灼熱のウズベキスタンを行く(15)

【タシケントの国鉄駅】

 いよいよ、2週間にわたったウズベキスタン滞在の最終日になってしまった。ほかの国の旅行でもいえることだが、これだけ滞在すると、すっかり身体がその国の自然や生活文化になじんでくるものである。

 入国して直後の頃は、悲しくなるようなホテルの設備や灼熱地獄と化していた長距離路線バスに悲鳴をあげたいくらいであったが、今や、安宿のトイレの臭いやすしづめのバスが当たり前のように感じるようになっている。はじめは、食べにくかったシシャリクも毎日食べていると、日本でご飯を食べるような感じで何ら抵抗感なく食べられるようになった。でも、身体中が羊臭くなっているのかもしれない。

 どの国へ行った場合でも、その国からの帰国日というのは、ほとんど何もできないということが多い。たいていの場合、昼頃までの中途半端な時間はあっても、まとまってどこかを訪問するといったことは難しいのである。それで、結局は単に帰国するためだけの日となりがちなのだ。だが、今日は違う。タシケント発ソウル行きのアシアナ航空機の出発時刻は、22時50分なのだ。帰国日もまる一日、有効に使うことができる。

 最終日はまず、タシケントの国鉄中央駅の見学に行くことにした。地下鉄に、ホテルそばのアミール・ティムール駅から乗車。昨日も乗っているので、乗り方に迷うことはない。あいかわらず、多数の警官や兵隊に出会って緊張感が漂っている。

 本当は、地下鉄の写真を撮りたいところであるが、この国では、地下鉄駅は戦争時の避難壕の役割も想定しているらしく写真撮影は厳禁である。なお、地上の鉄道や駅も写真撮影はできないらしい。やはり戦争時のことを考えてのことであろう。しばらくは、カメラを隠しておいたほうがよさそうなので、リュックの一番下に入れておく。

 地下鉄を途中で乗り換えて、国鉄駅に向かった。地下鉄の駅をでると、そこには大きな駅舎があった。れんが造りの重厚な感じの建物である。地上にでても、警官と兵隊があちこちにいる。列車に乗るわけでもないのに、駅に来ては怪しまれるかもしれない。それで、できるだけ足早やに歩く。駅舎の中に入っても同様だ。じっくりとながめるのは避けておくほうがよさそうである。

 駅舎のなかに手書きの時刻表が掲示されていた。だが、どちらが発車時刻で、どちらが到着時刻なのかがはっきりしない。ヨーロッパの鉄道の場合、発車時刻は黄色い紙、到着時刻は白い紙に書かれていることが多く、見るべき時刻表を間違えるということはない。だが、ここの国では、判然としない。この国で鉄道を用いる場合は、切符の入手難とか夏場の列車の暑さもあるが、時刻表がわかりづらいということにも注意しなければならない。

 だが、一見してわかるのは、この駅を発着している列車の本数はごく少数だということだ。1日あたり10往復ほどである。わずかな本数の割には、駅の付近に集まっている人々の数がかなり多い。でも、駅へ行った時刻には、列車がまったく発着していない時間帯のようなのだ。列車は早朝と夕方以降に集中している。列車の大半は夜行列車なのであろう。

 ホームにまで行きたかったのであるが、切符を見せなければホームへ通じている通路には入れない仕組みになっていた。そのため駅舎の玄関にあたる部分を見たら、それ以上は駅の中にははいれないのだ。

 駅から少し離れたところへ行き、駅構内を外側から見る。多くの客車や貨車が止まっている。客車には直射日光が入り込んでいて、その車両がそのまま列車に使われたら、灼熱列車になることであろう。


【チャルスーバザール】

 大都市タシケントにはいくつかのバザールがある。その中で一番大きいのが、チャルスーバザールである。ウズベキスタンで一番大きなバザールであるし、中央アジア地域で一番大きなバザールでもあるだろう。地下鉄にはチャルスー駅があり、簡単に訪れることができる。


 地下鉄チャルスー駅のホームから地上に上がると、そこは人々であふれかえっていた。ジュースを売る人、串に刺したカットフルーツを売る人、おもちゃを売る人、それらを買っている人、大道芸人、芸人を取り囲んでながめる人、人、人、……。

 ここはもうバザールの内側である。そう、地下鉄をあがったところは、バザールの中の巨大な広場になっているのだ。ここを歩く人々は、まったく無秩序な動きをしているので、しっかりと前を見て歩かないと人にぶつかってしまう。それもそのはずである。広場のここそこでいろいろなものが売られていて、屋内バザールの入口があちらこちらにあり、そして広場の回りの建物もその一階が店舗になっていて、売る人も買う人もいろいろなところへ行けるようになっているからだ。



 この国で見てきたバザールでは、中心に屋根のついた屋内バザールがある場合が多い。チャルスーの場合も同様であるが、その屋内バザールがとてつもなく大きく、巨大な体育館のようである。ひとつの入口から屋内バザールの中に入る。

 そこでは、野菜、果物がたくさん売られている。同じ種類の品物が、これでもか、これでもか、といったようにたくさん並べられているさまは壮観である。乾燥地域は農業にとっては不利な地域で作物のできが不充分だと考えるのは間違いで、水を供給できる限られた農地では手をかけて栽培がおこなわれるので、かえって作物のできが良いのかもしれない。ここが、乾燥地であることを忘れさせるような豊富な野菜、果物である。



 少し、歩いていくと、肉の売り場。羊が中心なのだが、さすがに生肉の臭いに悩まされる。もちろん、ここではスライスされた肉は売っていない。肉は塊で売っているのだ。台の上に肉の塊を置いて売っている人がずらり並んでいる。売り物なのか装飾品なのかよくわからないが、羊の頭や羊の足がぶらさげてあるところもあり、なかなかグロテスクである。それにしても、これだけ高温になるというのに、屋内とはいえ、冷蔵せずに肉を放置して腐らないのであろうか心配になる。





 食堂街と惣菜コーナーを兼ねたようなところもある。シシャリクや揚げ物をその場でも食べられるのだが、たくさんまとめて買って帰る人も多い。もちろん、発砲スチロールなどに盛ったパックを売っているのではない。その場で注文を受け付けて、新聞紙などに包んで渡されるのである。だから自分で買い物袋などを持参することが必要である。さすがに、ブロフやラグマンの店では、皆がその場で食べている。こうした店は、買い物で疲れた人々の休憩所にもなっていて、チャイを飲みながら、話に夢中になっている人たちが集まっている。

 このバザールは食料品が中心のようだが、屋内バザールの出入口のまわりなどで、石鹸、衣類、靴、じゅうたん、本、CDなどさまざまな露店も並んである。このバザールへやってくれば、日常生活で必要なものはほとんどが手に入る。

 裏手の出入口を出たところには、広大な駐車場がある。売るためにやってきた人々の軽トラックと買い物でやってきた人々の乗用車で埋め尽くされている。これらの車を見ただけで、いかにこのバザールが巨大であるのかということがわかる。

 タシケントはフェルガナと同じで、サマルカンドやブハラに比べると、シルクロード的な雰囲気には欠ける町である。旧ソ連時代に造られた建物が多くロシアを思わせる町だ。また、見かける人々の顔立ちからも、ロシア系と思われる人々の割合がかなり高いことがわかる。だが、このチャルスーは、シルクロードの雰囲気を漂わせている。タシケントへきて、シルクロード気分にひたるなら、チャルスーへやってくるのが良い。


【事件発生!】

 チャルスーバザールでタシケント市民の台所事情を垣間見たあと、このバザールの近くにあるマドラサとモスクに行ってみることにした。バザールを出て、南側の市街地にあるマドラサをめざそうとしていたときに事件は起こった。

 警官らしき制服を着た男に呼び止められたのだ。そして、この国のじきたりにしたがって握手。そして、パスポートを見せるように言われた。このときは、3日前にコーカンドで警官に呼び止められてパスポートを見せるように言われたのと同じだと考えていたのであった。

 ところが、男はパスポートをちらちらと見たあと、こっちへくるように、というようなことをウズベク語で言いながら、どこかへ連れていこうとした。パスポートは男の手に握られたままであったから、従わざるを得なかった。このときに、しまった、と思ったのだが、どうすることもできなかった。男が、どこかへ連れていって難くせつけて、金をせびろうとしているのだと想像した。

 だが、何もすることができなかった。無理にパスポートを取り戻そうとしたほうがよかったのかもしれないし、大声をあげて日本語でも英語でもいいからわめきちらすのがよかったのかもしれない。だが、急な展開で動転してしまいそのときはなすすべがなかった。

 バザールの一角に、薄くらい感じの事務所がならんでいるようなところがあった。その中にある一室に入るように指示された。警官の派出所なのであろうか。だが、とくに警察が使っている部屋という感じはしなくて、テーブルや椅子などがおいてあるだけであった。それで、そのときは、警官がパトロール中に休憩する場所なのかなと思った。

 中に入ると、男は、内側からドアに鍵をかけた。いよいよ簡単には出られなくなってしまった。お金の心配はもちろん、言うことを聞かなければ、身体の危険にさらされると考えなければならなくなってしまった。さあ、どうされるのか。不安がうずまく。

 男はパスポートを見ながら、名前や生年月日を聞いてきた。そして、ビザを見ながら聞いたのだろうが、ウズベキスタンの入国日、出国日も聞いてきた。何の目的で聞いているのだろう、どうすれば早くこの場から逃れられるだろうと考えながら、質問に答えていた。

 一通り答えると持ち物を見せるように言われる。小さなリュックをあけさせられ、全部をテーブルの上に並べさせられた。金属製の水筒があったのだが、男はそれが何かわからなかったのだろうか、何をするものか尋ねているようだったので、水を入れるものだとジェスチャーで示した。スム紙幣は札束で封筒に入れて持ち歩いていたが、かさばるのでリュックの中に入れていた。その封筒も中を見られたが、男はスム紙幣には関心がなさそうであった。

 次に、ドルの入ったさいふを見せるように言われた。とうとうやってきたか、と思いながらも、しかたなくさいふを取り出す。実は、旅行中はシーンズを着用していて、さいふやパスポートは前のポケットに入れていた。ジーンズの前ポケットは、手を突っ込みにくいので、さいふをとられる心配が少ないとか、遊びが少ないので落としにくいとか考えていたのだった。だが、自分で出すように要求されると、そんな対策は何の役にも立たない。自分からさいふを取り出した。

 男は、お金を渡すように言っているようだ。それで、対抗策として、自分自身でお金を数え始め、男に見せようとした。だが、男はさいふごと渡せと言っているようだ。ついに、さいふが男の手に渡った。男は、ドル紙幣のうち$20以上のものを一枚一枚、蛍光灯の明かりにすかして見ていった。あたかも、ニセ札でないか調べているのだといいたげに。この間、お金がとられないか、男の手元をしっかりと見ていた。ちょっとしたすきにお金をとられるに違いないから。見ている限りでは、とられてはいなかった。とられると思っていたのが、とられずにすんだみたいなので、ちょっとホッとしたのだった。

 男は高額のドル紙幣を一通り見たあと、日本円や韓国ウォンを見て、何か尋ねてきた。日本と韓国のお金だと答えると、これには関心を示さなかった。クレジットカードにも関心がないようだ。

 男は、もう出ていい、と言っているようだ。部屋の鍵もあけてくれた。お金をさいふにしまい、荷物もリュックにつめると、男は、にっこりして握手を求めてきた。それで、握手をして、外に出た。どっとでてきた汗がしたたり落ちる。

 一体、何だったんだろうかと思いながらも、そのときは、警官に調べられたけれども、何も被害はないと思っていたのだ。とはいえ、ショックを受けているので、一度、ホテルに戻ってロビーで休むことにした。閉じ込められたところからわずかのところにあるチャルスー駅から地下鉄に乗車。


【日本大使館】

 早くチャルスーからは立ち去ってしまいたいという思いで、地下鉄に乗り込む。バザールの見学後に予定していたマドラサやモスクなど旧市街地の見学も見る気がなくなり中止。自分が見ていた限りでは、ドル紙幣はとられなかったようだが、これもよく調べてみないとはっきりしないことはわからない。

 ホテルに戻って、ロビーでお金を調べる。どうも$50紙幣が一枚足らないようである。だが、とられたところは見ていないので、勘違いかもしれないとも考え、この国へついてから両替したドルとドル払いした代金をきっちり計算してみた。やはり、$50足らない。

 一体、どのようにして、どの瞬間に盗まれたのであろうか。紙幣のすかしを見るふりをしていたときに、サッとどこかに一枚隠したのだろうが、そんなことが可能だったんだろうか。どのようにしてとられたかは謎である。

 時間は正午ごろで、夕方まで旧市街地の見学をするには十分な時間があったのだが、もう観光をしたいという気分ではない。それに、チャルスーの駅を降りて、先程の男に顔を合わせることがあるかもしれない。今まで、海外旅行でお金を盗られかけたことはあっても、実際に盗られたというのは初体験だった。国内でお金を盗られたという経験もないので、今回初めてお金を盗られたことになる。$50のお金も惜しいが、盗られたということ自体が悔しくて情けない。

 午後、旧市街の観光にでかける気にはとてもならなかった。海外で犯罪に巻き込まれたという話を聞くたびに、対策をきっちりすることでかなり予防できる、などと考えていただけにショックだった。

 そこで、観光のかわりに、日本大使館へ事件の報告に行き、同じような被害にあう日本人が出ないようにしてもらおうかと考えた。ホテルから日本大使館へは1kmくらいである。人通りの少ない住宅地なので、また盗られてはかなわないので、周囲をよく注意して歩いた。

 ところが、大使館に到着すると、現地の人だが日本語のできる守衛に、今は休憩時間で14時までは閉まっていると言われた。14時までには、まだまだ間があるので、いったんホテルに帰って出直すことにした。近くの屋外レストランで昼食をとったが、いつもと同じような食事でも、お金を初めて盗られたことを考えると気分が悪くて、おいしいとは感じなかった。

 昼食後、再度、日本大使館へ出向いた。パスポートをさしだし、用件を伝えると、内側から鍵があけられ中に入れた。さらにしばらく待たされ、担当者が出てきた。

 事件を説明し、同じような事が起こらないようにしてほしいと伝えた。その結果、自分を呼び止めた男は、警官と思っていたのだが、警官ではなく、バザールを根城にしているマフィアだろうということだ。そういえば、男は、制服らしき服装ではあったが、制帽はかぶっていなかったし、身分証明書を提示もしなかった。

 また警官のなかには、賄賂めいた金を要求する者もいるが、その場合は、こちらのミスがあって、つけこまれてしまうのだという。バザールの場合だと、ドルで買い物(実質、闇両替と同じ)をしているところを見つかった日本人が罰金という名の賄賂を要求されるケースはあったらしい。しかし、警官が積極的にお金を盗んだりすることは、もし発覚すれば、即クビになってしまうから、そこまではまずしないだろうということだった。

 マフィアはバザールで商売する人に大きな影響力を持っているとのことで、影でバザールをとりしきっているらしい。そして、自警団のような組織も持っているとのこと。警官の制服に似ていたのは、彼らの着ていた服ではないかということだった。

 お金が返ってくるわけではないが、事件の背景にせまれたことと、日本の外務省とこの国の警察に報告はしておいてくれるとのことで、大使館を訪問した甲斐はあった。それに、自分の気持ちも、事件を報告することと、大使館の人の親切な対応によって落ち着けさせることもできた。日本の大使館が不親切だという話を聞くこともあるが、一ヶ所だけで判断するのは無謀かもしれないが、予想以上に丁寧な対応をしてもらえ、旅行者に冷たいとは一概にいえないのではないかと思った。


【さらばウズベキスタン】

 日本大使館へ行って、言いたいことを言って、やさしい言葉をかけられたためか、少しは立ち直って、ホテルに戻ってきた。だからといって、旧市街の見学に出かけるほどの心のゆとりはなかった。そのため、タシケントの旧市街にあるマドラサやモスクの見学は、またこの国を訪問する機会に回すことにした。

 空港へ出発するまでに、まだ4時間くらいもある。いささか時間を無為に使うことになるのかもしれないが、ブロードウェイの散策とホテルロビーでの休憩にあてることにした。

 ウズベキスタンで最後の食事をブロードウェイの屋外レストランでとり、この通りを再び端まで歩いて見た。そのあとは、ホテルに戻る。朝、預けておいたバッグを受け取り、ロビーで荷物の整理をおこなった。そのあとは、何をするでもなく、休憩。

 あたりが薄く暗くなってきた。そろそろ、タシケント空港に向か
うことにしよう。ホテルを出たところから流しのタクシーを拾い、15分ほどで空港着。

 空港に到着したのが、出発の3時間前。早々とチェックインしておこうと思ったのが間違い。ここの空港の国際線は、ターミナルビルの入口のところで、航空券を見せて入るシステムになっているのだが、入ろうとしたら、1時間前にならないとダメと言われたのだ。テロ対策なのか、それとも狭いターミナルビル内の混雑を防ぐためなのだろうか。

 仕方なしに2時間近く、ビルの外側で荷物を持って歩いたり、
入口のところでじっと立っていたりした。外側にたむろしている人の中には、自分と同じアシアナ航空機に乗る人も多いみたいで、韓国語が飛び交っている。別れを惜しむ人たちにとっては、この入口が別れの場になるので、抱きあったりしている人も多い。

 やっとビル内に入ることができると、まずは税関申告書を書いて税関検査を受ける。税関を越えてから、チェックインカウンターで搭乗手続きを行う。相当、年季のはいったカウンターで、出発便を表示する案内板は壊れているのか使われていない。

 ついで出国検査。なぜかビザがないとか言われてしまった。ソウル行きの前に出発する北京行きの客と間違えられたみたいだった。出国検査を終えると、延々と長い通路を歩いて、待合室に向かった。その間の通路も薄く暗く、本当にこの通路でよいのか心配に思えるくらいであった。

 待合室は、日本の地方JR駅の待合室のような大きさで、すでに北京行きの人がたくさん待っていて、座ることはできず、立ったままであった。トイレに行くと、電気はつかないし、便器も壊れているしで、国際空港の設備としては不充分だ。

 やがて、北京行きの客を呼びにきた人が現れ、北京行きの人たちが一斉に移動し始めた。北京行きの搭乗なのだろう。空いた席に腰掛け、なおしばらく待つ。そして、ソウル行きの客を呼びにきた人について、バスに乗車。タラップの階段をあがって、アシアナ航空機574便に乗りこんだ。

 あとは、ソウルに向かうのみ。隣席の韓国人からは、自分も韓国人だと間違われた。その人は、タシケントで商売をしているらしく、そこで雇っている若者数人をソウルにつれていくようだった。若者たちは、韓国語と英語で書かれた韓国の出入国カードや税関申告書がわからないので、隣の韓国人が全員の分を書いていた。

 ウズベキスタンであったことを思い出しながら目をつむっていたら寝てしまっていた。気がつくと窓の外が明るくなっていた。まもなく朝食のサービス。アシアナ航空の夜行便の場合は、朝食は、普通の機内食とキムチ飯を選べるようになっているようだ。キムチ飯を頼むと、ご飯の上に大量のキムチがのっているというものだった。そのため機内はキムチの臭いで充満した。

 そして、9時10分、ソウル金浦空港着。このまますぐに日本への接続便がいろいろな空港に向けて飛んでいるのだが、ソウルでいったん降りてソウルを楽しんでから帰国することにした。

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