灼熱のウズベキスタンを行く(7)

【朝食時の不愉快な扱い】

 サマルカンドの朝。自室の窓から、市街を一望できる。高層建造物こそほとんどないものの、かなり大きな町であることが手にとるようにわかる。青いドームで名高いこの町も、一見しただけではどこに青いドームがあるのかよくわからない。昼間はまた暑くなるのに決まっているが、朝方の空気はすがすがしい。

 この国やってくる以前には、サマルカンドと聞くと、のんびりといしたオアシス都市で、町中がシルクロードの香りにつつまれていると思っていた。この予想は、おおいに間違っていた。町全体としては、近代都市に変身していたのだ。レギスタンはじめ、点在するみどころの部分へいって、シルクロードにやってきたと実感できるのだ。とはいうものの、それぞれのみどころは圧巻だ。

 朝食後、そのままホテルの外へすぐに観光にでかける予定であるので、鍵を自分の階の担当のおばさんに預けてからレストランへ。朝食は8時からと聞いていたので、8時にいったら、レストランはすでに満員。自分も早くから起きていたので、もっと早くレストランに行けば良かったと後悔。

 大きなレストランでは、ウズベク人らしい一団が食事中。ウズベク人の男性は、独特の模様の入った黒くて四角い帽子うをかぶっているのですぐにわかる。かつては、サマルカンドホテルが外国人観光客おきまりの宿であったのであるが、今やウズベク人の利用も多いのだ。

 席を求めて奥の部屋に入っていくと、外国人も食事をしている部屋があり、空席を見つけた。白人がほとんどである。ロシア系らしい人たちが多いが、西欧系らしい人たちも多い、などと思って見渡していたら、なんと、ヒワのホテルで一緒に食事をしたイタリア人のグループがいるではないか。手をあげて合図を送ると、相手も手をあげてこたえてくれた。韓国人らしい若い女性のグループもいる。しかし、日本人のグループは見当たらない。日本人のパッケージツアーの場合は、たいていアフラシャブホテルを利用するのであろう。

 この部屋に入ってきたところを従業員が見ていたので、すぐにサービスをはじめてくれるものと思っていたら、なかなか皿もフォークもチャイも持ってきてけれないので、いらいらさせられる。ようやく、ナン、ヨーグルト、チーズ、それにピロシキ風の揚げ物がならべられる。チーズは、味がうすく、乾燥していて口にあわない。羊のチーズなのだろうか。ヨーグルトも、羊のものなのかよくわからないが、粘り気がかなりあって、砂糖かジャムをたっぷり加えてかきまわせて、スプーンですくって食べる。こちらは、なかなかおいしい。

 ピロシキ風の揚げ物は、ミンチ状にした羊肉がどっさり入っていて、ボリュームがある。それも2個。揚げたてらしく、暖かいのも良い。だが、疲れがとれていないこともあり、朝から脂っこいものがなかなかのどを通らない。せっかくの料理であったが、ひとつ食べるのがやっとであった。まわりの客の席を見て、早く目玉焼きとジュースを持ってこないか、チャイを飲みながら、じっと待っていたのでのあるが、これまたなかなか持ってこない。

 手をあげて合図をしても無視され、席をたつ。このときかなり不愉快に思っていたのだが、食事していた部屋から出ようとすると従業員が朝食券を見せろという。全員の客に見せるようにいっているのならわかる。だが、自分以外の客に見せるようには要求していないのに、見せろ、とは一体どういうことなのか。ますます不愉快に思って、レストランを後にする。だが、どうももやもやした気分のままである。

 この際、はっきりと抗議しておくほうが良いと思って、フロントに昨日、受け付けをしていた女性がいたので、抗議する。「自分には、目玉焼きとジュースをサービスしてくれなかったし、自分にだけ朝食券を見せるように要求された。不愉快なので、翌日の朝食はキャンセルしたい。」と伝える。

 女性は、「自分と一緒に、レストランの担当者と話しをしよう」という。ロビーでしばらく待っていると、レストランの責任者がでてきて、不手際を謝ってくれて、納得する。すぐに、目玉焼きとジュースを作るといってくれたのだが、いまさらという感じもしたので、翌日も朝食をとるから、きちんとサービスしてほしいと伝え、その場をおさめた。おかげで、すっきりとした気分になって、ホテルから出かけることができた。

【グリ・エミル廟】

(ルハ・バート廟)

 10時にウズベキスタン航空事務所に行かねばならないので、それまでに、ホテルのすぐ近くにあるグリ・エミル廟を見学することにした。グリとは墓、エミルとは支配者という意味だ。ここは、チムール帝国の王家の墓が収められているのだ。眠っているのはチムール、シャー・ルフ、ウルグ・ベクの三代の帝王やその他のチムールの子や孫などである。

 チムールの墓が収められている廟にしては、いささか小さく感じる。まわりにほかの建物が少ないので、見とおしは良くてすぐにわかるが、大帝国を築いた人物の墓とすればもっと大規模なものであってもおかしくはない。廟の建物を取り囲んでいた外側の建物が、玄関を残してなくなってしまっていることも、小さく感じさせる一因になっている。玄関のほかは、低い石垣で囲まれているだけである。

 元来、この廟は、15世紀初頭、チムールが存命中に、孫が戦死したので建てたものなのだ。ところが、翌年、チムール自身が急死ししてしまい、この廟に葬られることになったのだ。



 この廟のドームは建物の大きさに比べてみて高くなっている。これは、ドームが二重になっているのだ。内側のドームは、それほど高くなく、外側に、高くてよく目立つドームがつけたされているのだ。

 玄関や廟の側面は美しい青のモザイクで飾られているし、内部も金箔をふんだんに使って彩られている。ただ照明が少ないので、見落としてしまいがちである。

 ソ連崩壊後、この国ではチムールの評価が大きく変わり、非道な残虐者というレッテルがはがされ、民族の英雄となったが、その関係もあって、廟を建設当時の姿に戻す作業がおこなわれているのだ。訪問したときも、チムールなどの墓標が並べられているすぐそばの壁面の補修工事がおこなわれていた。

 墓標はたくさん並べれているのだが、ひとつだけ黒い石で作られたものがある。これがチムールの墓標なのだ。石棺自体は、墓標のおかれているすぐ下の地下室に保管されている。ここに収められている石棺は、1941年、ソ連の学者によって開かれ遺体の調査がおこなわれた。そのさい、チムールの右手左足が不自由であったこと、ウルグ・ベクは首を切られたことが確認されたという。

 チムールは、14世紀後半から15世紀初頭にかけて、サマルカンドを首都として、中央アジアを中心とした大帝国を築いた人物である。チムールが登場する以前、13世紀後半に、この地はモンゴル帝国の一部分となっていた。モンゴル帝国が分裂したあとは、チャガタイ・ハン国にになっていたのだが、国内の統一がとれなくなってきて、そうした中からチムールが頭角をあらわしてきたのだ。

 チムールはまたたく間に、サマルカンドを拠点にして広大な領土をおさえていった。その範囲は、現在の国名でいうと、中央アジア諸国のほか、イラン、イラク、トルコの東部、アフガニスタン、パキスタン、インドの北部、中国のシンチャンウイグル自治区などである。

 この大帝国の首都がサマルカンドであるのだ。チムールは、支配した各地域から、職人をつれてきて工芸を奨励し、帝国内の各地とサマルカンドを結ぶ道路が整備された。そのためサマルカンドは、一時はユーラシア最大の帝国の都、つまり、当時の世界の中心都市として賑わいをみせたのだ。

 現在、サマルカンドに残っている文化遺産の多くが、チムール帝国時代のものである。チンギス・ハーンはこの地にあった古い遺産を徹底的に破壊したのだが、チムールは多くのものを残したのだ。だが、一方で、チムールは一生を通じて領土の拡張に執念を燃やしつづけ、その過程では、残虐なことをおこなった。

 ソ連時代には残虐非道ぶりを批判することによって、ときのソ連政権のすばらしさを強調しようとしたのであろう。現在は、チムールが、大帝国を築き、さまざまな文化遺産を残したことをたたえて、ウズベク民族の偉大さをアピールしているようである。

 チムールが死んだあと、帝国は分裂していき、大帝国は短期間で姿を消してしまった。しかし、その後もサマルカンドはこの地域の通商の拠点都市として、ヒワやブハラ、コーカンドなどとともに繁栄し続けたのであった。


【再度、航空会社へ】

 サマルカンドホテルの前まで戻り、タクシーを拾って、再びウズベキスタン航空の事務所に向かう。今度は「アエロカッサ」の一言で通じた。今度こそ地図上で、事務所の場所を見つけだしてやろうと思って、地図を開けてみたのだが、やはりすぐにどこを走っているのかわからなくなってしまった。昨日と同じところを通っているのかどうかもわからないまま、10分ほどで、昨日やってきた事務所に到着。

 昨日と同じ職員がいたので、そのカウンターへ。相手も知っていて笑顔で迎えてくれた。話しがスムーズに進むように、今日はメモを書いてきた。外国の駅で列車の切符を買うときは、年月日、区間、列車名があれば列車名、等級、枚数などをメモに書いて渡せば、一言も発しなくても切符が買えることが多い。そのやり方だ。区間はサマルカンドからタシケント、タシケントからフェルガナで、タシケント発の便は、サマルカンドからの便にすぐ接続している便を書いておいた。

 すぐに機械を動かしてくれたのだが、タシケント発の便は、この便はだめで8時間後の便になると言っているようだ。昨日と同じやりとりになってしまった。職員はどこかに電話をかける。一言、二言、しゃべったかと思えば、いきなり受話器を自分に差し出した。日本では、もうほとんど見かけなくなったしまった、なつかしい黒電話である。

 急に受話器を握らされ、話す相手が一体誰なのかもわからないまま、しゃべらざるを得なくなってしまった。びっくりしている間もなかった。きっと、航空会社の本社か、空港かどこかの職員なんだろう。メモを見ながら、乗りたい便の区間と日時を英語で伝える。英語のわかる職員と、電話で話させるために、昨日は、もう一度来るように言われたのだということを理解。

 自分の希望するスケジュールの場合、タシケント空港での乗り継ぎ時間がちょうど1時間なのだが、1時間で乗り継ぎはできない、ということを伝えられた。タシケント空港の国内線ターミナルは、すでにウルゲンチに向かうときに利用しているので様子はよくわかっている。

 乗り継ぎ時間が1時間もあれば、十分に乗り継げるに違いないこともわかっている。搭乗手続きや手荷物検査に長い行列ができていたら別であるが、そういうことは考えにくい。30分でも乗り継げるような空港である。どうしても、早くフェルガナに着きたいと言ってみるが、やはりダメだと言われた。仕方なく、8時間後の便でも良いと言う。飛行機が遅れた場合などを想定して、乗り継ぎ時間を長いめにとってあるのであろう。

 このときすでに、ある考えが頭の中に浮かんでいた。とりあえず、タシケントで8時間待つ便の航空券を買っておいて、サマルカンドからタシケントに到着すると、空港の出口からチケット売場へ走っていって、航空券の変更を申し立てて、1時間後の便に乗るという作戦だ。うまくいけばしめたものだし、いかなければ、8時間待つか、それとも航空券をキャンセルして、タクシーでフェルガナ盆地入りするかにしようと決める。

 発券には、またしばらく待たされる。ようやく手にした航空券を見てびっくり。機械印字ではなく、手書きなのだ。そういえば、日本からタシケントへの航空券も手書きであった。だが、そちらはブロック体のはっきり読める字であった。今度のは、筆記体で何が何やらわからない、判読に困るような字だったのだ。数字すらよくわからない。で、説明にあわせて、便名や出発時間を、メモをしっかりとっておく。

 航空券代は、13800cym(約4140円)。これは格安だ。昨日聞いた通りだったのだが、実際に払うまでは本当かどうかわからなかった。飛行機に2回乗ってこれだけとはお徳としかいいようがない。 タクシーに乗っても、同じくらいの金額がいるだろう。タクシーの場合は、地元のことをよく知らない観光客は高いめの金額を請求されがちなのに対し、航空券は正規料金で売ってくれるので安心してよいのかもしれない。ブハラからサマルカンドへのタクシーが$20だったが、適正料金だったとこれも安心。だが翌日に予約してあるシャフリサブス往復のタクシーが$50というのは足元を見られているのだろう。


【ウルグ・ベクの天文台】

 ウルグ・ベクは、チムールの孫であって、15世紀はじめのチムール帝国の君主でもあったのだが、現代にその名を残しているものに、天文台と昨日訪れたマドラサがある。このことから推察されるように、この人物は、君主としてより、学者としての業績のほうが大きいのである。

 だが、学者として科学を追い求めたことに対して、宗教者からは反発され、保守的な者が多い身内や部下の反感もかったという。学者としては、名声を今にとどめている人物ではある一方、統治者としては恵まれない人であったようで、最後は息子に謀反をおこされ、結局、息子の送り込んだ者の手によって、首を切られて最期をとげた。

 ウルグ・ベクの死後、逆に息子はウルグ・ベクをしたう者の手によって殺され、それほどときを経ずして、チムール帝国は滅亡した。1370年から1500年までの、長くは持たなかった帝国であった。16世紀になって、この地域には、ブハラ・ハーン国、ヒワ・ハーン国ができ、サマルカンドは都の座を失うことになった。

 天文台はウルグ・ベクの死後に破壊され、土に埋まり、そのまま人々に忘れ去られた存在となっていた。20世紀になってから、ロシア人が古文書にもとづいて発掘をおこない、天文台が見つけ出されたのである。

 この天文台はサマルカンドの市街地の北東のはずれにある。航空券を買ったあと、タクシーで天文台へ直行した。ガイドブックの地図には、ウズベク語の表記が添えられているので、そこを赤ペンで囲み、指差して運転手に指示する。サマルカンドの市街地を端から端まで移動するようなものであるが、それでも15分くらいで天文台に到着。市街地の端を通りすぎ、地肌が丸出しになっている丘陵地帯の一角にある。ガイドブックの地図を見ているだけは、そこが市街地であるのか、郊外であるのか見分けることは難しく、街中に天文台があると思っていたので、意外であった。

 タクシー代として400cymを出す。すると、運転手は、何やら言い出した。最初は、もっとたくさん出せと言っていると思った。町を横断したわけだから、通常の料金ではだめだ、とか言っているのかなとも思った。よく聞くと、そうではない。一日、タクシーを貸し切りにしないか、ということを言っているのだ。しかし、この日は、天文台はじめサマルカンドの町の東北にあたる一帯を歩いて回る予定なので断った。

 天文台は小高い丘の上にあって、少し階段を登らなければならない。体調が思わしくない身にとっては、少々の階段でもつらいものがある。すでに、気温もかなり高くなっている。途中で一休みして、上までたどり着く。



 まず目に入るのは、マドラサの玄関と同じような青いタイルを基調とした玄関である。しかし、玄関から入る建物は小さい。小さいというよりも、地下に埋まっている部分が大きいのが、地表に出ている部分はわずかだ、といったほうが正確である。そして、建物のように見えるのは、建物というよりは、六分儀をかぶせている覆いといったほうがよいかもしれない。もっとも、かつては、玄関の大きさに見合うだけの建物があったということだ。

 地下にうまっている部分に、巨大な六分儀が置かれている。長さは40m、高さは10mくらいある。これによって、太陽とか月の位置を測定し、正確な時刻を割り出したということだ。このように大きな機械が破壊されずに、よく残っていたものだと感心する。土に埋まっていたためであろう。15世紀に、時刻が正確にわかっていたということが驚きである。



 だが六分儀以外には、残されているものはほとんど何もない。かなり広い丘の上には、いろいろな建物があったはずだ。小さな博物館があって、そこには、出土したものなどが展示されているのだが、それほど多くはない。

 ここで、ヒワのホテルで出会ったイタリア人グループとまた出会う。いつまで、サマルカンドに滞在するのかと聞いたら、明日までであるが、明日はシャフリサブスへ行くのだという。自分もシャフリサブスへ行くと答え、シャフリサブスであおう、と言ってわかれた。


【アフラシャブの丘】

 サマルカンド市街からウルグ・ベクの天文台の向かう途中の丘陵がアフラシャブの丘である。この丘陵の一帯こそ、チンギス・ハーンに破壊されるまでのサマルカンドの町であったところだ。現在のサマルカンド市街は、チムールの時代以降に形作られてきた町であって、かつてのサマルカンドとは、やや場所が異なっているのである。

 アフラシャブの丘にあった町は、破壊される以前は、シルクロードの拠点として繁栄したのであるが、チンギス・ハーンによって徹底的に破壊されつくし、町の住民はことごとく殺されたという。その後、丘がかつての都であったことは忘れ去られてしまい、20世紀になってから発掘作業が行われるようになり、かつての王宮跡などが見つかっているのだという。



 この丘陵の一角に、サマルカンド歴史博物館がある。地図で確かめると、ウルグ・ベクの天文台から歴史博物館までの距離は1kmくらいである。このくらいの距離ならばたいしたことないと歩きはじめたのであった。

 昨夜見たテレビの天気予報によると、サマルカンドは、ヒワやブハラに比べて、最高気温がちょっと低くなっている。とは言うものの、43度ということであった。しかも体調は依然としてあまり良くはない。無理なことをするのではなかったとあとで後悔することになるのであるが、そのときには、1kmくらいどういうことはないと考えていたのだった。

 歩き出すと道の両側には荒地となった丘陵が延々と続く。なだらかな坂道を下って行って、また上がるといった具合だ。日をさえぎるものは何もなく、まったくの炎天下である。ときどき自動車が通るので、無人の地ではないことが支えだ。歩き始めてしばらくして、歩くんじゃなかったと思ったが、歴史博物館の建物が見えてきているので、あと少しだと自分に言い聞かせて、歩きつづけた。

 1kmが何と遠かったことか。感覚的には、1時間くらい歩いていた感じであった。ようやく歴史博物館の敷地にはいる。植えこみがって、木陰も多少ある。しばらく横になって寝転ぶ。というより倒れてしまった、という方があたっているかもしれない。意識ははっきりとしていたが、腰をおろすだけでは苦しくてどうしようもなかったのだ。

 しばらく横になって、歩くことができると判断して、博物館を見学。ほかに見学者は誰もいない。入場してから電灯をつけてくれた。丘陵から発掘されたものが陳列されているのだが、最大のものが、アラブ人が侵入してくる以前の王宮の壁画である。発掘されたところと同じような地下室が作られ、その中に展示されている。

 古代のサマルカンドはアラブ人の侵入によって荒され、その後再興したものの、チンギス・ハーンによって徹底的に破壊されつくしたのだ。古代の王宮にあった壁画は、シルクロード沿いの諸国の使節が贈り物を王に貢にきているさまを描いていた。

 中国服を着ている人、象に乗っている人、西洋的な顔つきの人とさまざまな人が描かれている。この地が中国、インド、西アジアを結ぶルート上にあって、これらの地域からの道が集まっていたことを示している。シルクロードによって人と物が行き来したということは頭ではわかっていてもなかなか理解しにくいが、この壁画を見ると、東西の世界が古代から交流していたのだということが実感できる。

 歴史博物館を出て、その裏手に向かう。アフラシャブの丘の中をめぐるコースの出発点になっているのだ。広大な丘陵は、一面が土と岩が露出したり、短い草だけが育っている荒地になっている。かつて、ここには、城があり、町があったのだが、それを物語る証拠はみあたらない。発掘作業はそれほど進んでいないらしくて、荒地の下には遺跡が多数あるのだという。しかし、眺めている限りにおいては、ただの丘陵にひろがる荒地でしかない。シルクロードの中心地としての繁栄ぶりは、想像力を働かせて頭の中に描かなければならないのだ。

 歴史博物館から丘陵の中のコースを400mくらい歩くと、ソグド人の住居跡を見ることができるらしい。コースを一周してみるつもりをしていたのだったが、そんな元気はとてもない。歴史博物館の近くを少し歩いただけで、この地をあとにすることにした。


【シャー・イ・ジンダ廟】

 アフラシャブの丘の西南の端、サマルカンドの市街地のすぐ近くにシャー・イ・ジンダ廟がある。歴史博物館からは、1kmくらい歩いて、いったん市街地の端にあるバザールまで行き、そこから別の道を500mくらい歩かなければならない。

 身体はすでに疲労の極致に達してきている。一昨日、ブハラの町を歩いたときと同じく、少し歩いては、長く休むといったことをしないと身体がもたなくなってきた。とても1km歩くのは、無理である。天文台に行ったときに、タクシーの貸切を断ったのが悔やまれる。道端でタクシーかミニバスがこないか待つのだが、自動車自体あまり走っていない道路である。なかなかやってこない。

 ようやくやってきたミニバスに乗りこむ。大型のバンを改造したもので、10人くらいが乗れる。外国人観光客がミニバスに乗るのは珍しいのだろうか。車内の注目の的になる。あっという間にバザールに到着。ここで多くの客が降りる。

 降りる客は20cym(約6円)を渡している。さいふに小銭がないか調べてみたが残念ながら、100cym(約30円)が一番細かい札だった。こういう場合、たとえ釣り銭があっても、釣りをくれない場合が多いことが、経験上わかっている。で、わずかな釣りを求めたのにくれないといって嫌な思いをするのを防ぐため、釣りはいらないというジェスチャーをして降りる。車掌はにっこりとしてくれ、こちらの気分も良い。

 さらに、ここから500m歩かねければならない。バスで通ってきた道に比べて、人通りが多い。自分は日陰の多い側を歩いていたのだが、道を隔てた反対側は、バザールの一角になっているためだ。なだらかな下り坂になっていて、街路樹も並んでいる。ときどき芝生に寝転がって休んだり、水を飲みながら、30分くらいかけてゆっくりと歩いた。

 やがて廟の入口に到着。ウルグ・ベクが建てたという入口を入ると、まず石段が目にはいる。たいした石段ではないが、疲れている身にとっては大変なことになったと思う。上る前にしばらく休んでから、気合を入れて立ち上がり、一気に上がる。

 石段をあがったあとは、わずか100mほどの行き止まりになっている路地が続いていて、その両側に十余りの廟がならんでいる。チムール帝国の時代のものが中心で、チムールの妻、姉妹、姪、子ども、将軍などのものがほとんどである。



 現在残っている廟のほとんどはチムール帝国当時のものとはいえ、もとはチムール帝国以前からあった。7世紀にアラブ人がこの地を攻めた。そのときに、預言者ムハンマドのいとこであるクサムがいたのだが、彼は首を切られたあとも祈りつづけ、自分の首をもって井戸に入っていき、そこで生きているという伝説が残っている。クサムの廟もこの地にある。シャー・イ・ジンダというのは「生きている王」ということなのだが、これはクサムのことをあらわしているのだ。

 クサムの廟以外にも、古くから廟があったのだが、チンギス・ハーンによってすべて破壊されて尽くされてしまった。チムール帝国の時代になってから、各地から職人が呼び寄せられて、再度、廟が同じ場所につくられたのだ。クサムの廟は再建され、あらたにチムールの親族の廟がつくられた。

 いづれの廟も敷地は小さいのだが、高さが結構あって、そのため建物の谷間を歩いているようだ。それに、ひとつひとつの廟の入口は、通路から、数段の石段をさらに上がったところにあるのだ。そのため、ひとつひとつの廟を見学するのは、元気な状態であっても結構大変なのだ。歩くのがやっとという自分にとっては、わずか、数段の石段を上がることができなかった。

 せっかく、苦労して歩いてやってきたので、なんとか廟の中までのぜいてみたいとは思ったが、どうしてもその力が沸いてこなかった。通路から青や紫のタイルを、この目で確かめることだけで精一杯であった。

 通路の一番奥のところからは、古くから庶民の墓地になっている一角に出られるでそこも見るつもりをしていたのだが、そこまで行く元気はでなかった。

 すでに14時。この日の観光はこれで切り上げホテルで休むことにした。まだ見ていないもみどころもあるが、サマルカンド滞在が一日増えたので、じゅうぶんに見て回れる。


【体調崩し半日休息】

 タクシーで、サマルカンドホテルに戻る。14時30分になろうとしているが、昼食はまだ食べていない。しかし、食べる気がおこらない疲れであった。とても何ものどを通らない状況で、昼食は抜くことにした。

 それで、ホテルの玄関前で店を出しているカフェでコーラだけを注文。ここには、コーラとファンタオレンジしか売っていなかったのだが、こういう店は多い。ここは外国人もよく泊まるホテルの敷地内というだけあって、かなり強気の値段をつけていた。1本が200cym(約60円)。この国へきてからの最高の値段である。たいていは、100cym前後で、もっと安いところもあった。

 自分の階まで上がり、まずは担当のおばさんの部屋へいって鍵を受け取る。このやり方だと、担当のおばさんがいないときはどうなるのだろうかと心配であったが、幸い今のところ実害はおこっていない。

 部屋にはいって、シャワーを浴びて、就寝時の格好に着替えて横になる。昼寝をするだけなら、着替えをするまでもないのであるが、この日は、もう外出することがないだろうと思ったからだ。この日の体調は最悪。

 もともとヒワを出発する前夜から下痢気味であって、なんとかひどい状態だけはまぬかれていたのだが、一向に治る気配はみられていない。しかし、慣れとは恐ろしいもので、下痢気味なのがあたりまえのようになってしまって、多少の無理をしたって、ホテルにじっとしていなければならなくなるなんてひどい状態にはならないだろうと思っていたのだ。

 だが、無理をするとたちまち身体がもたないことがわかった。この日の午前中、天文台から歴史博物館まで歩いたが、これがいけなかった。炎天下で、水をたくさん飲みながらではあったが、これによって相当、体力を奪われてしまった。おまけに、バザールからシャー・イ・ジンダ廟まで、また歩いた。歩く途中で、何度も芝生に横たわった。廟を見て回っている間も、歩くのがつらく、しばしば座り込んだのであった。

 昼寝ではなく、4時間半ほど熟睡した。目がさめると、すでに19時で、窓の外はすでに真っ暗になってしまっていた。よく寝たものだ。幸い疲れのほうはかなりとれたようだ。疲れないためには、無理をしないこととともに、睡眠をよくとることも大切だ。

 体調が回復すると、お腹のほうが気になってきた。昼食をぬいたため、かなり腹はへっていた。かといって、バザールのそばにあるレストランまで、タクシーに乗っていくだけの元気もない。サマルカンドで夕食は、まだ2回食べるので、この日は、またホテルのそばのカフェですませることにした。それでも、外出着に着替えて出かけるので、時間がどんどんたっていく。

 前日と同じメニューで、とくに食べたいものもない。とにかく腹をふくらませ、疲れをとるために食べるのである。ソーセージ、ポテト、ボルシチ風のスープなどを注文。ウズベキスタンにきてまで、どこの国でもありそうなものしか食べないのは残念だが、この日はがまんした。

 食後、ガスなしのミネラルウォーターも買って、部屋に戻った。この国では、ガスなしのミネラルウォーターはなかなか手に入らないので、見つけたら買っておくほうが良い。

 部屋に戻ると、またシャワーを浴びて、着替えて横になる。ニュース中心のテレビ番組では、昨日と同じくカリモフ大統領がまた延々と登場している。

 やがて、天気予報。国内各地の翌日の天気とともに、最高気温と最低気温の予想を出している。サマルカンドは、最高42度、最低25度。ブハラは、最高45度、最低29度。タシケントは、最高40度、最低23度。暑さは、タシケント、サマルカンド、ブハラの順にきびしいことがよくわかる。ヒワは、天気予報ではでていなかったが、ブハラよりも暑さがきびしいので、最高は47、8度あるのだろう。バスの車内が50度以上になることも納得できる。

 翌日からのスケジュールを考えたりもしていたのだが、テレビをつけたまま眠ってしまった。