2023.10     近 江 八 幡 

ヴォーリズ記念館とヴォーリズ学園
 近江八幡を拠点にして、建築、学校、病院、メンソレータム製造販売、宣教などで活躍したヴォーリズの活躍を見るために、近江八幡へ行った。あわせて、豊臣秀次の居城、八幡山城にも行った。

 ヴォーリズ建築は、2022年に3ヶ所で見学し、関心を持っていた。2022年に訪問したのは、下の3つ。
 
 2022年4月に行った、京都・一乗寺の旧駒井邸。
 
 2022年4月に行った香川・大島(かつてハンセン病療養所)の礼拝堂。

 
 2022年7月に行った、北海道・北見のピアソン記念館。北見の発展に尽力した宣教師ピアソンの住宅。何も知らずに訪問し、現地で、ヴォーリス設計だと知った。

 このほか、ヴォーリズ設計の建築では関西学院大学本館や大丸大阪心斎橋店に行ったことがある。

 

 本日は、ヴォーリズの本拠地でヴォーリズ建築を見てまわる。
 
 ヴォーリズ記念館は予約が必要で、前日、10時30分の予約。
 
 近江八幡に9時16分に到着の新快速に乗車。

 ところが、途中、瀬田を出た所で急停車。人身事故のためのようだ。

 結局、30分間停車。25分ほど経過後、後続の普通電車が追い越していった。複々線だからこういうこともおこる。

 下  やがて動き出し、草津で普通電車に追いついた。近江八幡には30分遅れで着いた。

 
 
 近江八幡駅。

 ヴォーリズ記念館までは徒歩35〜40分ほどかかりそう。10時30分に間に合うかきわどい。

 10時に、記念館近くに行くバスがあったので、バスに乗ることにした。
 バスに乗車。
 ヴォーリズ学園前で下車した。10時15分。高校生数人も下車。

 以前は、近江兄弟社学園だったが、2014年に改称。ただし、校名は、近江兄弟社小中高。

 近江兄弟社は、メンソレータムで昔から、知っていたが、30年ほど前、一度だけ甲子園に出場して、学校があることを知った。そのときはメンソレータムと学校がどうして結びつくのかわからなかった。
 
 学園の正門前を通り、記念館に向かった。

 ヴォーリズ没後の校舎だが、ヴォーリズ建築の特徴であるアーチや採光しやすくするための出っ張りなどが見られる。
 10時25分、ヴォーリズ記念館に到着。

 記念館はもとはヴォーリズの自宅建物。訪問者は自分を入れて3組4人。
 見学できたのは1階の応接室とその奥の和室だけだった。内部の撮影はできたが、ネットへの公開はダメということ。

 最初にビデオを見てから、自由に展示を見る。

 ここで、パンフレットには掲載されていない、つっかーハウスなどヴォーリズ記念病院内にあるヴォーリズ建築がこの日公開されていると知り、申し込んだ。

 

 
 表札は「一柳」。

 ヴォーリズは1919年、39歳のとき旧小野藩主、一柳家の満喜子と結婚。この前後に近江兄弟社を設立し、学園、病院、メンソレータム製造販売をはじめている。

 1941年、61歳のとき、日本に帰化を決意し、名前を一柳米来留(めれる)とした。1964年、84歳で昇天。

 近江兄弟社はメンソレータムを通じて昔から知っていたが、ずっと、兄弟2人で設立したんだと思っていた。記念館で見たビデオで、"人類みな兄弟"という考えに基づいているんだと初めて知った。
 
 記念館の裏手にヴォーリズ学園の裏門がある。学園内の「ハイド記念館」は一般公開されていて、この門の右手から中に入れる。
 
 ハイド記念館。

 1931年、ヴォーリズ設計の建築で完成。かつて幼稚園の校舎としてつかわれていた。

 10月6日から500円の入場料をとるようになったと申し訳なさそうにいわれた。以前は学校見学として無料だったそうだ。

 
 玄関を入ったところ。
 
 かつて幼稚園の教室であったところ。最近、リノベーションされたようで、中は新しい。
 
 廊下は建築当時の雰囲気がよく残っていた。
 
 別棟の「教育会館」と呼ばれる建物へ。中は体育館だった。

 バスを下りた際、新しい体育館ができていたので、ここは使われてはいないのだろう。
 
 見学を終え、退出。
 
 裏門から見た、ハイド記念館(右)と体育館(左)。
街歩きして近江兄弟社メンターム本社へ
 続いて、近江兄弟社メンタームの本社に向かう。昔ながらの民家が多く残っていて、散歩も楽しい。
 
 ところどころにヴォーリズ設計の建築が残っているので、見ながら散歩。

 もとは医院であった村岡邸。窓のアーチなどが見える。
 
 この付近は、近江商人の商家が多く残っていて重伝建(重要伝統的建造物群保存地区)になっている。
 
 ヴォーリズ建築である旧八幡郵便局。

 下   旧八幡郵便局は中に入れるという情報もあったのだが、土日のみの開館だった。中はカフェなのだが、カフェは金土日の営業。金曜はカフェはやっているが、見学はできないって、どういうことなのだろうか。
 
 「まちや倶楽部」という昔の酒蔵を利用し、民芸品などの店舗が集まった施設を通る。左の緑色のは、清酒をつくるタンク。
 
 「まちや倶楽部」を通り抜けたところに、ヴォーリズ設計の「アンドリュース記念館」がある。

 現在は、介護支援センターなどとして使われている。不定期で内部見学ができる。2階の外観は和風。
 
 ヴォーリズ設計の近江八幡教会牧師館(旧近江兄弟社地塩寮)。

 撮影している自分の背後に近江八幡教会があり、その牧師館だが、もとは近江兄弟社の社員寮であった。
 
 酒蔵かどうか確認していないが、酒蔵なみに大きな古い建物が多くある。
 
 古道具屋の店頭。
 
 「近江兄弟社メンターム」の本社へ。1階の一部が小さい展示館になっている。
 歴代のメンソレータムの展示。
 
 ヴォーリズ書の「神の國」。もとになった書は、ヴォーリズ記念館にかかっていた書のようだ。
 
 本社の裏手にあるメンターム工場。
 
 本社から道路を隔てて向かいにあるヴォーリズの等身大の像。
近江牛の昼食のあとヴォーリズ記念病院へ
 12時を回り、昼食をとる店を探す。

 「千成亭」に入店。古民家をリノベーションしたような店。

 1階が肉屋で、コロッケなどをその場で食べることができる。2階はレストランで、2階に上った。
 
 1階の肉屋。
 
 2階のレストラン。
 
 近江牛焼肉御膳。
 
 生ビールとプレミアムコロッケとお茶。
 
 近江牛を堪能したほか、前年に湖東三山へ行った際に食べた赤こんにゃくもついていて、久しぶりにいただいた。

 赤こんにゃくもこの一帯の名産なんだな。
 
 近江牛プレミアムコロッケ。確かに、普通のコロッケよりも肉が多く使われている。

 下   食後はヴォーリズ記念病院に向かう。13時30分、見学開始なので急いだ。

 12時50分にレストランを出て、30分で着くかと思っていたが、最終地点で工事。大回りしなければならず、着いたのは見学開始の2、3分前。
 
 
 ツッカーハウスで集合だったが、ほかのところを見学して、最後にツッカーハウスに戻るということ。

 最初に礼拝堂へ。ここは現在でも使われている。三浦綾子の書もあった。

 この病院は、当初は結核療養を専門にしていたこともあり、キリスト者で結核で闘病した三浦綾子とのつながりもあったのだろう。

 内部の撮影はできたが、公開はダメとのこと。
 
 五葉館。

 写真の裏手に入口があり、ホールから5つの病室が突き出ているので五葉館と呼ばれる。

 結核などで長期入院していた人が退院する前にここですごしたという。

 湿気を避けるために高床になっているし、熱気を逃すための煙突状のものがある。

 内部の撮影ができたが、公開はダメとのこと。
 
 ツッカーハウス。

 1918年の建築で1980年ごろまで、病院の本館として使われた建物。今は同じ敷地内の別の建物が病院になっている。

 アーチや採光のための出っ張りなどヴォーリズ建築の特徴がわかる。

 約10年間、修復工事がおこなわれ、2023年に日を限定して公開されるようになった。
 
 病院の玄関らしい雰囲気がただよっている。
 
 男性用病室。

 一番奥の右側がでっぱりの部分。
 
 採光用のでっぱりの部分。南側で太陽がよく入るように設計されている。
 
 女性用病室は、展示があり、撮影はできたが、公開はダメということ。

 比叡山の修行を病気で断念した僧侶が入院してキリスト教に改宗したこともあるとのこと。

 ヴォーリズは、患者を「病客」と呼んで大切にしなさいと言っていた。階段の段を広く、低くするなどの工夫もあった。

 2022年に訪問した香川の大島療養所の礼拝堂のことも写真入りで説明されていて、ハンセン病にも見識をもっていたようだ。
 
八幡山城跡
 八幡山城跡に向かう。

 街の中心に戻り、白雲館を見る。

 これはヴォーリズ建築ではなく、明治10年につくられたもの。学校、役場、信用金庫などで使用され、修復されて、観光案内所になっている。時間の関係で中には入らなかった。
 白雲館と道路はさんで建っているのが、日牟礼八幡宮の鳥居。
 鳥居をこえてすぐに八幡掘がある。

 昭和初期まで物流の大動脈だった。沿岸には白壁の蔵が残る。一時は廃れたが、観光資源として復活したようだ。

 下   日牟礼八幡宮。左は本殿、右は能舞台。
 
 
 ロープウェイで八幡山城に向かう。

 右下に山麓駅はあり、左上に山上駅がある。索道も見える。
 
 ロープウェイ。

 15時30分発で山上に向かう。最終便が16時30分なので、山上を一周できるかやや心配。
 
 山上駅についたあと、本丸に向かう。

 本丸跡は、村雲瑞龍寺門跡になっている。寺に上るところに石垣がある。

 この石垣は1585年、豊臣秀次によって築城された当時のものだという。
 
 村雲瑞龍寺門跡。

 門跡とは皇室と関係のある寺。写真ではみにくいが、写真真中下の賽銭箱には菊の御紋がついている。

 ここは日蓮宗で、日蓮宗で門跡寺院はここが唯一だという。
 
 豊臣秀次像。

 秀次は、秀吉の姉の子で、世継ぎに恵まれなかった秀吉が、一時は後継者と考え、秀吉の指示で八幡山城は1583年につくられた。

 その後、1591年には秀吉は関白の地位を譲る。1592年には伏見城の築城がおこなわれるが、秀次がとりしきった。ところが1593年に、秀吉に実子、秀頼が生まれると、状況がかわりはじめる。

 そして、1595年、突然、秀次に謀反の疑いがかけられ、秀次は切腹する。八幡山城も廃城になった。

 1596年、秀次の母である秀吉の実姉は京都に寺を開き、秀次や連座して処刑された一門を供養した。その後、皇族出身の尼僧が住職をつとめる門跡になった。昭和36年にこの地に移転した。
 
 
 上   本丸から下りたあと、北の丸へ。

 背景の大きな山の右側が、観音寺城のある山。その手前の少し低く、色が濃くなっている部分が安土城のある山。

 観音寺城は日本100名城、八幡山城は続・日本100名城。一般的に、100名城は行きやすい城、続は行きにくい城が多いが、この2城だけでいえば、観音寺城は行きにくく、八幡山城は簡単に行ける。

 左   つぎに西の丸へ。琵琶湖がよく見える。
 
 
 上   つぎに出丸へ。

 ここからは琵琶湖も見えたが、近江八幡市街もよく見えた。

 左   本丸の寺からはかなり下ったと判明。

 ここから本丸近くまで戻らずに、ロープウェイ乗場に行く道が、悪路だと表示されていた。

 少し迷ったが、悪路を選んだ。確かに、なかなか大変な道だったので、あまり勧められない。幸い、転倒したりしなかったが、危ないルートだった。
 山上駅に到着。時刻表では最終になっていた16時30分発の便に間に合った。
 
 計画では行くつもりだった市立資料館。

 入場16時まで、16時30分閉館ということで間に合わなかった。外観だけ見ておく、かつては警察署だったらしい。これはヴォーリズ建築ではない。
 ヴォーリズ設計のウォーターハウス記念館。

 もともと限られた日だけ入場でき、この日は入場できなかった。外観だけ見ていく。
 吉田悦蔵邸。ヴォーリズとともに働いた吉田悦蔵の住居。

 ヴォーリズ設計の建物はパンフレットで見ると、もう少しあったが、遅くなり、少々飽きてきたこともあり、ここでおしまい。

 下左   バス停に行くと、ちょうど駅行きのバスがくるので乗車。

 下右   JRで帰宅。 
 
 
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