1998 ウィーン

1日目

1998年、ウィーンを起点に旧ユーゴスラビア各地とブダペスト、プラハを回り、ウィーンに戻る旅をした。すでに時を経て2004年なのだが、アルバムをもとにして、写真中心の旅行記をつくっておくことにした。

オーストリア航空でウィーン・シュヴェヒャート空港に到着後、国鉄で30分、ウィーン・ミッテ駅へ。ここで地下鉄に乗り換えて、ウィーン西駅で下車。西駅近くのホテルを予約しておいたので、そちらに向かった。ウィーンの路面電車、独特の面構えをしている。

ウィーンの起源は、ローマ時代までさかのぼり、2世紀ごろにウィンドボナという名で町がつくられた。10世紀に、バーベンベルク家がオーストリアを支配し、ウィーンはその都となった。13世紀に、バーベンベルク家が断絶し、その後の混乱を経て、ハプスブルク家がオーストリアを支配するようになった。ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国の皇帝を輩出するようになり、ウィーンも神聖ローマ帝国の中心となった。その後、神聖ローマ帝国はなくなるが、オーストリア帝国は広大な領土を持ち、ウィーンはその都として繁栄した。

 

2日目

この日はウィーン市内を回った。まずは、シェーンブルン宮殿へ。地下鉄のシェーンブルン駅で下車。

シェーンブルン宮殿は、16世紀にまず建築され、17世紀にトルコ軍に破壊されるが、大規模な修築が行なわれ、18世紀初頭に完成した。修築にあたっては、マリア・テレジアの意向が大きな影響を与えたといわれる。 そして、オーストリア最大の宮殿となった。ハプスブルク家の夏の離宮とも言われる。下の画像は、宮殿の正面。

この中には1000以上の部屋があるが、見ることができるのは40室。2階の部屋を見学でき、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の寝室、執務室やマリーアントワネットの部屋などがある。マリーアントワネットは、15歳でフランスに嫁ぐまで、この宮殿で育ったのである。

大広間は、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間を連想させるような部屋で、豪華なシャンデリアが多数使われていた。多くの部屋に、暖房用として陶器製のストーブが置かれていた。暖炉ではなく、室内にストーブと煙突を設置しての暖房が利用されていた。なお、残念ながら、宮殿内は写真撮影が禁止されていた。

宮殿の裏手は広大な庭園になっている。上の画像で、丘の上に見える建物は、グロリエッテで、現在はカフェになっている。グロリエッテまで結構遠くて1kmくらいある。

上の画像は、温室。宮殿に温室まであることにびっくりさせられる。19世紀末にフランツ・ヨーゼフ皇帝の命により建築された古い温室である。この中にははいらなかった。

シェーンブルン宮殿は見学に時間がかかり、地下鉄でウィーンの中心部に戻ると昼になっていた。

午後はまず、王宮へ。にぎやかな通りのすぐそば、市街地のど真ん中にある。王宮は、旧王宮と新王宮にわかれていて、旧王宮にはいってすぐに宰相宮があるが、皇帝が住んでいたところである。このほかいろいろな建物があり、複雑に入り組んでいて全体像が把握しにくい。いくつかの建物は博物館になっている。このときは、旧王宮だけを一通り回り、新王宮はまたの機会に行くことにした。

続いて、国立オペラ座へ。内部の見学ツアーに参加して、舞台裏などを見ることができた。

次に、国立図書館プルンクザールへ。古書の殿堂である。

自然史博物館、この建物の正面に相対して、つまり撮影している自分の背の側にほとんど同じような建物である美術史博物館がある。同時行けばいいのだが、休館日が微妙に違っていて、自然史博物館は火曜日休館であるのに対し、美術史博物館は月曜日休館である。たまたまこの日は月曜で自然史博物館だけに入った。

自然の諸分野にわかれて展示がなされているが、鉱物、隕石の展示コーナーには、宝石がたくさん展示されているのが特徴である。建物自体の内部の装飾も美しい。

ウィーンの中心にそびえているのが、シュテファン寺院。高さ137mで上部まで撮影ができず、下部だけを撮ったのだが、それでも巨大である。内部にも巨大な聖堂がある。

12世紀、バーベンベルク家がウィーンを支配していた頃に作られ始め、途中、火災で焼失したりしながら、14世紀、ハプスブルク家の時代になって完成した。

この地下にはカタコンベがあり、ペストで死んだ人の骨やハプスブルク家の人々の心臓以外の内臓などが保存されている。

少し離れたところから撮影すると、塔の先端まで撮れたが、市街地の中なので、全景を撮影するのは難しい。

この日は、ほかにフロイト博物館に行った。市内を歩き回り、かなり疲れた。

トップページへ     3日目へ