1  コタキナバルそしてダナンバレーへ

 

 ダナンバレーへの長い道のりのスタートは、関西空港からJALのクアラルンプル行き で開始。シンガポール経由である。
  機内食は魚を選ぶ。ソースの下に、かつおのステーキが隠れているのだ。
 
 シンガポールにて1時間あまり滞在。うち30分ほど、空港内を散歩する時間があったので、 スカイトレインでターミナル2に行ってみたりして時間つぶし。2007年現在、ターミナル3を作っているようで、2008年から供用開始のようだ。

 

 

 シンガポールからは40分ほどでクアラルンプル。機内でパック入りジュースが出ただけ。

  KLIA(クアラルンプル国際空港)では、国際線ターミナルからメインターミナルへは遠く離れていて、エアロトレインで移動。

 
  入国審査、税関、両替を終えると22時。このあと、空港内の出発フロアで翌朝2時30分まで4時間半をすごす。そう、この日は空港で夜明かしするのだ。

 24時間営業のファストフード店があるし、今回は無理だが、国際線同士の乗り継ぎならトランジットホテルもある。

 この日は、椅子に座って待つ。4時発のコタキナバル行きに乗るので、2時30分ごろにチェックインカウンターが開くだろうから、それまでの辛抱だ。

 予想通り、2時を回るとチェックインが可能になった。さっそくチェックイン。

 このあと5度搭乗する国内線の1便目。KLIAでは、待合室は各便ごとに別れている。早めに待合室にも入れたので、また一休み。

 

  

 3時50分に機内へ。4時に時間通り出発。出発後、まもなく機内食が出された。朝食のつもりなのだろうが、実質は夜食。

 きっちり、機内食を出すのは感心する。ただし、味は自分の口には合わなかった。

 

 6時すぎにコタキナバル(KKと略す)に到着。この空港、いきなり出口を間違えてしまった。

 KLなど国内であっても、KKのあるサバ州以外からの客は、入州審査が行われ、パスポートにもサバ州のスタンプが押される。そのため、国際線の出口から出なければならないのだ。

 しかし、そんな仕組みを知らない自分は、国内線出口に進み、その閑散ぶりに驚いていたら、国際線から出るように言われた。

 出口の表示をよく見ると、マレー半島とサラワクは国際線に含み、国内線はサバ州内だけという扱いであることがわかるが、はじめての者が知るはずがない。 
 
 しかも、KK空港は、到着客と出発客を分離していない。だから、ほかの客の後ろについて、そのまま進むという方法がとれず、国内線到着という表示を見て進んだわけだ。

     
 サバ州外からの便が国際線の理由

  気になったので、少し調べてみた。

  もともと、サバはマレー半島とは何の関係もなく、カザダン族が中心のエリアで、部族の連合政権があったが、そこに英国がやってきて、英国領にした。ただし、直接支配するのではなく、部族の連合政権を認めて、それを動かすような形にした。

  さて、1963年に独立する際、 すでに1957年に英国から独立していたマラヤ連邦は、独立後のサバ、サラワク、ブルネイさらにシンガポールと合併して、強力国家つくりをめざした。

  眼目は、シンガポールの合併で経済力をつけることだったが、それだけでは、中国人の比率が多くなりすぎて(マレー半島部の人口で、中国人がマレー人をうわまわる)、マラヤ連邦でとっているブミプトラ政策(マレー人が中国人・インド人に対して優位にたつ)が崩壊しかねない。

  つまり、人口が少ないマレー人を優位にたたせる政策はいづれ中国人の反対でいきづまる。(事実、中国人が人口の4分の3をしめるシンガポールは1965年、マレーシアから独立した。)それで、北ボルネオも入れることで、中国人の比率を下げようとした。

  サバ側は、さまざまな条件をつけて、マラヤ連邦との合併を決めた。カザダン族はブミプトラであること、マレー人の移民はサバ側で管理することなどをマラヤ連邦は認めた。

  これで、サバ州ではカザダン族が中国人に対して優位に立てる上、同じブミプトラのマレー人が流入して、州の実権を奪うことも防げる。出入国管理の面では、サバ州がひとつの国の扱いになっている理由はここにある。そのため、現在でも、サバ州外からの航空機は国際線扱いなのだ。(半島部のマレーシア人は、入州にはパスポートが必要。)サラワク州についても、同様である。

  国教のイスラム教を強制しないことも決められた。北ボルネオの先住民の間では、カトリックがかなり多いらしい。ここは英国領だったし、いつごろ布教がさかんだったのかとかは不明だが。

  

 

 

  このほか、合併後の標準時は、北ボルネオを基準にすることも取り決められた。マレー半島側の標準時が、同経度にあるタイと異なっているのも、この取り決めによる。

  こうした取り決めで、サバとサラワクはマレーシアの一部として独立した。ただ、ブルネイだけは違った。石油の多く埋蔵するブルネイは、マラヤ連邦にその利益を奪われることを心配したうえ、部族の連合政権だったサバ、サラワクと違って、絶対君主制がとられていたからだ。単独独立の交渉を英国と続けることになった。当時、英国はマレーシアの政策を後押ししていたので、ブルネイの独立は1984年まで持ち越された。

  この合併に反対して、インドネシアとフィリピンはそれぞれ北ボルネオの領有を主張した。インドネシアは武力行使をおこない北ボルネオに侵入し、フィリピンは国連に提訴した。歴史的にみると、南ボルネオやフィリピン南部との関係が、マレー半島より強かったからだ。

  1965年にマレーシアが国連安保理の非常任理事国になったので、インドネシアは国連を脱退した。(これはスカルノ時代のことで、同年、スハルトによるクーデターがおこり、翌年、国連に復帰するとともに、1967年には、マレーシア、シンガポール、フィリピン、タイとASEANを結成した。各国は東南アジア島嶼部で対立をかかえていたのに協力の道を歩みだしたのは、当時、激しくなりつつあったベトナム戦争で、反共産主義陣営が結束する必要がでてきたからだ。今やそのベトナムもASEANに入っている)

  北ボルネオがインドネシアやフィリピンではなく、マラヤ連邦と組んだのは、今となっては、経済発展や混乱の少ない国内政治をみれば正解であった。ボルネオの名のイメージ以上の発展をしているエリアだと思う。

  サバ州とサラワク州では、州の旗が、マレーシア国旗とともに並べて掲げられることが多い。このことも、州の地位の高さを表しているようだ。左が、サバ州旗。右が、サラワク州旗。サバ州旗の左上部分はキナバル山である。

  

 

 入州審査、税関を通り、外に出た。このターミナルは、ターミナル1で多くの航空会社はこちらを使う。午後に、利用する格安エアであるFAX航空はターミナル2だ。

 2つのターミナルの位置だが、滑走路を挟んで両側にあるのだ。1kmほどしか離れていないのに、移動はタクシーで、市内に行くのと同じくらいの距離を走らねばならない。

 5時間あまり、乗り継ぎ時間があるので、いったん、KK市内に出て、市内めぐりをすることにした。

 実は、本来、10時10分発のFAX航空を使う予定だったのだが、出発前日に連絡があり、欠航となり、次の13時5分発に振り替えになったのだ。格安エアではよくあることらしいが、困りものだ。

 そのため、ターミナル2に直行じゃなく、市内めぐりをすることにしたわけだ。まず、大通りに出てミニバスで市内中心に向かった。今回の旅で、唯一使った路線バスだ。市内まで1.2RM(約42円)。さて、終点のこの場所はどこかを把握するのに5分ほどかかった。

 自分の位置を特定するのに役立ったのは、すぐ近くに長い歩道橋があったこと。この歩道橋の一番海岸よりのところに市場がある。

 位置がわかったあと、まず向かったのがシグナルヒル展望台。

 下の画像は、展望台からKK市内を南に向かって眺めたもの。右手が海岸で、海岸よりに高層ビルが多いことがわかる。展望台から下りて、アトキンソン時計台へ。(右下)

 

 

 

 

   

    元のところに戻り、歩道橋を通り市場へ。左は、歩道橋から直接入れる住宅。1階が店舗になっていて、昔の日本の公団住宅風の感じ。それが何棟も並んでいる。
 

 上2枚は市場内の風景。

 右は市場の外観。「亜庇中央菜市場」と書かれている。中国語では、コタキナバルのことを「亜庇」ということを知った。

 なお、コタキナバル(サンダカンやクチンも)は、華人が多い(歩いていると一見、中国じゃないなと思うくらいだ)し、漢字があふれている。これが、華人が街に住んでいるからであって、農村部を含めると、先住民(カザダン族)が多くなる。

 少しお腹がすいてきたので、朝食。いや、早めの昼食か。ミニバスを降りたあたりに、レストランが並んでいたので、歩道橋を通ってもどった。

 客の多そうな中華レストランに入る。メニューは、ラクサが大書きしてあったので、ラクサを注文。

  ラクサはマレー風カレーラーメンといえばよいだろうか。だが、ラクサの特徴はココナツミルクがスープ入っていること。麺はこの店では米粉。

 チキン、エビ、いろいろな香菜が入っている。上のレモン(日本のすだちのようだが)をしぼって食べた。

 この店、大入りだった。華人は朝食を外食ですませることが多いようだが、この店は特に客が多かった。ちょうちんで店名が隠れているが、福豊茶室だ。

 満腹になり、少し歩いたほうがよいと思い、暑い中、2kmほど歩いて、博物館エリアに向かった。ガイドブックには記載がなく、行くつもりもなかったのだが、カトリック教会があったので、訪問してみた。
 たまたま、何かの儀式が行われていて、堂内は満員であった。入ると後ろの空席に案内されたので、しばらく休憩がてら儀式を見て、皆が立つときは立ったりしていたのだが、結局、何の儀式かわからなかった。ただ、普通のミサではなかった。
 カトリック教会を出てから、少し歩くと、サバ州立博物館のそばまで来た。これで、普通なら、すぐそこに入口があると思うだろう。

 ところが、どっこい、この画像を撮影したところから1kmほど歩いて、ゲートがあり、そこから300mほど歩いてやっと博物館だった。やれやれ。

 このとき、大きなバッグを担いで歩いていたのだ。なぜなら、早朝にKKに着いて、昼すぎに出発だから。結局、次の博物館含め4kmほど、荷物をかついで歩いた。ふ〜、、  

 やっと、着いた博物館。まずは、思いっきり涼んだ。南国の国には多いが、ここも、外は灼熱でも、建物の中はガンガンに冷やしていることが多い。この博物館もそうだった。荷物を預けたあと、まず10分くらい、身体を冷やしてから、見て回った。

 当初は、旅の終盤で訪問する予定だったが、FAX航空の欠航のせいで初日に訪問することになったが、これはよかった。ガイドブックではわからなかった知識を、いろいろ訪問する前に仕入れることができたので。

 続いて、サバ・イスラム博物館へ。ここへ行くには、林の中をまた500mほど歩かねばならなかった。だから、着いてすぐに、身体を冷やそうとしたが、、ここの冷房はあまり効いていなかった。

 で、一通り歩いてすぐに出た。とはいえ、ひとつだけ興味をもったことを書いておく。モスクといえば、ドームとミナレットが特徴だが、東南アジアのモスクに限れば、その特徴をもたないものも多い。とりわけ、古くにできた木造のモスクは一見して、モスクとはわかりにくいのだ。

 イスラム博物館を出たら、そこはさきほどのカトリック教会のそば。この周辺の丘をぐるぐるしていたって感じだ。

 まだ時間があったので、州立モスクに行くことにした。だが、そばまで行ってすぐにあきらめた。右の画像は裏手で、入口はその反対側にあり、ぐるっとまた1kmほど歩かねばならないからだ。多少歩くのはかまわないが、時間が押し迫ってきたので、あきらめた。

 さて、空港に向かおうと、タクシーを待つが空車がなかなか来ない。ガイドブックには、タクシーはタクシースタンドかホテルから乗るべきで、流しはないと書いてるが、まさにその通り。最悪、ミニバスか徒歩で一番近くのホテルまで行こうと考えていたら、タクシーが止まってくれた。

 行き先は、ターミナル2。ドライバーは何度も、ターミナル2かと聞いてきた。1と2では全然、別のところなのだから。何とか1時間前に空港着。着くとすぐにチェックイン。渡された搭乗券は、レシートとしか思えない。

 このターミナルは、エア・アジア用なので、エア・アジアの国際線はこちらから出ている。マカオ行きなどもあった。

 さて、搭乗機は右のもの。50人ほどの定員だったが、2便分の乗客を合わせても、空席がいくらかあった。この便まで欠航ということにならなくてよかったと思った。

 ラハダトゥまでは45分ほどの飛行。下界のジャングルは、雲に隠れて見えなかった。

 上はラハダトゥのターミナル。木造で、今までに見た空港ターミナルの中では、一番簡素なものだった。

 荷物が出てくるまで、ロビーで待ったが、これまた、バスの待合室って感じだ。左下にX線装置が写っている点がバスの場合と違う程度。

 荷物は、もちろんターンテーブルはなく、カウンターに並べられるのでそれを取る。

 荷物を取り、外に出ると、ダナンバレーからの迎えの人が来ていた。

 これから3時間、山道のドライブがはじまる。ほんの15分ばかり舗装道路を走ったあとは、地道に入る。このような道のドライブは久しぶりだ。

 スピードは、3,40km程度か。すごく砂を巻き上げるので、窓を閉めねばならず、エアコンは欠かせない。

 時々、丸太を満載したトラックと行き違う。かなりの迫力がある。

 サバ州では、1993年に丸太の輸出が禁止されたが、1996年から上限を決めて、輸出が再開された。多くは日本向けなのだろう。

 自分がダナンバレーに向かった間だけでも、10台程度のトラックを見ており、これだけ伐採しても、大丈夫なのかと心配になる。

 ダナンバレーのゲートを入り、最後の10数キロは、起伏の多い細い道を走行。

 

  

  17時前に、レインフォレストロッジに到着。ここで2泊する。左は、管理棟とレストラン。
 

 到着後、まずは説明を受ける。日本語の説明用紙も渡される。このロビーに上がるには、靴を脱いであがる。そう、このロッジでは、室内はすべて、靴をぬぐことになっているのだ。

 さまざまなアクティビティがあるのだが、各人に専属のガイドがつけられ、彼と相談して決めることになっている。実際は、同じガイドがずっと付き添うのではなく、アクティビティごとに付き添うガイドは変わったので、各ガイドは、アクティビティの付き添いと、客との応対を行っているという感じだ。

 本来なら、13時ごろに着いて、この日の午後のアクティビティに参加できるはずだったが、欠航のためできなくなった。それで、この日の夜と、翌日、早朝、午前、午後、夜とあわせて5つのアクティビティに参加することにした。

 泊まったロッジ。それぞれの部屋は独立した山小屋風の建物になっている。また、各建物は、地上2mくらいの廊下で結ばれている。虫除け対策だろう。

 

  

  部屋はとても広く、風通しがいい。エアコンはないが、なくても何の問題もなしだ。
 
 
 2泊したこの部屋は、細かい虫が床でたくさん死んでいて、朝など歩くと足の裏に細かい虫がたくさんついてしまうということ以外、とても快適だった。(蚊などは、電気蚊取り線香を入れてくれるので問題なし。)

 何といっても、この部屋の良かったのは、露天風呂つきだったこと。これは、翌日の旅行記に詳しく書くことにする。

 最初からこの部屋を希望していたのではない。当初の希望はスタンダードルームで、この部屋はデラックスルームだ。

 今回のホテル、スタンダードが、結局、満室でとれず、さらに料金を追加して、この部屋に泊まった。これには、すべてのアクティビティ代金と3食の食事代も含まれているが。このほかに、送迎代 。

 少し休憩した後、ロッジの敷地内を散歩。右の建物のうち、右側の部屋が泊まった部屋。このあと部屋に戻りシャワー。

 19時から夕食。ビュッフェ方式だったが、味、種類とも満足。

 20時30分から、ナイトドライブ。その前に、売店で、ヒルよけソックスなどを買っておいた。 

   

 
 

 トラックの荷台に乗っての夜間ドライブ。ときどき、猿がいるとか、鳥がいるとかガイドが言ってくれるだが、全然わからなかった。

 唯一、わかったのが、スタッフ用のロッジのそばで見かけたふくろう。

 帰ると22時30分で、眠くなりかけていた。再度、シャワーを浴びて、虫が部屋に入ると嫌なので、電気を消して寝た。

 

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