久 米 島 の 1 日

 

 この日は、久米島へ日帰り。島で最大限の時間をとろうと、那覇発7時45分の始発で久米島に向かい、久米島発18時55分の最終便で那覇に帰る。

 ホテルを6時30分に出発。久米島行きはWebチェックインができないので、空港のカウンターへ。JTA(日本トランスオーシャン航空)のカウンターにいったら、往復の航空券を発券したうえ、行きの便はRAC(琉球エアーコミューター)なので、そちらのカウンターへ連れていかれ、搭乗券の発券をうけた。何やら複雑だ。  

 
 RACは小型機による運航で、28番搭乗口からバス連絡になっている。

 この日は、久米島のんびりウォークというイベントがあって、その参加者がたくさん搭乗していて満席。

 
 朝食に、空港内のコンビニで買った、じゅーしーのおにぎりと、タコス巻を食べ始めたら、出発20分前に、搭乗の最終案内があったので、急いで搭乗口からバスに乗車。そんなわけで、機内で朝食の続き。
 

 出発後20分ほどで久米島が見えてきた。島の長さは10km、幅5kmほどの島なので上空から島の全体が見える。小さな割には、小高くなったところもある。

 眼下には、きれいなさんご礁の海が広がる。さんご礁のあるところがはっきりわかる。真っ白な砂でできた島は、ハテの浜だろう。今回はここには渡らないが、行ってみたい場所だ。

 撮影直後に、電子機器の使用をお控え下さいと案内があり、ぎりぎり撮影できた。

 
 久米島に到着。いったん空港内を歩いたのち、タラップを上がって、搭乗ゲートに入るようになっていた。しかも、ターミナル内で、また1階に下りるのだ。

 

 

  

 
 空港ターミナルを出ると町営バスが止まっていて、すぐに乗車。ウォーク参加者でバスも満員。普段はすいているのだろうが。
 
 バスは、島の東まで進んだあと、遠回りをしてイーフビーチあたりのホテルの敷地内へ入って客を降ろすので、かなり時間がかかる。そして同じところを戻る。町営バスのホームページではよくわからなかったバスのルートがようやくわかった。

 橋がかかって久米島とつながっている奥武島のバーデハウス(次回はここも入浴してみたい)の前で下車。ウォーク参加の人たちも、ここがスタートになっているようで、全員下車。ここまでで40分近くかかった。

 

 バスを下りて海岸に降りると、そこは畳石が広がる。 五角形や六角形をした石が波打ち際の一面に広がっている。

 一瞬、これらは人工的に作られたものだという錯覚をしてしまうくらいだ。もちろん、自然のなせる業なのだが、人間が手を加えたかのように、きれいに石が敷き詰められているのだがら驚きだ。

 どうして、このような石が形づくられるのだろうか。

 
  続いて、すぐそばにある、うみがめ館に入ってみた。

  中に入ると、巨大な水槽が目に入る。そこには大きなうみがめが泳いでいる。目のまん前をうみがめが泳いでいる姿は圧巻だ。水槽の上から見ることもできる。

  うみがめは絶滅の危機に瀕しているという。それを訴える展示やビデオも充実している。

 

 奥武島をあとにし、久米島本体に歩いて戻った。島を結ぶ橋の上からも、さんご礁の広がる部分がわかった。

 このあと、30分ほど歩いて、久米島東部の真謝の集落に向かった。

 このころ非常に暑くなり、あとで聞くと最高気温24度だったそうだ。特に日差しの強いところなどは真夏の感じだった。出発以来、ダウン、セーター、長袖シャツと脱皮していったが、ここでTシャツ姿になった。沖縄とはいえ1月にこんなに暑いとは予想外。

 
 道路の真ん中に植わっているチュラフクギ。フクギは防風、防波のために使われる硬い材質の樹木。それが道路の真ん中にあるのは、不思議な感じだ。

 

 
 天后宮。中国南部に多くみられ、航海の神を祀っている。18世紀に、中国から琉球王のもとに派遣された冊封使の船が真謝近くで遭難し、村人に救助された。それを感謝して、中国側が建てたもので、明治期まで使われたという。
 

 仲里間切蔵元跡。久米島町は、平成14年にな仲里村(島の東部)と具志川村(島の西部)が合併してできた。仲里村は、琉球王朝時代は、仲里間切と呼ばれ、明治期に仲里村になった。蔵元は役所のこと。つ まり役所の跡なのだが、石垣が残っているだけで、石垣のなかは広場になっている。

 

 真謝集落の家には赤瓦の家も多く見られる。ただ、屋根にシーサーを置く習慣はなく、保存に力を入れているわけでもなさそうだ。

 

 

  

 
 真謝集落の家は、フクギに囲まれている家が多い。
 

 ユイマール館。

 久米島紬は、15世紀にはじまり、江戸時代には琉球を代表する織物になった。しかし、大正時代からは衰退の一途をたどり、太平洋戦争により絶滅しかかった。その後は、細々と伝承されていた。

 平成4年に、後継者を育成するための施設として、ユーマール館がつくられた。今では、ここの工房が、久米島紬の拠点になっている。平成16年には、久米島紬保持団体が国の重要無形文化財になった。

 
 再び30分ほど歩いて、泊のバス停に向かった。途中の道路は、日の照り返しで暑かった。

 バスは、空港線が1日4〜5往復、島一周線が、左回り、右回りそれぞれ4〜5本と決して便利ではないが、時刻表をよく検討して使えば、観光のために利用できる。ただ、バス停からみどころまで30分ほど歩かねばならないとかはがまん。

 空港行きのバスで仲泊まで乗車。ここは島の西部(旧具志川村)の中心だ。

 

 向かった先は、上江洲家(うえずけ)。琉球王朝時代の1700年ごろの建造で、現存する沖縄の民家では一番古いものだという。この家は、代々、地頭をつとめた旧家。

 
その内部。保存はとても行き届いている。
 

 上江洲家の近くにある泰山石敢當。石敢當は、沖縄の各地にみられる魔物よけである。

 ここの石敢當は、泰山石敢當と書かれている。中国の霊峰の泰山の名をつけたもので、泰山石敢當と書かれたものを見たのははじめてだ。

 また、写真では見えないが、雍正11年という年号が刻まれている。清の皇帝名の年号で、琉球王朝への中国の影響を感じさせれる。この年号から、1733年のものだとわかる。

 このあと、仲泊のバス停まで戻り、ふたたび島の東部に戻った。空港発のバスは島の東部では、遠回りしてホテルに立ち寄っていくので、久米アイランドホテルで下車。この付近で食事をし、そのあとイーフビーチに出るためだ。

 
 すでに空腹に近いような感じだったが、営業している店がなかなか見つからなかった。

 はなくら、という店で、魚汁定食を注文。魚汁の魚はイラブチャーのようで、汁の中に赤や青の色が見え隠れしていた。刺身つきで、なかでも、イラブチャーがついているのが沖縄らしい感じだ。美味しくいただけた。

 最後に、アイスコーヒーもでてきた。暑いのでアイスがいい。冬でもアイスというのも沖縄らしくていい。

 

 食事後、イーフビーチにでた。

 このビーチ、砂が真白なのだ。そして、たいへん砂粒が細かい。どうしてなんだろう。そして、青い海がよく溶け込んでいて、なんともいえない絶景だった。

 イーフビーチは、日本の渚百選にも選ばれている。小さな島の割りに、2kmほど続く長いビーチだ。見えている陸地は、奥武島だ。

 
 この日は、ビーチで地元の子供たちの凧揚げ大会が行われていて、凧がたくさん舞い上がっていた。

 

 

 

  

 
 
 バスの営業所はビーチに近い。またバスに乗るために営業所まで行った。どうやら町営バスは3台でやりくりしているようだ。
 
 一周線のバスで、比屋定バンタに行った。

 ここは峠にあたるような部分で、眼下は絶壁になっている。展望台があり、そこから望む。

 左は、島の東部を見たもので、うっすらとハテの浜も見える。さらに、渡嘉敷島の島影も見えたのだが、写真ではわからない。

 ここからの眺めはすばらしかった。イーフビーチともにおすすめできる風景だ。

 

 こちらは、西のほうの眺め。崖下には、エビの養殖場が広がっていた。

 

 

 

 

 

 

  

 
 展望台とバス停。バスの時間の関係で、1時間ここに滞在したが、長くは感じなかった。   
 

 バスの営業所に戻る。目の前の畑では、さとうきびの取り入れをしていた。 

  

 
営業所では、バスに乗って発車時間を待つ。
 

 空港行きの客は数人だったが、飛行機の搭乗客は結構多い。

  空港の待合室。夕焼けが少し見えている。

 復路はJTA便。搭乗ゲートから直接に搭乗する。

 那覇到着後は、いったんホテルにもどったあと、すぐに食事にでかけた。

 
 この日は国際通りに出てみた。道端でチラシを配っていた店があったので、そこに入ってみた。

 注文したのは、ラフテーとチヂミ。飲み物はオリオン生ビール。美味しかったのだけれども、昨日があまりによかったので、印象には残らない。

 そのあと、ネットを少しして、沖縄そばをホテル近くの店で食べて、ホテルへ。2日目終了。

 
  

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