灼熱のウズベキスタンを行く(11)

【フェルガナの街】

 フェルガナ、なんとよい響きではないか。なんとなく美しい町のイメージが沸いてくるような地名である。自分にとって、フェルガナは、心地よい響きにひかれ、ずっと昔から気になっていた町であった。そして、ウズベキスタン旅行を決めてから、必ずフェルガナを訪問しようと思っていた。フェルガナという名はほかの中央アジアの都市の名とかなり違う響きであるには理由がある。

 実は、フェルガナは歴史的な町ではないのだ。19世紀の末期に帝政ロシアが、この地域(いまのフェルガナ盆地)を支配していたコーカンド・ハーン国を征服した後、支配の拠点として新たに建設した町なのだ。当時の名は、ノボマルギラン。つまり、昨日訪問したマルギランの南方にあったので、新マルギランと名づけられたのであったのだ。

 のちに、この地を征服した将軍の名をとってスコペレフと改称され、さらに、旧ソ連時代の1924年に、フェルガナという名に改称されたのであった。フェルガナという名は、いたって、ロシア的な名前なのだ。

 そういう事情があり、サマルカンドやブハラのような有名な遺跡はない。しかし、盆地内の交通の要地ではあるので、この盆地を訪問した場合に、フェルガナは盆地内を移動する場合に、拠点になる町である。

 この日はクワの遺跡へ出かけることにしたが、その前にまずフェルガナの町を散策する。これといって見所があるわけではないので、ぶらり歩きである。

 なんといっても、緑が多い。サマルカンドやブハラでも、街路樹の陰が、きびしい暑さを和らげていたが、フェルガナは特に街路樹の密度が高い。一定の幅がある道路には、必ずといって両側には木が列をなしている。木の陰の部分が多く、陰の部分だけを選んで歩くことができる。

 フェルガナホテルから市役所や旧共産党の建物のある地区まで歩く。市役所や旧共産党の建物のさらに奥まったところに立ち入りはできないがウズベキスタン軍の施設があるのだが、そこはかつての帝政ロシアがつくった要塞である。それを中心として、放射状の道路が周辺に向かって伸びている。

 そのためか、フェルガナの町は、ロシア的な雰囲気をかもしだしている。タシケントもロシア的な町であったのだが、それでも帝政ロシアの征服前の建造物も残っている。それに対して、フェルガナはすべてが帝政ロシア時代以降の建物であるので、ロシアの町という印象を強く受ける。れんが造りの重厚な建物は、帝政ロシア時代や旧ソ連時代初期のものであろう。一部には、高層アパートもあるが、旧ソ連時代でも戦後の建設によるのであろう。

 やがて、運河に出る。フェルガナ運河の支流であるが、ずいぶんと水量が多く、激しく水しぶきをあげて、水が流れている。大雨のあとの日本の河川のようである。乾燥地域にあって、これだけの水がよく流れているものだ。運河のそばのベンチに座って水の流れを眺めていたら、なぜか飽きてこない。

 これだけの水量があれば、街路樹が多いことも納得がいく。また、フェルガナ盆地は、ウズベキスタンにあって穀倉地帯になっているのだが、それもなるほどと実感できる。この国のなかでは、農業のやりやすい地域なのだ。

 運河に沿って街路樹の下を歩いていくと、やがてバザールの近くまでやってきた。フェルガナの町を、ぐるっと一周してきたのだ。遺跡こそないものの、気になっていた町をこの目で確かめることができてよかった。


【フェルガナ郷土博物館】

 運河沿いの道に郷土博物館がある。9時からの開館にあわせてやってきた。ところが、まだ、入り口をあけたり、掃除をしたりと準備をしているようなので、ベンチにすわって、しばらく運河を眺めてすごす。

 この日、最初の入場者として入館。わざわざ日本人がやてきた、と思われたのか、入場券を買うときに大いに喜ばれた。まだ誰もいない中を見て回る。このミュージアムは、フェルガナ盆地の、自然、歴史、社会の全般について展示している。

 フェルガナ盆地の大きな模型があり、この盆地が、ウズベキスタンのなかで飛び地のようになっている状況がよくわかる。つまり、盆地のまわりのほとんどは、タジキスタンとキルギスが占めていて、ウズベキスタンとは山地のなかの細い回廊でかろうじてつながっているだけなのだ。

 フェルガナ盆地は、飛び地に近い状態だとはいえ、この国のなかにあっては、もっとも人口が密集している地域であり、四国くらいのところに600万人が暮らしていて、この地域だけの人口密度は日本なみであり、乾燥地域の広がるこの国にとっては異例の地域だ。フェルガナ盆地は、面積では、この国の5%くらいなのだが、人口では30%を占めているのだ。

 フェルガナの運河の豊富な水に象徴されるように、この盆地は、乾燥国家ウズベキスタンにあって、最も水の得やすい地方なのだ。この水を利用して、古くから農業が盛んであった。

 そう考えると、この盆地がウズベキスタン領になっているのには、何か作為を感じる。旧ソ連時代に、共和国間の国境を引く際に、この盆地を無理やり、中央アジアの中心のようなウズベキスタンに編入したのではないだろうか。そして、旧ソ連時代には形式的であった国境が、いまや本当の国境となり、しかもしだいに敷居が高くなりつつある。

 栽培されている作物の写真とか、遺跡の出土品とか、民族衣装とか、実にさまざまなものが集められた雑多なミュージアムなのだが、この国のイメージをつくるのにはたいへん適している。もっとも、表示はウズベク語だけであるので、詳しいことがわからないのが残念である。

 このミュージアムで一番印象に残ったのは、フェルガナ盆地に住む朝鮮系住民に関する展示である。スターリン時代に、沿海州に住んでいた朝鮮人は日本のスパイがいると警戒され、強制的に中央アジアに移住させられた。そのため、中央アジアには朝鮮系住民が多いのであるが、なかでもフェルガナ盆地は最も多くの朝鮮系住民の住んでいる地域である。

 展示では、なぜこの盆地に朝鮮系住民が多いのかという理由にはまったく触れていない。旧ソ連時代は、それにふれるのはタブーであったはずだ。そして、そのときの展示が今も使われているからなのだろう。展示品や写真などに書かれている西暦年号や紙の変色の様子から考えて、旧ソ連時代から展示されっぱなしのように思われる。

 ここの展示では、朝鮮系住民の暮らしや、いろいろな分野で活躍している朝鮮系住民の紹介がなされている。旧ソ連時代にオリンピックで活躍した選手の中にも、朝鮮系の人がかなりいたこともわかった。多民族国家にあって、朝鮮系の人たちに誇りを持たせ、ほかの民族の人たちには朝鮮系の人たちのことを理解させる目的の展示のようである。

 朝鮮系住民のルーツを示すために、手書きの朝鮮半島の地図がかけてあった。南北双方に配慮した地図になっている。さて、その地図には、朝鮮半島だけではなく周辺諸国も含まれていた。日本も描かれはしていたのだが、四国が抜けていた。日本となじみがない地域で、しかも日本のことを取り扱っているのではない場面では、日本地図が正確に描かれないのも仕方がないかなと思いながら見ていた。


【クワの仏教遺跡】

 郷土博物館をあとにして、クワに向かうことにする。バザール近くにあるミニバスのターミナルに行き、クワ行きを探す。ミニバスはワゴン車を改造したような車が多く、フロントガラスに行き先が表示されている。たくさん停車している車のなかから、クワ行きを探すのは、慣れない者にとっては難しい。

 どうやらクワ行きは出発したところらしく、空車のクワ行きが見つかったので、運転手らしき人に聞いてから乗車する。座席の定員がいっぱいにならないと、出発しないことになっているようだ。ほかの客がくるまでの時間の長かったこと。満席になるのをまってようやく発車。

 クワまで約1時間。延々と畑が続く。この国は、ちょっと町の郊外に出ると砂漠や草原が広がるのであるが、ここフェルガナ盆地にはあてはまらない。この盆地では、フェルガナ運河を中心にした運河網が、水を運んでいるのだ。

 クワもバザールのそばがターミナルになっている。帰りのミニバスの乗り場を確認してから、遺跡へと向かう。幸い、ターミナルに到着する直前に、遺跡らしい丘らしいものが見えたので、たどってきた道を引き返す。





 この国は、イスラム教がさかんなのであるのだがクワの遺跡は仏教の寺院跡なのだ。この地域でイスラム教が広まったのは、8世紀にアラブ人がこの地域を支配下に置いたときからである。西方から領域を広げたアラブ人と、東方から領域を広げた唐とが戦って、その際に紙の製法が中国に伝わったという話で有名なタラス河畔の戦いは、この地域から約100km北のカザフスタン領で行われている。

 アラブ人が支配する以前のこの地域では、仏教が信仰されていたのだ。三蔵法師玄奘も、天山山脈を越えて、現在の中国領からフェルガナ盆地入りをしている。この盆地での法師のたどったルートはあまりはっきりしていないようだが、法師が旅をした7世紀には仏教がさかんだっ他のだろう。

 クワの仏教寺院跡の発掘が行われたのは、旧ソ連時代末期になってからのことで、まだ日が浅い。ここからは仏像や仏具が大量にでてきて、現在はタシケントの歴史博物館に保管されているという。

 遺跡の丘の下までたどりついた。このあとは、ちょっとした上り道である。現地では、遺跡のことをテペ(高地の意味)といっているらしいので、休んでいた老人に、丘を指さしてテペかと尋ねると、そうだというので丘を上ることにする。

 荒れ果てた土の丘なのだが、少しあがると、寺院の建物のあとのようなところがあった。とはいっても、何の案内板もないのだ。だが、遺跡の発掘現場のようなところなので、ここに違いはなかろう。中央アジアに仏教寺院は似合わない感じもするのだが、日本の寺がこの地に建っていると考えて、当時の状況を想像してみた。

 遺跡の回りをひと通り歩いてみたあと、丘の下にある公園に行ってみた。この遺跡の丘も含めて公園にするのかもしれないが、現在のところは、丘の下の部分だけが公園になっている。

 広大な花壇があって色とりどりな花が咲いている。乾燥の激しいところなので、スプリンクラーで水をまいている。比較的水が得やすいのであろう。丘の下部には城壁のような石組みがつくられているのだが、石組みの上の部分はまだ荒地にままなのだが、やがては遺跡公園のように整備されるのではないかと思われる。

 たいへん日差しが強く、ミニバス乗り場に引き返す。バザールをちょっとだけのぞいてみた。そう大きな町ではないが、たくさんの人たちでにぎわっている。このあとフェルガナに戻ってバザールも見るので、ここのバザールは少し見ただけだ。ミニバス乗り場に戻ってみると、フェルガナ行きの車が止まっていて、客寄せをしていたので乗り込んだ。


【フェルガナのバザール】

 クワからミニバスでフェルガナに戻る。なぜか行きと帰りで運賃が違う。行きは70cym(約30円)、帰りは100cym(約40円)。ほかの乗客はいくらかと聞いているわけでもないし、運転手や補助員役の子どもなどが運賃を言っているのでもない。なのに黙って皆同じ額を払っている。行き帰りで違うのか、車種で違いがあるのかよくわからない。とはいえ、60kmくらいの距離がこの金額というのは、いずれにしても安い。

 前日のマルギランの場合は、フェルガナからの距離が20kmくらいで、行きは35sym(約15円)、帰りは50sym(約20円)だったこともあわせ不思議な運賃設定である。

 フェルガナに戻ってから、まずはバスを降りてすぐのところにあるバザールへ直行。すでにこの国へやってきてからいろいろな町で見てきたバザールと同じで、かなり大きな敷地の中で、いろいろな品物が種類ごとにかたまって売り場があって、買い物客でにぎわっている。











 品物をよく見ながら歩いていると、あちこちから掛け声がかかる。おいしいよ、買っていって、安くしておくよ、とでも言っているのであろう。この日はもう行く予定のところはどこもなく、時間があり余っていたということもあり、掛け声につきあって、品物を手にとってみたり、試食をすすめられたものに口をつけたりして歩いていく。

 試食するばかりで何も買わないのも気がひけるが、ホテルに持って帰っても、ひとり旅では食べられる量には限りがあるし、ここで泊まっているホテルには冷蔵庫もついていない。それでも、ぶどうがたいへんおいしくって買った。本来はkg単位でしか売っていないだろうが、特別に減らしてもらう。

 日本の種なしぶどうのような色をしているのだが、つぶの大きさは日本では種のあるぶどうくらいの大きさで、しかもちょっと細長い品種である。いろいろなタイプのぶどうが売ってあったが、フェルガナではこのタイプのぶどうを一番よく見かけた。

 ホテルに帰ってから、水が出るのが不思議なくらいの洗面所でぶどうを洗って食べたのだが、甘味の少ない、さっぱりした味のぶどうで、ぶどうを食べるだけにでもこの地にやってきてもよいと思ったくらいだ。日本では、甘味のあるぶどうが好まれるが、ぶどう本来の味というのは、この地域で口にするような酸味が甘味よりも強いものなのだろう。

 ほかの町のバザールでも品物の量には圧倒されていたのだが、フェルガナのバザールでは、ことのほか品物の量が多いように思った。この国で一番豊かさを感じたバザールは、最後に訪れたタシケントのチャルスーバザールであるのだが、ここは首都の中心にあって別格といってよい。地方都市のバザールではフェルガナが最も品物が豊富だ。

 これも、この地域が、水が比較的手に入れられやすく、盆地全体が豊かな農耕地帯になっていることによるのだろう。この国には、乾燥の激しい砂漠や草原というイメージがつきまとう。実際、通常日本からの観光客が訪れるサマルカンドやブハラなどだけを見るとそのとおりなのであるが、フェルガナ盆地を訪れると、この国の自然環境が一様ではないことに気づくであろう。観光資源が少なく、日数の限られた旅行者にとっては訪問が難しいが、この国の全体を知るためには、フェルガナ盆地はぜひ訪問してみる価値がある。

 フェルガナに限らず、いくつかの町のバザールでは、キムチ売り場を目にした。キムチ売り場のあるバザールはこの国のバザールの特徴なのだが、そのなかでも、フェルガナのバザールは、この国で最大のキムチ売り場を擁している。さまざま種類のキムチが売ってあって、韓国のデパートには及ばないが、日本よりは断然キムチの種類が多い。売り場の周辺にはキムチの臭いがただよい、中央アジアのなかの韓国を強く感じる。

 沿海州から強制移住させられた朝鮮系の人たちの文化が根づき、本来この地に住んでいるウズベク人のなかにもその文化が入り込んでいることを実感した。強制移住は過去の支配者によっておこなわれた酷いできごとであるが、現にこの地域にいる朝鮮系の人たちにとって、もと住んでいた沿海州に戻るよりは、この地域にとどまることのほうを選ぶ人が多いのではないかと思った。


【地元の人たちとの語らい】

 バザールを見学したあと、前日訪れたデパートをまたのぞいて、ホテルに戻った。ちょっと昼寝である。この国の旅も終わりが近づいてきていて、疲労がたまってきていることもあり、すぐに寝込んでしまった。2時間くらい熟睡したが、食事に出かけるまでに、また時間がかかる。ぐずぐずしている間に食事時の時間帯になったので、混雑しないうちに行こうと重い腰をあげた。

 町の中心にまで歩いていくだけの気力がなくて、前日、食事をしたのと同じレストランに向かう。前日もきているので、どのようなメニューかわかっている。ともかく、メニューの数が限られているのだ。外食ということに限れば、この国の食事事情はあまりよくない。

 例によって、シシャリクとサラダそれにコーラを注文して手持ちぶさたにすわっていたら、大勢の集団がやってきて、すいていた店内が急にいっぱいになる。自分はひとりでテーブルを使っていたのだが、相席してもよいかと尋ねられたので、どうぞと笑顔で迎える。

 グループのなかに英語が多少わかる人がいていろいろと尋ねられる。どこの国からきたのか、ウズベキスタンではどこを訪れたのか、サマルカンドはよかったか、などと矢継ぎばやに質問され、つぎつぎに答えていく。

 フェルガナにやってくる日本人はあまりいないとのことだ。やはり目玉になる観光地がないからであろう。フェルガナではどこを訪問したかと聞かれ、郷土博物館やバザール、そしてクワやマルギランと答えると、近くにあるほかの観光地も紹介してくれたのだが、翌日はコーカンドに向かうので無理だと話す。

 このグループは何なのかと尋ねると、家族だという。日本ではもう目にかからない大家族である。十数人の家族なのだ。日本でいうなら何世帯かが同居している一家なのだ。誰が何という名前で続柄は何かということを説明してくれたが、覚えきれるものではない。

 料理ができたが、話に夢中になていたため、なかなか食べることができない。そのうちに、グループの人たちの注文した料理もできてきた。山盛りのシシャリクである。そして自分にも食べるようにすすめられる。自分の注文した分もまだ食べられないでいたので、遠慮していたら、何本かをとって自分の皿に盛ってくれた。コーラもほとんど飲んでいたのを見て、これを飲みな、とか言って渡してもらった。

 丁重にお礼をいって、シシャリクやコーラをいただく。やがて、グループの人たちが注文したブロフがやってきた。大皿に盛ってある。これまた、食べるようにとすすめられ、自分の皿にもとってもらった。かなりお腹がいっぱいになっていたのだが、せっかくいただいたものだからと、なるべく食べておきたい。かといって全部を食べてしまったら、また別の料理を盛られてしまうかもしれないので、ゆっくりといただくことにする。

 この点、話をしながら食事していると、食べるスピードは遅くて、なかなか皿が空にならない。このあと、実際、別の料理がでてきたのだが、断ることができた。また、イスラム教徒の人たちなのだろうか、酒類は飲まない人たちだったので、酒をすすめられることがなくてよかった。

 グループのうちの誰も、まだ外国にいったことはないという。この人たちにとって、海外旅行が夢のまた夢なのだろう。自分の恵まれた環境に感謝しなければいけないと思う。もし、海外に行くことができるなら、日本へぜひどうぞ、と伝える。やはり、海外へは一生行けないだろうといわれてしまった。その一方で阪神大震災やサリン事件のことをこの人たちが知っていたことには驚いた。世界的な大事件だったのかとあらためて思った。

 やがて、別のテーブルにいた老人の掛け声で、グループの人たちは席をたちあがった。自分のいただいた分に相当するお金を差し出したが、いらないと言われた。素直にいただいておくことにして、感謝のことばを伝える。

 グループが去って、ちょっとしてから自分も帰ろうと、お金を払おうとした。なんと自分が注文して食べた分もグループの人たちが払ってくれていたのだ。気持ちよくホテルに帰り、ぐっすりと眠った。