2025.2 伏 見 |
「鳥せい」で昼食 |
![]() スタートは京阪・伏見桃山駅。 |
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![]() トレイルの沿線には観光地も多くあり、トレイルウォークと並行してトレイル近辺の観光地も「トレイル特別編」として回った。水色の13ヶ所。 |
![]() 銀座は、銀を鋳造し銀貨を作ったところ。東京の銀座が有名だが、大坂、駿府、長崎とともに伏見にもあった。この付近の町名は、銀座町。 下 大手筋商店街。 秀吉が築城した伏見城の大手門から伏見市街地に延びる通りとしてつくられ、筆吉時代から現代まで伏見の中心になる通り。写真ではよくわからないが、西に向かって(写真では奥に向かって)、高度が低くなっていく。 |
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![]() 清酒「神聖」をつくる蔵元・山本本家の直営の飲食店。右手の入口は、「神聖」の直売店。 |
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![]() 左上は、かす汁。右上は、自家製豆腐。 左 単品で注文した串。生麩田楽、とりねぎ、アスパラのベーコン巻。 昼食で、運転する人もいたので、アルコールはなし。 |
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中書島へ向かう |
![]() 写真の左(西)からの道は「鳥せい」の駐車場に突き当たる。手前(南)からの道は門(東本願寺伏見別院)に突き当たる。同じところで、右(東)からの道も突き当たる。この写真では見えないが、北からの道も突き当たる。 |
![]() どの方向から攻めてこられても先が見えないようにする仕組み。伏見城の城下町ができたときにつくられた。 |
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![]() 日本最初の営業運転の電車は、1895年開業の京都電気鉄道の路面電車で、京都駅近くからこの地までであった。 |
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![]() 1866年、龍馬が伏見奉行に捕まりかけたが、2名を銃殺し、負傷しながらも逃亡した。 この付近、伏見港のそばであり、鉄道開通前には旅籠屋が多数あったが、今は寺田屋だけが残る。 |
![]() 川は宇治川派流。秀吉の伏見城築城のさいに工事資材の運搬のために、掘られた川で、沿岸が伏見港になった。 この写真ではよくわからないが、中央付近に龍馬とお龍の像がある。 |
![]() 1868年「鳥羽伏見の戦い」の前日に「伏見口の戦い」があり、会津藩、新選組など幕府軍が火を放ったと案内板にあるが、本当なのだろうか。 |
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![]() 注目すべきは、碑の左下にある建立者。「伏見市長」とある。あまり知られていないが、かつて「伏見市」が存在していたことがわかる。 平成27年のデータで、京都市の人口は147万で、区別にみると伏見区が最大で28万。"京"と別の歴史、文化を持つこともあり、独立した市であっても不思議ではない。 伏見市は1929(昭和4)年に市になり、1931(昭和6)年に京都市に編入と存在期間は短かった。 |
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![]() 楼門が中国風。弁財天を本尊として。"弁天さん"と呼ばれる。伏見奉行によって、中書島の開拓のために創建された。 |
![]() 下 長建寺の壁の外側に、宿場の紹介があり、伏見は54番目の宿場と書いてある。宿は寺田屋付近に多い。 |
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![]() 山科で京へ向かう街道と大坂へ向かう街道が分かれていた。以前、「ブラタモリ」で、西国大名が参勤交代のさい、京に立寄り、朝廷と接することを防ぐため、大坂へ向かう街道は、京から南下じゃなく、山科で街道をわけたと解説していた。 |
![]() 駅舎の左側の行き止まり道路の部分が、かつて市電の停留所があった部分。市電廃止でバス化されたあとも、しばらくここがバス停留所だった。現在は、200mほど離れた場所へバス停が移転している。 |
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![]() 下 この橋は「角倉橋」。長さは数m。南から撮影。 |
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清酒と桜餅を購入 |
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![]() 左 見学などはやっていないが、酒の購入は事務所でできる。 |
![]() ![]() 左右 ラベルは酒蔵を描いたもの。 |
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![]() 桜餅といえば、ほとんど関西風の"道明寺"しか食べないのだが、以前からこの店だけは京菓子店だが、桜餅は"長命寺"だった。 |
![]() 餅ではなく、薄くした団子のような食感の皮でこしあんを巻いている。皮は、クレープよりはかなり厚い。 今回は何度か行ったところの再訪問がほとんどだったが、面白かった。 |
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