2 日 目 前 編

(旧暦1月1日)

  幸い、2日目、曇っているが雨は降っていない。この日は1日中、世界遺産に指定された史跡や広場を中心に澳門を歩き回ることにした。

  アズレージョによる道路案内板、上のものはポルトガル語がメインで漢字が小さく書かれているタイプのものだ。

  澳門の大通りは、「○○○大馬路」という名がついている。馬車が通れる大きな通りということから、大馬路と呼ばれているようだ。

  ところで、澳門は広東語ではオームンと読む。 「澳」は、奥深く入り込んだ湾のことで、澳門とは「湾の入り口」という意味である。確かに、珠江の大きな河口の入口に位置している。一方、マカオも広東語からきた名前だ。マカオの語源は、市街地の南にある媽閣廟(マーコックミュー)だ。そんなわけで、2つの言い方が並存している。ポルトガル統治時代にMacauという名が定着し、国際的には、マカオという名が知られている。  

  この日、まず訪問したのは、紅街市というマーケット。建物がレンガ造りで紅色であるところからこう呼ばれる。

  だが、この日はお正月とあって、中の店はほとんど営業していなかった。そればかりか、普段ならば、マーケットのそばには、朝から屋台がでているらしく、朝食もここで、、と思っていたのだが、あてがはずれた。

  かわりに、マクドナルドで朝食。澳門にも何軒もマクドナルドを見かける。KFCやスターバックスもあるのがわかっていたので、お正月なので、ひょっとしたらレストランが閉まっているかもしれないけれども、だめならこういう店で食事しようと考えて出発したのだった。

  最初に向かったのは澳門の北のほうにある連峯廟。その道中にあった歩道橋がこれ。何と、4つの角に、それぞれ上り下りのエスカレータがついていて、階段はついていなかった。エスカレータで上り下りできるなら、下の道を横断する人もいないだろう。

  連峯廟の中。お正月とあって、たくさんの人がお参りしていた。

  天井には、巨大な巻き線香。境内では爆竹がときどき鳴り響いていた。

  連峯廟に行ったのは、この境内に林則徐紀念館があるからだ。林則徐は、清末に英国のアヘン貿易に反対して、アヘン没収などをおこなったが、これが原因でアヘン戦争になり、英国は香港島を手に入れた。

  ここに紀念館があるのは、戦争の前日に彼はここに泊ったためである。彼はポルトガル人と会談し、戦争での協力を求めたのだが、その会談の様子が等身大の人形で再現されている。入口左手には彼の銅像があった。林則徐は高い評価を得ていることがわかる。

  連峯廟をあとにして、再び紅街市の前も通って、世界遺産の集まるエリアへと移動した。途中、商業地区と住宅が混在したようなところが続く。コンビニもいろいろな場所で見かける。

  あちこちの建物の入口の脇には、小さな飾りが置いてあり、線香がたかれていた。建物の安全を願う正月の風習なのだろう。

  聖アントニオ教会(1)は現在のものは20世紀になってからのものだが、もともとは1558年に建てられた澳門で一番古い教会である。その後、何度か火事にあって、その都度、再建されてきた。入口の向かって左手には、大きな十字架が建てられているが、その十字架には、1636と彫られている。教会の前の広場が、カモンエス広場(2)だ。

  澳門の世界遺産は、全部で22の史跡と8つの広場が指定されている。今回は、その全部を回ろうと思う。この旅行記では、世界遺産に指定されている史跡・広場を赤太字で示し、何個目の訪問かを( )であらわした。

  たまたま、新年のミサをやっていたので、しばらくその中にたたずんだ。屋根からつるされたシャンデリアの明かりが美しい。

  聖アントニオ教会のそばにある木々の生い茂る公園が、カモンエス公園。カモンエスとは、ポルトガルの有名な詩人で、彼は澳門を訪問したかどうか定かじゃないのだが、彼を記念して19世紀につくられたものだ。

  カモンエス公園の隣にあるのが、カーサ庭園(3)だが、残念ながらこの日は閉まっていた。またの機会に中にも入ってみることにしよう。ここは、英国の東インド会社が19世紀に買い上げて事務所を置き、あわせて庭園も造ったということだ。東インド会社が撤退後、19世紀末から、澳門の文化保存の資金を扱う 東方基金会がおかれている。そのため、入口には、東方基金会と書かれている。

  カーサ庭園の隣には、澳門で唯一のプロテスタント教会であるモリソン教会がある。モリソンは、中国で新教の布教をおこなったモリソンの名を冠している。また、モリソンの名を冠した船が、日本人遭難者を乗せて澳門から出発して、日本との通商を求めたが、鎖国中の日本は砲撃して追い返した。これがモリソン号事件である。日本人遭難者は、結局、澳門で一生を送ったということだ。

  モリソン教会は、正面にステンドグラスがあるだけで、カトリック教会に比べてたいへん簡素である。前にいる女性は、聖職者なのだろうか。プロテスタントの場合は、教派によっては、女性の聖職者を認めているので、そうかもしれない。自分が訪問したいろいろな宗教の礼拝の場では、カトリックにせよ、仏教にせよ、イスラム教にせよ、聖職者は男性に限られているので、こうした光景はたいへん新鮮な感じがする。

  モリソン教会の裏手にあるのが、プロテスタント墓地(4)である。ここには、教会の名前になったモリソンの墓や、チャーチル元首相の先祖の墓がある。この画像は、墓地の入口から撮影したもの。5人以上なら、管理人に言えば、中に入れてもらえることが書いてあった。

  少し歩くと、前日にもやってきた聖ポール天主堂跡に着いた。たまたま、新年のパレードの出発の気勢をあげているところだった。獅子、ドラゴンなどが舞い、いろんなキャラクターが踊っていた。 聖ポール天主堂の窓にあたる部分にも、獅子が乗っているのがわかるだろうか。

  しばらく獅子の舞などが続いたが、やがてパレードが出発。このあと、セナド広場などへ向けて歩いていくのだろう。  

  パレードが出た後、大階段をあがって、聖ポール天主堂跡(5)のそばに行った。よくぞ、教会の前面の壁だけが、残ったものだと感心した。壁といっても、厚さが2mくらいはあるが、よく建っているものだ。この教会は、17世紀に建てられたもので、イエズズ会によるアジア各地への布教の拠点になった。

  当時の日本は、キリスト教の禁教令が出て、キリシタンが追放されたが、その人たちの行き先が澳門であった。そして、この教会を信仰の場にしたのであろう。

  その後、18世紀後半には、イエズス会は解散させられ、この教会も澳門政庁のものになった。そして、19世紀の火災で焼け落ちたのだが、前面の部分だけが残ったのだ。注意してみると、火災の跡とわかる焦げているようなところも残っている。

  壁の反対側からは、壁の上部から1mほど離れて設置されている観光用の足場に上れるようになっている。そして、かつてステンドグラスがはいっていたであろう窓の部分から、カンパニー・オブ・ジーザス広場(6)(イエズズ会記念広場)の全景がよくわかる。さきほど、獅子がこの窓の部分に乗っていたのだが、怖かっただろう。

  上は観光用の足場から、反対方向を眺めたもの。ここが、かつての教会のあった場所である。奥にある建物が、地下納骨堂と教会美術博物館。

  地下納骨堂にある墓。この墓は、誰のものなのかはっきりしないが、聖職者や殉教者が葬られているらしい。画像の左下と右下にわずかに写っているのが納骨部分で、ここに骨がたくさんあった。この中には、日本での布教に尽力したヴァリニャーニや、キリスト教禁教で日本を離れた、天正遣欧少年使節でもあった原マルチノなどの骨もあるという。

  教会美術博物館には、長崎の26聖人の殉教を描いた絵もあった。

  聖ポール天主堂跡のすぐそばに、ナーチャ廟(7)旧城壁(8)が隣り合っている。ナーチャ廟は、子供の神を祭る小さい廟。旧城壁は、16世紀にポルトガル人が澳門を東西に横切るように築いた城壁の残っている部分である。

  聖ポール天主堂跡のそばから、モンテの砦(9)に上がれるようになっている。

  階段を上がること10分。砦の上に出ると、澳門の市街地が良く見える。17世紀のはじめに築かれた砦で、1622年にはここからの砲撃で、ポルトガル軍は攻めてきたオランダ軍を撃退した。

  砦の上には、澳門博物館があるので、入場した。かつては、東西貿易の拠点であった澳門の重要性がよく理解できる。香港が重要になる以前は、澳門が中国の欧州向けの玄関だったのだ。澳門の街並みを再現したものもあり、結構みごたえがあった。

  茶という言葉の伝わり方を音声であらわていたのが面白かった。広東語の「チャ」という音が、日本や韓国、東南アジア方面に伝わったようだ。インド方面のチャイや、アラビア語のシャイは広東語が変化したもの。一方、福建語の「テ」という音が、英語をはじめ欧州方面に伝わったようだ。何度か音を聞いて楽しんだ。

  続いて、セナド広場に向けて歩いたが、途中に、聖ドミニコ教会(10)があった。この画像は、聖ドミニコ広場(11)から撮影したもの。

  ここは17世紀にドミンゴ会によって建てられたもの。外部も内部もクリーム色で統一された明るい教会である。博物館があって、澳門で一番古い鐘もある。

  すでに13時。昼食にすることにしたのだが、セナド広場の周辺には、ファーストフード店や麺の店は すぐ目に付くが、レストランは少ない。たまたま、カテドラルに向けて歩き出したら、九如坊というレストランがあったので入ってみた。オープンエアで、寒くなく、暑くなく、心地よいひと時をすごすことができた。

  この店のオリジナル料理で、貝やイカ、タコなどをクリームソースであえたものを白身魚にかけたものをいただいた。分量がどの程度かよくわからなかったので、この一品だけ注文したのだが、かなりのボリュームのあるものだった 。物足りなければもう一品、注文しようと思っていたが、その必要はなかった。ワインも自家製のものを注文した。

  マカオ料理には、ポルトガル風のものと中国風のものがあるらしいが、この店は、ポルトガル風の料理を出している店なのだろう。

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