2009.5     長 崎 & 軍 艦 島

 

 

山手−南山手−ちゃんぽん−軍艦島−西坂公園−皿うどん

1 長崎へ

   2009年4月末、長崎市に属する離島である端島、通称・軍艦島に上陸するツアーが始まったとの新聞報道を目にした。

 かつて海底から石炭を採掘していた軍艦島は、その異様な形から関心を持っていたが、ほどなく閉山され、立ち入りもできなくなり久しい。それが、上陸可能になったということで、訪問することにした。

 伊丹空港からJL2371で長崎へ。搭乗はブリッジからではなく、地上からタラップを上る方式。しかも、タラップまで歩いて行く。とてもわくわくする。

 機種はMD81で、とても細長いのが特徴。機内は、前に向かって左側2席、右側3席の座席配置になっている。

 やや揺れが多く、時間もやや多めにかかり、9時20分ごろに長崎空港に到着。

 長崎空港からは長崎県営バスに乗車。県営バスとは、他ではみない長崎独特のバスだ。

 9時25分発の出島道路経由のバスがまさに発車しようとして、飛び乗った。

 

 

  

  10時過ぎに、最初の停留所の長崎新地に到着。ここで下車。800円だが、2枚つづり回数券1200円を購入して、1枚を料金箱へ。復路にもう1枚を使えば、片道600円相当だ。 

2 東山手

 オランダ坂の方向に歩きだすと、やがて「鉄道発祥の地」と「運上所跡」の碑。

 鉄道発祥の地は、新橋・横浜では?と思ったのだが、解説を読むと、1865(慶応元)年に英国人グラバーが、蒸気機関車をこの地に走らせ、人々を運んだという。紹介的な運転で、新橋・横浜は営業運転なので、どちらも発祥の地を名乗るのもやむを得ないかなというところ。

 運上所は、現在の長崎税関の前身とのこと。

 旧英国領事館。赤煉瓦つくりの建物で、いかにも明治っぽい感じだ。

 以前は、野口彌太郎美術館として使われていたのだが、訪問時には、完成から100年が経ち、老朽化していることから、改修工事を行うこととなり、訪問時には美術館は移転していた。

  また、領事館見学のため敷地内に立ち入ることもできななかった。

 オランダ坂を上がりかけたところにあった「湊会所跡」の碑。

 湊会所とは、上にある「運上所」の前身。鎖国時代にあった「長崎会所」が幕末に「湊会所」さらに「運上所」となり、明治になって「長崎税関」となった。

 現在の日本の税関の設置場所は歴史を感じさせるもので、長崎、門司、函館、神戸、横浜などが、東京、大阪、名古屋などと併存している。

  やってきました。オランダ坂へ、ってもただ何の変哲もない坂があるだけだけども。

 左手のほうが坂道って感じなので、左手に進む。左手は活水女子大学になっている。

 女子大生の行きそうな店も見当たらず、静かなところで落ち着いた環境にある。

 旧居留地で洋館がいくつか見られる。

 東山手十二番館。

 もとロシア領事館、その後アメリカ領事館。現在は、旧居留地私学歴史資料館になっている。

 

 

 

 

  オランダ坂を上がりきったところ。活水女子大学の敷地が広がっている。

 英国聖公会会堂跡。1862年(文久2年)につくられたもので、日本最初の新教の教会。依然、日本人に対する禁教令は続いていたが、鎖国が終わり、外国人のための教会の建設は認められた。現在は、海星中学・高校の体育館が建っていた。

  下 昭和会病院。病院も周囲に合わせて洋館風の建築。  

 東山手洋風住宅群。

 7棟の洋風建築が残っている。明治20年代の建築。

 上部にある3棟のうち手前の1棟が、東山手地区街並み保存センターになっている。過去の様子を伝える写真などが展示されていた。

 下部にある4棟は、古写真記念館・埋蔵記念館になっている。

 

 

 

 

 

 孔子廟。正面の建物に中に孔子が祭られている。その後ろ、敷地の一番奥には中国歴代博物館がある。

3 南山手

   長崎は路面電車が生き残る街。石橋の終点にて。

 ここは、東山手と南山手の丘には挟まれた谷間に位置している。

 石橋から100m離れたところに、グラバースカイロードの上り口がある。

 右の画像は、東山手の丘の上から望遠で撮影した。

 お決まりのグラバー園にも行くのに、便利な物がいつのまにかできていた。グラバースカイロード。

 画像の左に見える斜めのものが斜行エレベータ。右上に縦に見える煙突のようなものが垂直エレバータ。

 斜行エレベータの入口は、路面電車の石橋から100mほどのところにあり、垂直エレベータを下りるとすぐにグラバー園の入口がある。  

 左は、射行エレベータに乗車して、下のほうを撮影したもの。

 ほとんど、周囲の展望ができないのが面白くない。外が見えるようにしてあれば、もっと楽しかったはずだ。

 乗車している感じとしてはケーブルカーだ。外が見えないケーブルカー。

 グラバー園は以前行ったときは、入口まで坂道を上がるのが大変だった思い出がある。今回は、グラバースカイロードで上がって、歩いて下るだけ。グラバー園を出て、大浦天主堂に行き、そのあと坂を下ったので、以前とは全然違って楽だった。

 斜行エレベータを降りたあたりから、東山手を見たもの。

 画像の中央に3つの小さな建物が写っているが、これらが、上で紹介した東山手洋風住宅群。

 垂直エレベータを上がったところからの眺め。

 左下に写っているのが、斜行エレベータの上部。

 斜行エレベータを降りて、そのすぐ目の前が、グラバー園の入口だ。

 グラバー園かグラバー邸かだが、グラバー園の中に、グラバー邸やそのほかの洋館がいくつかあると考えればよい。

 右は、入口を入ってすぐのところにある、旧三菱第二ドックハウス。

 下は、2階からの眺め。グラバー園内では一番眺めがよかった。

 旧リンガー邸。

 外壁が石造りの木造住宅。石柱が屋根を支えていて、木造とは思えない。

 

 

 

 

 旧自由亭。

 日本最初の西洋料理店。現在は喫茶店になっている。

 旧グラバー邸。

 グラバー園最大の見もののグラバー邸。

 日本最古の洋館。邸内には幕末の志士が隠れたとされる隠し部屋とか、高い位置にあってよっぽど背の高い人でないと映らない鏡があった。

 庭の花も丁寧に整備されていた。

 大浦天主堂。

 グラバー園を出て、すぐそばにある。木造の教会の中ではもっとも古く、国宝になっている。

 中にも入って、美しいステンドグラスを見たが、撮影禁止。

 

  

4 ちゃんぽん

 

 昼食は、ちゃんぽん発祥の店、四海楼でちゃんぽん。

 いろいろ混ざっていることを、チャンポンというが、その言葉が先なのか、この麺料理が先なのかよくわからないが、野菜に魚介類、豚肉がたくさん混じった麺だ。麺はかなり太い中華麺だ。

 

  ちゃんぽん博物館が併設されていて食事後、見学。 

5 軍艦島へ移動

 軍艦島への船に乗るため、港へ。移動に は路面電車を使った。

 運賃はなんと100円。いまどきこんな値段で乗れる交通機関はほとんどない。路面電車が生きながらえているだけでも珍しいのに、100円とは、、台所事情は苦しいだろうが、よく頑張っていて嬉しい。



 
 しかも、1回目の乗車では築町で乗り換えが必要なのだが、乗換券が発行されて、それを使えば乗り換えても100円。

 もっとも、以前は確か、大浦公園通から大波止まで乗り換えなしに行けたと思うので不便にはなっているのだが。

 

 乗船するのは、やまさ海運。長崎港ターミナルの中の乗船券売場を探す。はじめてであったが、難なくわかった。

 軍艦島上陸コースは、2009年4月末から開始されたが、土曜・日曜は大変な人気で、かなり先まで満員になっていた。そのため、平日を利用したのだ。

 運航が中止になることが多いらしく、運航されることが判明してうれしかった。とはいえ、島の近くまでいって、上陸できないこともあるらしく、まだ安心はできない。

 乗船した「マルベージャ1」。

 乗船券は再利用可能なように、ラミネート加工したもの。

 軍艦島まで1時間ほど。島が近づくと、首から下げる札が配られ、色でグループ分けされる。下船前には、島での注意事項が説明される。

6 軍艦島にて

 ついにやってきました。軍艦島へ。

 島は南北480m、東西160m。周囲1200m。そんなに大きくはない。

 

 

  まずは、第1見学広場に向かうのだが、その途中に、廃墟が少し見えた。上部に幹部用住宅。真ん中に貯炭ベルトコンベア。

 第1見学広場からの眺め。

 端島小中学校。

 1958年に造られた校舎で、7階建て。1階から4階までは小学校。5階と7階が中学校。6階は、講堂、図書館、音楽室が設けられていた。

 手前に見える鉄骨が出ている廃墟は、1970年にできた体育館。

 1970年には給食を運ぶエレベータが設置され、これが島で唯一のエレベータだった。

 幹部用の職員住宅。

 1959年に造られたもので、この住宅だけが風呂付だった。ほかの住宅は、共同浴場を利用した。

 貯炭ベルトコンベア。今は支柱が残っているだけ。

 精選された石炭はベルトコンベアによって運ばれ、貯炭場に蓄えられ、運搬船に積み込まれるのを待った。

 

  今は緑が蘇ってきているが、以前は、全島コンクリートに覆い尽くされていた。

  左隅にトンネル跡が見えるが、このトンネルを通りボタ(廃炭)が運ばれ、31号棟から海に捨てられた。捨てた場所は船から見える。 

 貯水槽と灯台。

 貯水槽は軍艦島の最高所にあり、両側が絶壁のようなところに造られている。

 遠方から見ると、軍艦の司令塔のように見えるところだ。

 灯台は新しく、島が無人になって以降の1976年に造られた。島に人がいた当時は、夜でも明かりが輝いていたから、島自体が灯台のようなものだったから不要だった。

 第二竪坑坑口桟橋跡。

 竪坑は作業員が採掘現場との行き帰りするときや、採掘された石炭を運び出す為に地上から垂直に掘られた穴。

 作業員や石炭はエレベーター乗って上がり下がりしたというが、枠組みだけの箱だったから、怖かっただろう。

 4つの竪坑があったが、第二が主力だった。今は、竪坑に向かう桟橋(っていうのにも驚き)と階段だけが残っている。

 次に、第2見学広場へ。

 総合事務所。軍艦島の中枢であったレンガ造りの建物。

 ほとんどの建物がコンクリート造りで灰色なので、レンガの色はとても鮮やかだ。昔もそうだったのだろう。

 この中には共同浴場もあった。ここに限らず、共同浴場の浴槽はいつも真っ黒だたっという。

 天川(あまかわ)。明治時代には、島の護岸は天川という接着剤を使って石組を造って、工事された。赤土と石灰岩を混ぜてつくったという。

 

 

 

 

 

 島のあちこちに、天川による護岸や擁壁が残っている

 25mプール。1958年に造られた。閉山の1,2年前まで海水を使っていた。

 65号棟の屋上の幼稚園にもプールがあったが、そちらは最初から水道水を使っていたという。

 最後に第3見学広場へ。

 左が30号棟。右が31号棟。

 30号棟は、1916(大正5)年に建てられたもので、日本最古の鉄筋コンクリート造りの高層住宅。

 内部には吹き抜けの廊下と階段、地下には売店があったという。

 31号棟は1957年にでき、海に面していて、地下に共同浴場、1階に郵便局などがあった。

 第3見学広場の近くには建物があまり残っていない。

 

 

 

 

  見学を終え、船に戻る。右の画像の人の集まっているのが第1見学広場。

  乗船時に神社を発見。望遠で撮影。4月3日が祭りで、その日は鉱山も休みだったという。

 

 

 

 

  海中から突き出ているのは、積み込み桟橋の跡。

 上は、軍艦島全景。この角度からが一番、軍艦らし い。

 左は、31号棟を船から見たもの。窓の内側にベランダがあり、その内側にも窓のある壁があった。波よけのため二重壁になっていた。

 建物の左下に、2つの窓がつながっているところがあるが、そこで貯炭場からベルトコンベアで運ばれてきたボタが海中に捨てられていた。 (ボタとは、石炭の採掘のさいに発生する不要な石。陸上ならボタ山がつくられた。)

 上は、船から見た高層住宅群。右上に神社も写っている。

 右画像の中心に写っているのが1958年に造られた病院。左に離れているのが隔離病棟。

 島内の各建物は廊下や地下道で結ばれていて、島のどこの建物に行く場合も傘をささないで行けたという。

 

 船から見た端島小中学校。

 陸上から見た側に比べて窓がとても大きいのが特徴。

 これで軍艦島ともお別れ、

7 最後にちょこっと長崎

 三菱重工長崎造船所のドックと福江からのフェリー。

 戦艦大和をはじめ多くの船がここで建造された。

 

 

 

 

  船から見た南山手。中央の上部にグラバー園が見える。

 下船のあと、再び路面電車に乗って長崎駅前へ。

 

 

 

 

 

  長崎駅も以前と全然違っていた。

 長崎駅前から坂をあがって、西坂公園へ。26聖人の記念碑を見て、そのあと記念館に入ろうとした。

 残念ながら記念館は17時で閉館。以前来たことはあるのだが、もう一度、壁画を見たくてせっかうやってきたのに、、

 左は、西坂公園にいた猫。

8 皿うどん

 駅前の店で、夕食に皿うどんを食べた。

 皿うどんも四海楼が発祥の店らしい。麺は細い乾麺であるが、かかる具はちゃんぽんと同じような材料だ。

 ただ、片栗粉でどろどろになった餡の状態になっているところがちゃんぽんと違う。

 どうして、中華麺なのにうどんというのだろう。これはよくわからない。

 

9 帰り

 駅前のバスターミナルから空港バスに乗車して、空港へ。

 

 

 

 

 

  空港に到着。県営バスなので、車体にKEN-EI BUSとある。

 JL2378便で伊丹へ。

 日帰り長崎&軍艦島の旅も無事終了。

  (注: 2015年に軍艦島は「明治日本の産業革命遺産」  のひとつとして世界遺産に指定された。) 

 

 

ユーラシア紀行のトップページ