみつめたところ、子どもは、自分が鳥のおもちゃに関心を持っていると勘違いしたようで、おもちゃを持って追いかけてきた。かわいそうに思ったのだが、子どもの手を振り払って、その場を立ち去った。

 やがてアルクに到着。アルクの前は広大な広場になっている。ここでは、かつて、見せしめのために、斬首による死刑が行われたり、戦いで敗れた国の住民を連行してきて奴隷として売ったりと、忌まわしい歴史を持っている場所なのだが、現在では広大な美しい花壇になっている。



 ここの花壇は、さきほど、キャラバンサライの跡地で見た花壇よりさらに広い。一面の大花壇である。手入れをするのはたいへんな労力だろう。水もたいへんな量が必要だろう。すでにこの日は6kmを猛暑の中歩き、最悪の体調になっていたが、きれいな花を見ながら、水を飲んで一服して、もう少しがんばって歩き回ろうという気になった。

 アルクは高さ10mはあろう垂直の壁に囲まれていた。石畳の細く傾斜のある坂道を上がって城の中に入る。坂道の途中で入場券を購入するのだが、入場券を売っていることに全く気がつかなかった。なぜなら、坂道の両側には、露店が出ていて土産物を売っていて、そうした露店のなかに混じって、道端で入場券を売っていたからだ。おばさんが大声をあげたのだが、それも入場券を買わなかったからとは最初はわからず、単に、土産物を買わずに行ったから文句を言っていたのかなと思ったのだ。



 ようやく入場券を買わなかったと気づいて、坂道を戻って購入。ヒワの場合と同じく、ザラ半紙に日付や金額などを書きこむようになっていて、手間のかかる発売方法だ。300cym(約90円)。

 この場所にアルクはかなり古い時代からあったのだが、いつからあったのか定かではない。チンギス・ハーンがこの地を攻めたさいにはすでにあって、ここにたてこもった多くの人たちが皆殺しにされたということだ。

 だが、現 ンの・ルクは16世紀に再建されたものだ。そして、ブハラ・ハーン国の時代に王の居城となっていたのである。王だけではなく、多くの役人や軍人、それになぜか一般市民も住んでいて、その数は約3000人だったということだ。

 アルクの上からは、ブハラの市内を見渡すことができる。かなり樹木の多い町である。とはいうものの、ここは砂漠の中の一都市でもある。砂漠の中に、樹木の多いオアシスが浮かんでいるのだろう。オアシスというと、泉があって、隊商が休んでいるような姿を思いうかべるのであるが、実際のオアシス都市は、ずっと規模が大きく、都市の中にいるだけでは、オアシス都市とほかの都市との違いがはっきりわからない。

 アルクの中の部屋の一部分は、歴史博物館になっている。古代の発掘物から始まって、ブハラ・ハーン国の最後のころの写真まで見るべきものは多い。なかでも、水を運ぶために使った皮製の袋が珍しい。袋は、リュックのように背負って歩けるように紐がついている。

 20世紀初頭の写真を見ると、ずっと大昔へとタイムスリップしたかのような印象を受ける。建物、衣服、らくだとかロバに乗った人、とこれがつい100年ほど前の姿だったのかと驚く。また、そのころピアノなんかも置いてあって、西洋文化も徐々に入り込んでいたことを示している。

 一番の見所はハーンの部屋であるのだが、残念ながら、その部屋へ行くまでの途中の通路が工事中のために見に行くことができなかった。もう、ここへは二度と来ないかも知れないだけに残念なことである。


(炎天下の露店も布を商品にかけていた)

【ブハラを散策4】

 アルクを出るとすでに13時。延々とブハラの町を4時間も歩きまわっていたことになる。ブハラの歴史地区は、ヒワの歴史地区よりもかなり範囲が広くて、端から端まで歩くと2kmくらいはある。しかも、みどころか散らばっているので、真夏に歩くのには、結構つらいものがある。

 実際、あまりの暑さと疲労のため歩くのがもう嫌になっていたのだ。これ以上の無理は健康上、望ましくないことが自分でもよくわかる。このあたりで、ホテルに戻ってシャワーを浴びて、ひと休みしたほうが身体のためになるだろう。でも、明日はサマルカンドへ向かう予定だ。ブハラで見学したいところは、多少無理してでも見ておきたいのだ。

 アルクを出たところで日本人観光客の一団に出会う。ソウルからの飛行機、ウルゲンチへの飛行機、ヒワのイチャンカラで一緒になった人たちだ。どこまでも出会いつづけるので、苦笑いしながらその人たちを見ていたら、一団の人たちのなかにも気づいてくれた人がいるらしくて、会釈してくれた人がいた。サマルカンドでは、少し長く滞在する予定であるので、この人たちと一緒になるのも、これが最後であろう。

 結局、アルクの近くには、かつての城壁が一部残っていたり、ズィンダンという監獄のあとがあるのだが、あまりの暑さにまいってしまったため、見学をカットすることにした。ブハラを訪れることは、もう一生ないかもしれないだけに、ちょっと後ろ髪を引かれる思いはあったが、見に行くだけの気力がなかった。タクシーをひろい、ホテルに戻る。

【ザラフシャンホテルで一休み】

 ザラフシャンホテルまで戻り、いったん玄関まで行ったのだが、再び引き返す。ホテルの部屋に戻ってから食べようと、テイクアウトできる食べ物を探しに、近くの店がありそうな場所まで歩いていくことにしたのだ。無理はしてはいけないとわかりつつ、もう少し歩くことにした。少し歩いては、しばらく休んで、ボトル入りの水を飲みながら。

 ホテルから500mくらい離れたところで、大きな建物の中に、いろいろな店が入っているマーケットを発見。いろいろなものが売ってあって、ミニバザールのようである。中は超満員、そしてすごい熱気。疲れきった身体にはこたえた。しかし肝心の食料品は扱っていなっかった。

 で、その建物の入口の路上の屋台でピロシキのようなものを売っていたので購入することにした。これは、ロシアの影響なのだろうか。それとも昔からあった食べ物なのだろうか、関心を持ったのである。

 とはいうものの、食欲があまりなかったので、1個だけ求めて、ほかに別のものを1個買おうと思い、ピロシキを指差しながら、とりあえず100cym(約30円)を渡してみた。すると4個もつつんでくれ、これだけでも食べるのに苦労しそうだ。

 あつあつで持つのも大変なのだが、つつんでくれた紙は、薄いザラ半紙。すぐに油が染み出てきたので、持参してきたビニール袋に入れてテイクアウト。

 再度、ザラフシャンホテルに戻る。相変わらず、昼間だというのに薄くらい内部だ。廊下の明かりは昼間は消されていて、部屋のナンバープレートのよく読み取れないありさまだ。自分の部屋にたどりつくだけでも苦労した。

 部屋に戻るとすでに14時を回っていた。すぐに寝転びたいところであるが、まずは、トイレにシャワー。腹具合は依然として良くはなっていない。シャワーで汗を流してさっぱりとしてから、ベッド
に腰掛けて一服。

 何も食べないのは身体にはよくない。それで、ピロシキを2個だけ食べる。結構、あんがたくさん入っている。羊肉であることをのぞけば、日本で食べたことのあるピロシキを味はそっくりだ。窓は開けているのだが、風の入りは悪く、たいへん暑い。紙で扇ぐのだが、焼け石に水。こんなところまでやってきて、どうして苦しまなくてはならないんだ、と憂鬱な気分。

 ほどなく、ベッドで横たわり、途端に寝入ってしまった。昼寝で熟睡することはなかなかできないのであるが、このときばかりはここ数日疲れがたまっていて、深い眠りについた。

 気がつけば17時前。夕食のために外出したいのだが、なかなかおきあがることができない。だらだらとベッドなかで過ごすこと1時間。18時になって、思いきってようやく重い腰をあげ、外出することにした。

 食事は、今朝、旧市街地のハウズのそばで見た屋外レストランでとることにして、途中、チャール・ミナルを見たいので、また歩いて行くことにした。さいわい、元気は回復し、なんとか歩けそうであった。

 ホテルから2kmをゆっくり歩く。ハウズの東、民家に囲まれるようにして、チャール・ミナルはあった。チャール・ミナルとは、4本の塔という意味で、4本の尖塔のあるマドラサなのだ。「遥かなり流砂の大陸」という本によると、この著者が1992年に訪れたさいには4本あった尖が、1995年には3本になっているということで、その本には、3本の尖塔を持つ建物の写真ものっている。



 だが、すでに4本の塔を持つ建物に修復されていた。この本には、残りの3本の尖塔もなくなるのではないかという不安が述べられていたのであるが、その心配はもうない。入口はかたく閉じられていて、中を見ることはできない。

 チャール・ミナルからハウズへは、ごくわすかの距離だ。民家の軒下を通るような路地を歩いていくと、突然、広場に出て、そこがハウズのそばの広場であった。


【ブハラの夕べ】

 ハウズ(池)のそばには何軒かの屋外レストランがある。テーブル席だけではなく、ウズベク風の桟敷もいくつかおかれていて、そちらに上がって座る。疲れが激しくて、それほど食欲もないので、シシャリク、サラダ、ビールだけを注文。

 シシャリクにはいくつか種類があって、店によっても少しづつ違いがある。どのシシャリクかと聞かれているようなのだが、どう言えばよいのかわからない。それで、肉を焼いているところまで行って、指差しすることにした。

 焼いているところに近づくと、焼肉独特の匂いがただよい、炭火のうえで串にさした肉を焼いている姿を見ると日本の焼き鳥屋にそっくりである。焼いている人がうちわのようなものであおいでいるのだ。

 羊肉のぶつ切りを串にさしたもの、レバーのようなものと脂身を串にさしたもの、ミンチ状にしてだんごをつくりそれを串にさしたものの3種類あるようだった。1本の串には、肉が5,6ケさしてある。で、それぞれの種類を2本づつ注文。足らなければあとで追加することにした。

 しばらく、ハウズを見ながら時間をつぶす。しだいに日が暮れてようすがよくわかる。それとともに、暑さも和らぎ、心もち涼しくなってきたようだ。待つこと20分。

 焼きたてのシシャリクを食べる。きょう一日、あまり食事らしい食事をしていなかったため、かなり空腹であったことも手伝い、たいへんおいしく感じた。適度にスパイスがきいていて、好みの味付けである。妙な臭いもしないし、肉が柔らかい。

 サラダは、ヒワのホテルで毎食だされたのと同じくトマトのサラダ。酸味のきいたドレッシングがかけてあるので食欲がすすむ。シシャリクとはとてもよい組み合わせだ。あっという間に一皿あけてしまったので、もう一皿追加で注文。

 ビールはウズベキスタン製の国産ビール。何というブランドなのか読みとれない。コップにビールを注ぐと、濁っているような感じだ。日本のビールのように透き通っていないのだ。味のほうは、かなり薄いようだ。日本では、ビールには分類されず、発泡酒になるのではないだろうか。

 シシャリクを食べて元気が出てくると、もっと食べてみたくなってきた。そこで、ラグマンを注文。言葉が通じるか心配だったが、うまく通じたようで、ヒワのホテルで食べたのと同じような羊肉入りのうどんが運ばれてきた。大きな羊肉の塊が入っている。熱い麺とスープを、息をふきかけながら食べたら、すっかり汗だくになってしまった。

 かなりお腹も一杯になったので、ホテルに帰る。ハウズのそばの広場は、歴史地区まで運んできた客を降ろしたタクシーが待機している場所であることを、先ほど確認したので、そちらへ向かう。タクシーが何台も客待ちしていて、すぐにタクシーに乗ることができた。

 20時すぎにホテル着。明かりが少なく、不気味で歩きにくい廊下を部屋に向かう。途中、自分の部屋のある3階をしきっているおばさんの部屋をのぞいてみるが、人の気配はない。レギストラーツィアを今夜のうちにもらっておこうと思ったのだが、おばさんがいなくてはどうしようもない。翌日の出発時にもらうというのはあわただしい感じで避けたかったのだが、やむを得ない。翌日もらうことにした。

 部屋に戻ると、日中の暑さがこもっているような感じだ。外がかなり涼しくなっているというのに、部屋の中は暑い。おまけに、トイレの臭いが少々しているのがつらい。

 シャワーで汗を流したあとは、明かりを消したうえで、窓を全開にする。横になって、翌日のコースなどを考えていたのだが、自然と眠りにはいっていた。