2025.3 大阪 道修町
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製薬会社訪問 |
![]() スタートは京阪・淀屋橋駅。 |
![]() この交差点の西南にあり、写真の右端に写っている建物が大阪ガスビルであとで訪問予定。 |
![]() ここは、予約制。ガイドの有無を選べたので、ガイドなしで見学。 |
![]() 昔の田辺製薬の建物。右側が道修町。戦災で焼けるまで、この建物だった。戦後、ビルになり、2015年に現社屋になった。 |
![]() 下 2007年に田辺製薬が三菱の傘下に入り、子会社化された。300年以上続いた、田辺が三菱傘下になったのには寂しさを感じた。 展示では触れられていなかったが、2025年2月に三菱は、田辺三菱製薬を米国の投資ファンドに売却するという報道があったばかりだ。この先、どうなるのだろうか。 |
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![]() 当時の社長はサッカー普及に尽力したようで、東京大会はじめ5回のオリンピックに役員として参加している。 史料館はなかなか見ごたえがあり、40分ほどかけて見学した。 |
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![]() 塩野義の社章になっている分銅。 |
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![]() 2013年から本社は東京に移転、また大阪本社が大阪ガスビルと道修町を隔てて北側に移転した。 |
![]() 武田薬品の沿革や昔の薬品に関する古書、特別展で古地図の展示をしていた。 展示は撮影不可だった。20分ほどかけ見学した。 |
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![]() 1933年の建築で、角の部分が丸いのが特徴。登録有形文化財。現在も大阪ガスの本社として使われている。2027年に建て替えられるという。 |
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せんば自由軒で昼食、船場センタービルや丼池筋を歩く |
![]() 15分ほどで、細長く、屋上を阪神高速が走る船場センタービルに到着。その地下にある食堂街へ。地下鉄・本町駅と直結している。 |
![]() その後、「せんば自由軒」は出店数を増やし、自分も関西空港の国内線の付近にある店で食べたことがある。しかし、現在では関西空港はじめ多くの店舗から撤退した。 |
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![]() カレーとご飯を混ぜた状態で出され、その上に生卵が置いてある。炒めて出すドライカレーではない。 ソースをかけてから、生卵を混ぜて食べるのが推奨されていた。 本家「自由軒」では「名物カレー」という名前だが、同じ料理だ。 |
![]() これは地下の通路。 |
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![]() かつては、繊維問屋街であったが、船場センタービルなどに移転し、今は、ごちゃごちゃした感じの飲食店街の中に、繊維問屋かちらほらある感じ。 |
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旧小西家住宅見学 |
![]() 少彦名神社の社務所が1階にあるビルの3階に「くすりの道修町資料館」があり、入館。 |
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![]() 20分ほど見学。 |
![]() 日本医薬の神様「少彦名」と中国医薬の神様「神農」を祀る。 下 堺筋に面した「旧小西家住宅」。堺筋側から撮影。 1903年完成で、2001年に重要文化財になった。 |
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![]() 左 14時40分に、この入口から中へ。 会社の紹介ビデオなどを見て待つ。 |
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![]() 左 ガイドによる見学開始。参加は8人。中心になる座敷。整備される前は、洋室になっていて、社長室だった。 |
![]() サントリーの創業者、鳥居信治郎は、13歳から16歳の間、当時の小西儀助商店で丁稚奉公をした。小西儀助商店では、そのころ洋酒事業を手掛けていて、鳥居はここで洋酒の知識を得た。小西儀助商店はやがて洋酒事業から撤退した。 |
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![]() かまどには煙突がなく、煙は上にある窓から外に出したという。 |
![]() 初代の小西儀助は、1870年に開業し、薬を扱ったが、薬以外の事業に重点を移し、やがて薬から撤退。その後の当主の時代にボンドで成功し、ボンドが事業の中心になった。 |
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![]() 1994年、道修町を挟んで南側に北浜コニシビルができ、本社が移転。 |
![]() 下 2013年。左が、2001年に重要文化財になった旧小西家住宅、右が、1994年にできた北浜コニシビルで、この中に現本社があるほか、貸オフィスとして他社が入居している。 |
![]() 1時間かけての見学だった。 |
![]() 京阪・淀屋橋より帰宅。 |
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