2 日 目   マ ラ ッ カ 街 歩 き

 

 

ドブ川がきれいになった

 

 

 上左  ホテルの朝食は7時からだが、前日遅くにホテルに着いたうえ、屋台食を食べに外出していたため、8時にレストランに行った。左の皿は、サラダ、炒飯、春雨のようなものにカレーをかけたもの。右の皿は、オーダーで焼いてくれるオムレツ。オレンジジュースは薄すぎてちょっと、、

 上右  左の皿は、フルーツとゼリー。右は粥。

 左  ゼリーを拡大。魚の形をしている。ゼリーのデザートは珍しい。

 

 

 

 

 

 

 

 左  朝食後、いったん部屋に戻り、9時に街歩きスタート。まず泊まっているホテルを撮影。

 右  ホテルの南隣はモスク。

 上左  ホテルの近辺はガイドブック的にはチャイナタウンとは扱われていないが、住んでいるのはプラナカン(中国人とマレー人の混血)のようだ。中国風とヨーロッパ風の混じった建物が並んでいる。ショップハウスとうもいい、ペナンでもよく見たものと似ている。1階の道路に接する部分が台湾や華南で多い、亭仔脚になっている。

 上右  亭仔脚の中。

 左  ショップハウス。

 さらに歩くと、フランシスコ・ザビエル教会の前に出た。教会は入口が閉ざされていた。

 教会の前は、前回来た時は駐車場だったように思うが掘り返されていた。城壁の回りに5つあったという砦のひとつがここだったようで、その発掘をしているのだった。

 フランシスコ・ザビエル教会から観光の中心であるオランダ広場までの間は、建物が赤い色で統一されている。これは前回来た時、すでに赤く塗られていたように思う。ただ、前夜に来たときに赤くライトアップされていたが、ライトアップは以前はされていなかったように思う。

 オランダ広場へはメインストリートを通らず、マラッカ川に沿った遊歩道を歩いた。 

 この遊歩道は11年前に来たときにはなかった。マラッカ川沿いがきれいな遊歩道で歩けるようになっていたのも驚いたが、もっと驚いたことがある。マラッカ川がきれいになっていたことだ。2008年にマラッカは世界遺産になったがそれで整備されたのだろう。

 以前来た時、川にはゴミが投棄され、一部では臭ウドブ川だったのだ。その中をリバークルーズで移動したのだが、クルーズという名が泣いていた。それがきれいになっていたので驚いたのだ。以前、川に沿っていたのは、建物の裏手で、中には川にボートで出ることができる建物もあった。今は、遊歩道に接して入口ができている建物が多い。

ヨーロッパ風エリア再訪問

  左  オランダ広場に到着した。中心にあるのは時計塔だ。オランダ広場というが、この時計塔は英国統治時代のものでヴイクトリア女王にささげられたものだという。時計塔の向こうはスタダイス。これはオランダ統治時代の市庁舎で、ここからオランダ広場という名がついた。

 下左  時計塔と道路をはさんで(時計塔の写真を撮影している自分の背後)には、オランダらしく風車の模型がある。これは前回の訪問時にはなかったような。

 上右 オランダ広場の端のマラッカキリスト教会。1753と建造年の表示があり、これもオランダ統治時代のものだ。中も少しのぞいてみた。

 左  スタダイスの正面。オランダ広場から階段を上がったところにある。中は歴史博物館になっている。前回は中も見学したが、今回は1日で市内を一通り回るため、時間の関係上、中はパス。

 上左  スタダイスの裏手の丘にセント・ポール教会の廃墟がある。1521年、ポルトガル統治時代の建造だ。

 上右  フランシスコ・ザビエルの像。ザビエルはスペインの生まれで、日本はじめアジアでのカトリック布教に活躍した。そのさい、マラッカは拠点であった。そのため、死後、遺体はマラッカに移送され、この教会にしばらく安置された後、ゴアに運ばれた。

 左 教会の内部。外壁だけが残っている。かつては床に敷かれていたのであろう墓石(というか墓の所在を示す石板)が壁際に立てかけられている。

 セント・ポール教会の裏手には州知事博物館があった。以前は州知事の公邸だった建物を利用している。

 マレーシアは13州からなるが、うち9州にはスルタンがいて、その輪番制で国王が選ばれる。しかしマラッカ、ペナン、サワラク、サバはスルタンがいないので、相当する役職として州知事が任命される。名誉職的なものなので公邸は立派である。時間がないので中の見学はパス。

 セント・ポール教会を見たあとは、上ってきた側と反対側へ向かって丘を下りていった。上ってきた側は坂道を少しづつ上がったのだが、こちら側は階段を一気に下っていった。

 下り終えたところにあったのがサンチャゴ砦。かつて城壁があったころ5つあった砦のうちの1つだ。

 次にスルタン・パレスに向かった。マラッカ州はスルタンのいない州なのだが、ポルトガル統治の前にはマラッカ王朝があった。14、15世紀のことである。その当時の王(スルタン)の宮殿を再建したものある。

 前回のマラッカ訪問時には完成していたのだが、閉館時間間際で入れるか入れないかわかからず、人の気配もなかったので入らなかった。で、ここは入場した。

 マラッカ王国は香料貿易の拠点としてアラビア、インド商人が訪れ、繁栄した。アラビアからイスラム教がすでに商人によって伝えられた後の王国で、イスラム国家であった。

 館内へは、入口の階段下で履物を脱いで入場する。泥棒の手を切断する刑や不倫の男女を首まで生き埋めにして石打ちで処刑する絵が印象的であった。写真はスルタンの前で開かれる御前会議のようなものの模型。

 さらに独立宣言記念館へ。ここは以前入場したことがあるのだが、もう一度乳入場してみることにした。

 1912年の建造で、イギリス統治時代のもの。ここで1956年、独立宣言が読み上げられたという。1957年、独立するが、その式典はクアラルンプルで行われた。

 下左  独立宣言のときの独立広場(この建物の前の広場)の様子の模型。

 下右  各州の州旗で覆われた展示室。

 上左  チャイナタウン方面に向かいかけたところ、マレー世界イスラム世界博物館があったので入ってみた。前回の訪問時に、イスラム博物館に入ったのだが、それとは別にこの博物館がある。

 上右  マレーシアでは入場時に履物を脱ぐところが多いが、ここもそうだ。

 左  マレー世界ということでインドネシアのガムランに似た楽器も展示。まずまず興味深い内容の博物館だ。

 この付近ではトライショーが行きかっていた。花などで飾りたてたサイドカーを自転車で動かす乗り物である。

 下左  丘の南側はかつては緑地の広場だったのだが、巨大なショッピングセンターが拡大工事をしていた。

 下右  イスラム博物館。こちらは前回訪問時に入場したのでパス。先ほどの博物館とは別ものである。

チャイナタウンで昼食

  上左  ヨーロッパ風エリアを見たあと、マラッカ川を渡りチャイナタウンに入る。川を渡るとき、リバークルーズのボートが通った。11年前に乗船したときの細長いよくあるボートとは大違いだ。

 上右  チャイナタウンの中心部であるジョンカー通りの入口。鄭和が航海したときの船の模型がおかれているが、これも以前はなかった。写真も右手にはチキンライス屋があって、入ってもいいかなと思ったが、あまりにも長い行列のためあきらめた。

 左  ジョンカー街。昼間はさほどの人出じゃなかったのだが、金土日の夜には屋台街になるので行ったのだが、まぁすごい人出だった。

 腹ごしらえをしようと入る店を探していたら「鶏飯粒」という文字が目に入った。チキンライスの粒って何だろうって思い、 その店に入った。外からはわからなかったが、奥行きがとてもあって、中庭などもある大きな店だった。

 下左  オタオタ。魚のすり身に香辛料を混ぜて固めたもの。カマボコ風だが、カマボコまでは硬くはなく、切って食べる際には、すり身の一部がこぼれ落ちる。 これは中華とマレーの融合したニョニャ料理の代表的なものだ。

 下右  豆腐。まずくはなかったが、パック入りの豆腐にタレをかけただけお手軽料理でハズレ。

 鶏飯粒。直径2cmくらいのボール状にチキンライスを固めてある。ただし肉は入っていない。1個0.3RMで、個数を注文するのだが、大きさがわからなくて5個注文した。少し物足らなかったので、10個注文してもよかったかな。味はほのかについていて、注意すればチキンライスだとわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 上  飲物はココナッツジュース。

 右  店を出ると行列ができていた。入店したときには、空席がいくつもあったので、早めに入ってよかった。

上左  福建会館。福建省出身者の集会所だろう。ほかに海南会館や潮州会館などがあった。

上右  世界遺産になった記念の公園か。以前はなかった公園だ。 

  チャイナタウンのメインストリートはジョンカー通り。商店が多く並ぶが、東のほうに行くと商店の割合が低くなり、一般の民家が増える。(それでも週末の夜に屋台が出るときには、これらの民家の前にも屋台がでてにぎわう。)

 これらの民家もプラナカン様式で2階の窓にはよろい戸がついている。ただ軒下の通路はなく、その家専用の軒下になっている。商店ではなく一般の民家だからかな。

 さらに歩くとY字路がある。右手はジョンカー通りでチャイナタウンの入口を表すようなゲートがある。左手へ行くと仏・ヒンドゥー・イスラムの各宗教の寺院がいくつか見られる。そしてY字の分岐点のところには中華風のステージがある。いつ使うのだろうかと思っていたのだが、屋台の出る日の夜にやってきて判明。屋台街の出し物がここで行われるのだった。
 上左  カンポン・フル・モスク。工事中であった。ドームは四角錐がとてかわっているようだ。

 上右  香林寺。コンクリト製の寺で、内部も大理石の床で近代的な作りになっている。

 左  青雲亭。こちらの寺には参詣者が多く、線香の煙がたちこめていた。日本からのツアーグループもここには立ち寄るようで、日本語ガイドの説明が聞こえてきた。

 カンポン・クリン・モスク。ミナレットはイスラム本来のものではなく、東洋的な雰囲気がある。ここもドームにかわり四角錐の屋根がある。モスクの本堂は工事中で、信者も中にははいれないようであった。
 スリ・ポヤタ・ヴィナヤガ・ムーティ寺院。マレーシアでは最古のヒンドゥー寺院。

 この後、鄭和の博物館があったので入ったのだが、博物館とは名ばかりで、土産物屋の一部分が展示コーナーになっているという感じだった。まぁ、無料だから仕方ないがたいしたことなかった。このあと先ほどとは違う橋を渡り、再びマラッカ川を越えて街の東側へ。

街歩きに疲れフルーツ屋台で買込み

 マラッカ川を渡り、フランシスコ・サビエル教会の前の公園に戻ってきた。ハトも暑さを逃れて水際に。日中の気温は滞在中、30度前後であった。

 ここからホテルは近く、主なスポットも再訪したことだし、夕食のための外出までの間、ホテルで休憩しようか迷った。結局、少し休んだあと、さらに街歩きすることに。旧市街地の東部に向かう。

 石碑が見えてきた、そして、その上についているマークは台湾の中国国民党のものだ。どうしてこんなところにって思い、近づいてみた。

 題字の右側に「馬六甲僑胞殉難紀念碑」とあり、左下には「蒋中正」(蒋介石)の筆と記されている。

 日本の占領時代に対抗運動をして亡くなった華人の記念碑のようだ。古くからあったようだが、1993年に修復されたという。 

 続いて、スルタンの井戸に向かうことにした。ガイドブックの地図では、上の記念碑のところを右に行けば井戸があるという記載なので、右に行った。しかし、結局見つからなかった。20分くらいは時間をロスしてしまった。

 それで、井戸はあきらめて、宝山亭という寺へ。寺自体は大きくはないが、背後のブキッチナ(中国の山という意味)には中国以外では最大の華人の墓地があるということで、墓地と関係して重要な寺なのだろう。

 やがて中国人の団体がやってきた。中国人のマラッカツアーでは訪問ポイントにもなっているようだ。たぶん、日本人のツアーではこないと思う。

 また、中国共産党の幹部も訪問している。共産党トップであった江沢民も訪問している。中国人にとっては重要なところのようだ。先ほどの記念碑がブキッチナの麓にあるのもなるほどだ。

 そして、寺の境内にスルタンの井戸があるのを発見。最初から、この寺をめざしていれば無駄に時間をつかうこともなかった。

 11年前もこの寺に来たのだが、そのときのことを思い出した。11年前も、井戸が見つからなかったのだが、この寺で見つけ、なぁんだってことになっていたのだ。いやはや、同じ失敗をするとは。

 上左  宝山寺のあと、ブキッチナの頂上まで上るつもりだったが、あまりの暑さに断念。ホテルに戻ることにした。大通りまで戻ると、11年前より格段に高層ビルと車が増えていた。

 上右  セント・ピーター寺院。ここも再訪問。

 左  教会の中は超満員だった。金曜の夕方だったので、週末のミサだろうか。すぐに退出して、先を急いだ。

 いったんマラッカ川沿いに出てみた。対岸にあるのはヴィラ・セントーサだろうか。ここも11年前に中に入っているのでパス。

 この付近には何とモノレールの軌道らしきものがあった。モノレールができるのかと思い、ホテルに戻ってからネットで調べたら、すでに開業しているのだが、開業早々に故障が相次ぎ、今は休業しているらしい。

 ホテルの近くのフルーツの屋台でフルーツを買った。

 下左  夕陽を見たあと夕食をとることにして、1時間あまり、買ったばかりのフルーツを食べながら休憩する。ドラゴンフルーツ。中身は白いものが多いが、赤いのを買った。

 下右  マンゴー、梨のような味と食感のウォーターアップル、丸いのはドゥクで中身は白い。

 

ニョニャ料理の夕食

  ホテルで休憩し、元気を取り戻し、18時に再び外出。セント・ポール教会跡の丘に上り、夕陽を眺めたあと、夕食を食べに行くつもりだ。

 ところが、先ほどまでカンカン照りだったのに、曇ってきていた。特に水平線近くは完全に雲に覆われている。夕陽はあきらめ、翌日もう一度あるチャンスにかけることにした。

 丘には上らず、海洋博物館の横を通り、さらに海岸よりの方向に進んだ。11年前は、海洋博物館より海岸よりには行かなかったので、はじめてのエリアとなる。

 まもなく、マラッカタワーの横を通る。朝にセント・ポール教会跡から見えていたが、今度はそばから見た。11年前にはこのタワーはなかった。マラッカには似つかわしくないなぁ。円盤型の部分が上下しながら回転する構造だ。

 
 さらに進むと、屋台街があった。ただ、食べ物系屋台は少ない。一通り、端まで歩いてみたが、大きな屋台街の割にはあまり面白くはなかった。写真で奥に見える高層ビルが、ホリディイン・マラッカでその近くまで屋台街は続いていた。この屋台街を往復する間に暗くなった。
 この屋台街から少し歩くと今度は大きなフードコートがあった。たくさんの屋台が集まっていて、先ほどの屋台街に食べ物系屋台が少なかったのは、食べ物系屋台がこのフードコートに集約されているためだろう。ここで夕食にしよいうかとも思ったが、やはりホテルを出るときに行こうと思っていたレストランに向かうことにした。
 続いて現れたのがマコタパレードという巨大なショッピングセンター。中が気になったが、先を急ぐことにした。

 先ほどの屋台街、フードコート、そしてマコタパレードと海岸よりのエリアがこれほどにぎやかだとは思っていなかった。11年前どうだったのかはわからないが、旧市街の中心部にこのエリアがとってかわっていると感じた。

 さらに20分ほど歩いてやってきたのが、ニョニャ料理の有名店である「親切餐館」(オレ・サヤン)。 ステンドグラスの入った入口もいい雰囲気だ。
 店内は広く、地元客でにぎわっていた。ほとんどが、大きな円卓で、奥のほうの空いていた円卓に席をとったのだが、1人であったため、1人用の席に代われないか丁重にお願いされた。やむを得ない。

 案内された席は、壁にあって、ちょっとなぁ、って感じの席で、店員は代わってくれてありがたいと何度も繰り返していた。

 タイガービールを注文。マレーシアはイスラム国だが、中華レストランでは酒が飲める。ただ、ビール以外は余り見かけず、ビールも外国ブランドのものだ。親切餐館では、タイガー、アンカー。カールスバーグの3種だった。それに、料理の値段は安いのだが、ビールは日本なみの値段で、相対的にかなり高い飲物といえる。

 タイガーととも運ばれてきたのは、フィッシュチップ。料理が運ばれてくるまで、チップをいただきながらタイガーを飲んで待った。

 ニョニャ風チキンカレー。

 かなり辛いカレーだ。

 青菜のピリ辛炒め。

 これまたかなり辛い。

 ご飯。カゴにバナナの葉を入れ、その上に盛ってある。

 席がイマイチだったっが、味とサービスはよく、「親切」の名の通りだった。

 下左・下右  「親切餐館」は30周年ということで、お土産にバッグを渡された。

 ホテルへ戻る途中、ジョンカー通りの屋台街に立ち寄ってみた。すごい人出だ。

 下左  満腹状態なので、食べ物は買わなかったのだが、飲物を買った。

 下右  仙草水。

 このあとホテルに戻り、1日が終了。

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