2025.3  大阪 道修町

 

 

製薬会社訪問
 北浜を散歩して、道修町は製薬会社が集中していて、展示がある会社もあることがわかった。この日は道修町を中心に散歩することにした。

 スタートは京阪・淀屋橋駅。
 御堂筋を南下。10分ほどで道修町(どしょうまち)に到着。「どしょう」とは、難読だ。

 この交差点の西南にあり、写真の右端に写っている建物が大阪ガスビルであとで訪問予定。
 
 この日は、製薬会社を何社か訪問予定だが、最初は「田辺三菱製薬」。史料館があり、11時からの予約をしていたが、少し早めに来たので、5分前まで待ってから入った。

 ここは、予約制。ガイドの有無を選べたので、ガイドなしで見学。
 江戸時代に薬種を扱う業者は、幕府から許可を受けた者だけの株仲間に加入し、道修町に住居・店舗を構えた。なるほど、それで道修町に製薬会社が多いわけだ。

 昔の田辺製薬の建物。右側が道修町。戦災で焼けるまで、この建物だった。戦後、ビルになり、2015年に現社屋になった。
 代々の当主は「田邊屋五兵衛」を名乗り、十数代に及んだ。この看板は1700年のもので、名前は初代の五兵衛。勅許とあるのは、朝廷の薬を扱うことを許されたことを示す。

 下   2007年に田辺製薬が三菱の傘下に入り、子会社化された。300年以上続いた、田辺が三菱傘下になったのには寂しさを感じた。

 展示では触れられていなかったが、2025年2月に三菱は、田辺三菱製薬を米国の投資ファンドに売却するという報道があったばかりだ。この先、どうなるのだろうか。
 三菱ケミカルという化学工業全般にかかわる会社の子会社となる過程をみると、田辺と合併した三菱ウェルファーマは、薬害エイズ問題のおこったミドリ十字と吉富製薬の合併でそのもとができており、なんだか田辺側にとっては、望まない展開をしてきたように思う。
 田辺製薬のサッカー部はかつて強力だった時期があったという。
 1964年の東京オリンピックのサッカー日本チームのペナント。

 当時の社長はサッカー普及に尽力したようで、東京大会はじめ5回のオリンピックに役員として参加している。

 史料館はなかなか見ごたえがあり、40分ほどかけて見学した。
 田辺三菱と道修町通りを隔てて斜め向かいにあるのが「塩野義製薬」。
 ロビーで簡単な展示をしていた。1分ほどで見終わる程度だった。

 塩野義の社章になっている分銅。
 田辺三菱と南北の通りを隔てた建物を1軒目とすると、3軒目が「住友ファーマ」。
 ここは、建物の外側からガラス越しに展示を見る方式だった。1分ほどで見終わった。
 
 住友ファーマと南北の通りを隔てて「武田薬品」の旧社屋がある。1928年の建築だが、現在は武田科学振興財団が入っている。

 2013年から本社は東京に移転、また大阪本社が大阪ガスビルと道修町を隔てて北側に移転した。
 内部には「杏雨書屋(きょううしょおく)」という展示室があった。

 武田薬品の沿革や昔の薬品に関する古書、特別展で古地図の展示をしていた。

 展示は撮影不可だった。20分ほどかけ見学した。
 御堂筋と道修町の交差点に戻る。武田薬品の大阪本社。左に少し写っているのが、大阪ガスビル。
 大阪ガスビル。

 1933年の建築で、角の部分が丸いのが特徴。登録有形文化財。現在も大阪ガスの本社として使われている。2027年に建て替えられるという。
 1階にはガスレンジの展示場やカフェ、クッキングスクールなどが入っている。
 8階にあるガスビル食堂で昼食をとろうと、専用エレベータへ。
 入口まで行くと満席の表示。また、別の機会に出直そう。
せんば自由軒で昼食、船場センタービルや丼池筋を歩く
 
 ガスビル食堂で昼食が食べられなかったので、本町にある「せんば自由軒」で食べることにした。

 15分ほどで、細長く、屋上を阪神高速が走る船場センタービルに到着。その地下にある食堂街へ。地下鉄・本町駅と直結している。
 
 「せんば自由軒」は、難波にある明治創業の「自由軒」の店主から、昭和45年に店を出店を許可されて開業した店だ。

 その後、「せんば自由軒」は出店数を増やし、自分も関西空港の国内線の付近にある店で食べたことがある。しかし、現在では関西空港はじめ多くの店舗から撤退した。
 
 昭和の食堂って感じの店内。この点は、本家の「自由軒」と同じ。
 
 インディアンカレー。

 カレーとご飯を混ぜた状態で出され、その上に生卵が置いてある。炒めて出すドライカレーではない。

 ソースをかけてから、生卵を混ぜて食べるのが推奨されていた。

 本家「自由軒」では「名物カレー」という名前だが、同じ料理だ。
 
 細長いセンタービルの中には各階、南北に通路があり、店が並んでいる。衣類や繊維製品の店がほとんど。

 これは地下の通路。
 
 1階の通路。
 
 外に出ると、細長い船場センタービルがある。左が8号館、真中が7号館。10号館まであった。屋上が阪神高速。
 
 
 丼池(どぶいけ)筋を北上する。

 かつては、繊維問屋街であったが、船場センタービルなどに移転し、今は、ごちゃごちゃした感じの飲食店街の中に、繊維問屋かちらほらある感じ。
 
 「スエヒロ」という洋食店があったが、天六にある同名の店と関係あるのだろうか。
旧小西家住宅見学
 道修町に戻る。15時から旧小西家住宅の見学予約をしている。それまで、道修町資料館と少彦名(すくなひこな)神社を見る。

 少彦名神社の社務所が1階にあるビルの3階に「くすりの道修町資料館」があり、入館。
 
 昔は歯磨き粉が医薬品扱いされていて、缶入りだったことを知った。
 
 目薬を扱う業者の標識かな。
 明治から大正初期の田邊五兵衛商店。

 20分ほど見学。
 少彦名神社に参拝。

 日本医薬の神様「少彦名」と中国医薬の神様「神農」を祀る。

 下   堺筋に面した「旧小西家住宅」。堺筋側から撮影。

 1903年完成で、2001年に重要文化財になった。
 
 
 上   道修町側から撮影。

 左   14時40分に、この入口から中へ。

 会社の紹介ビデオなどを見て待つ。
 
 
 上   主力商品になった「ボンド」。背景は、左に旧小西家住宅。」真中から右が、かつて堺筋に面して、道修町の南側にあったボンド工場。

 左   ガイドによる見学開始。参加は8人。中心になる座敷。整備される前は、洋室になっていて、社長室だった。
 
 サントリー製品が説明に置いてあった。

 サントリーの創業者、鳥居信治郎は、13歳から16歳の間、当時の小西儀助商店で丁稚奉公をした。小西儀助商店では、そのころ洋酒事業を手掛けていて、鳥居はここで洋酒の知識を得た。小西儀助商店はやがて洋酒事業から撤退した。
 
 
 床の間の横の上部にある小さな窓にある縦の隙間が7、5、3という縁起のいい数になっていると説明があった。
 
 庭園とその向こうには土蔵がある。
 
 台所。
 台所の上にある梁がとても丈夫だという。

 かまどには煙突がなく、煙は上にある窓から外に出したという。
 
 薬種を刻んで、粉にする道具。

 初代の小西儀助は、1870年に開業し、薬を扱ったが、薬以外の事業に重点を移し、やがて薬から撤退。その後の当主の時代にボンドで成功し、ボンドが事業の中心になった。
 展示室。
 展示室は、1994年まで本社事務室だった。

 1994年、道修町を挟んで南側に北浜コニシビルができ、本社が移転。
 上   昭和40年代。左に、当時の本社であった旧小西家住宅、真中から右には、ボンド工場がある。手前の道路は堺筋。

 下   2013年。左が、2001年に重要文化財になった旧小西家住宅、右が、1994年にできた北浜コニシビルで、この中に現本社があるほか、貸オフィスとして他社が入居している。
 
 ボンド容器のストラップを土産にもらった。

 1時間かけての見学だった。

 
 
 左、旧小西家住宅。右、現本社が入る北浜コニシビル。

 京阪・淀屋橋より帰宅。
 

 

 

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