11 堺 |
市中心の東部 |
![]() スタートは南海高野線・堺東駅。難波から、準急でやってきた。車内放送で面白かったのは、準急のことを"準急行"と言っていたこと。他の私鉄でも聞いたアナウンスだが、たいていは"準急"というので、面白かった。南海では、特急は"特別急行"ってアナウンスしているんだろうな。 |
![]() これは堺東駅にあったタッチ決済用の自動改札機。ICカードとの違いがわかりにくいのか、撮影していたほんの十数秒の間に、ICカードの人が通ろうとして、通れなかったケースを目撃した。 |
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![]() 堺市役所の近くから堺東駅のビルを撮影、ビルの大部分は高島屋になっている。 |
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![]() 下 仁徳天皇陵を見る。近くで見るよりはよくわかるが、それでも、ただの森のような感じで、前方後円墳と確認しづらい。 |
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![]() 左 反正天皇陵の拝所。 |
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![]() この付近は、河内・摂津・和泉の3国の境にあった。付近の丘は"三国ヶ丘"と呼ばれた。駅名などにもなっている。そのため、方位がない地の神社だという。 そのために、旅するときや家を移るときに、ここに参れば災難に遭わないとされた。 |
![]() 1890年代から、堺は自転車や自転車部品の製造地となった。 |
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市中心の北部 |
![]() 幅の広い道路のような公園だ。道の代わりに少し歩いた。 |
![]() 環濠のうち下と右(北が右の地図なので、東と北)の部分は、戦後、埋め立てられ、公園になっている。 |
![]() 1868年、堺港で、土佐藩士がフランス人を殺傷する事件が発生。土佐藩士は切腹になった。切腹は妙国寺でおこなわた。 その際の、土佐藩士とフランス人の慰霊碑。 |
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![]() 創建は15世紀だが、現存する本堂は1822年のもので、堺の木造建築物で一番大きい。 |
![]() 下 南蛮屏風があった。最近の作のようだ。 |
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![]() すぐ北にある覚応寺は閉まっていて入れなかった。 |
![]() 火曜が休みだったので水曜に行ったのだが、閉まっていた。あとでわかったのだが、訪問した2月28日の4日後の3月3日にほかにもある町家歴史館がリニューアルされて公開されるらしく、それまでは休みのようだ。 |
![]() このあと、かつて寺子屋だった清学院にいったが、同じく入れなかった。町家については、訪問しなおすしかない。 |
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![]() 伝統工芸の包丁、鋏を中心にした展示施設。 |
![]() かつては豪商の屋敷があったところで、屋敷にザビエルが招かれたこともあり、名づけられた。 |
市中心の南部・西部 |
![]() 生家は、和菓子の老舗「駿河屋」で、ここから道路の向こう側まで建物がかつてあった。 |
![]() 千利休と与謝野晶子のミュージアム。 |
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![]() 長く民家などになっていたが、平成になって屋敷跡の一部が整備された。 奥にある井戸は、利休の時代の井戸が今もいきているのだという。 |
![]() 千家一門の墓がある。庭園なども見たが、敷地内はすべて撮影不可だった。 |
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![]() 店内での営業はしておらず、テイクアウトのみだった。 |
![]() 環濠沿いにベンチがあったので、そこでいただいた。 |
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![]() 南蛮貿易に使われた港は、大和川のつけかえで衰退し、かわりに江戸時代につくられた。 しかし戦後の臨海工業地帯の造成でここも衰退し、いこいの場として整備されている。 |
![]() 1877年に建造された木造の灯台。1968年まで使われた。近年、整備された。 |
![]() 堺東駅で降りてから、7時間30分。歩いた距離は12qほど。 |
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