4   マ チ ュ ピ チ ュ

 

  まだペルーにやってきてから3日目だが、この旅のハイライトであるマチュピチュを訪れる日がやってきた。朝食は5時からだが、4時ごろに起きたあと、また寝てしまうと5時を過ぎてしまうかもしれないので、遺跡内の歩き方を考えたりして寝ないようにした。

  5時になり、荷物を持って食堂に行くと、まだ真っ暗だったが、従業員が待機はしていたようで、すぐに明かりをつけ、食事の準備をしてくれた。パンにバター、ジャムだけの食事だから、すぐに食べ始められる。飲み物はコカ茶をオーダー。食べている途中に他の泊り客が一組だけ食事にやってきた。彼らも5時30分のバスに乗るのだろう。10分で食べ終わり、ホテルを出る。

  5分ほど歩いて、バス乗場にやってくると、すでにバスは止まっていたが、まだ乗車はできないみたいで、しばらく並んで待った。やがて乗車。自分が乗ってまもなく満席になったが、客の数にあわせてバスを出しているようで、5時30分までに行けばバスに乗れないことはないようだ。

  定刻に発車。泊ったホテルの前も通過して、マチュピチュに向かう。ホテルを過ぎたあとは、暗闇の中をバスは突っ走る。10分ほどで遺跡の麓にあるルイナス駅の付近を通過。ここから、急斜面をジグザグを13回繰り返して上っていく。

  5時55分に遺跡到着。このころ空が白んできて、山々の形などがわかるようになってきた。遺跡の開門は6時なので、少しだけ並んで入場を待った。入場券はナオツールで手配してもらっていたので、入場券窓口に並ぶ必要はなく、入場者の列に並べてよかった。

  いよいよ入場。しばらく歩いて、農地管理人の住居跡にやってきた。敵の侵入に対する見張り小屋という説もある。ここを、このまま直進すると遺跡の中心部に至るのだが、自分はここから段々畑の端のほうにある山道を上って、遺跡全体を見渡せる高台に向かった。

  その山道は視界が悪く、本当に高台に上がれるのかよくわからないまま、ほかの客も上がるので後ろをついていったようなものだ。やがて視界が開けると、先ほどよりも明るくなり、マチュピチュ遺跡の全体が見渡せた。遺跡の向こうには、切り立ったワイナピチュが人を寄せないぞって感じで見える。この姿を見て、ワイナピチュに上るぞ !って決心してやってきたものの、その決心が揺らいだのだ。

  ワイナピチュとは、若い峰という意味で、マチュピチュは、老いた峰という意味だそうだ。マチュピチュ遺跡は、山の中腹にあり、マチュピチュの山頂へは、ワイナピチュ以上に時間がかかり、訪れる人もわずかだ。それに対して、ワイナピチュへは、結構な数の観光客が上っている。だが、自分に上れるかどうか、、迷いつつ、先に進んだ。

  高台からは、さらにその上部に上がれるようになっていたので、もう少し上がってみた。景色に変化はそれほどないが、上がったところにある広場には、リャマたちが待ち構えていた。人なれしたリャマたちに近づいて写真を撮ったりして楽しんだ。

  この高台は、墓地とも呼ばれている。多くのミイラが発見されたためである。そのミイラの大半が女性であったので、スペイン軍に追われてマチュピチュから逃れる際に女性が殺されたのでは、、という説もあるが、実際はどうかわからない。マチュピチュの人口は500人から1000人ほどだったという説が有力なので、百数十体のミイラというのは、人口からして、かなり多い。

  この高台には、大きなひとつの石がある。葬儀の石と呼ばれているものである。階段が3段あり、その上部は平らになっている。生贄になった動物が、この石の上で犠牲になったものと考えれている。

  ここからさらにインカの橋へ小道があるのだが、時間の関係でインカの橋には行かなかった。リャマたちのそばでしばらくマチュピチュの全景を眺めながら、しばらく休憩。見れば、遺跡の裏手に当たる部分にも段々畑 (アンデネス)がある。しかも大変な急斜面にへばりつくようにして。こりゃ、本当に農作業が大変だ。それにしても、こんな山の頂上付近によくぞ、街を作ったものだ。それに段々畑も。

  高台を降り、右手に壮大な段々畑を見ながら、市街地の入口へと進んだ。いよいよ建築物群との対面だ。ここが、本来、マチュピチュの正門だったらしい。ここから、市街地の遺跡を見てまわった。市街地といっても、かなりの急傾斜の斜面上にあるので、移動は大変だ。 このことはガイドブックの地図からはわからず、現地に行ってはじめて知った。

  この門には両開きの扉がついていたらしい。門の内側に、扉につけられた円筒形の石がはめ込まれたような穴があるからだ。下の画像は、門の内側から、歩いてきた方向を写したもの。

  市街地の遺跡の内部を歩く。下の画像から、上部の建物の床が、下部の建物の天井に近い高さにあることがわかる。壁が石でできているが、屋根は茅葺きだったという。

  いったん、先ほどの門から市街地を出て、壁の外側にある階段を下っていく。右手に段々畑(アンデネス)、左手に市街地。遺跡の上から下までのうち、半分ほど下がる。右手を見ると、段々畑。一番上に見える建物は、見張り小屋。段々畑の農作業も大変だったことだろう。

  

  それにしても、美しい段々畑だ。美しく感じるのは、一つ一つの段に精巧な石垣がつくられているからだ。畑だけのために、ここまで緻密に石が積み上げれれているのは驚きだ。単に、土砂が流れ落ちるのを防ぐためではなく、神聖なるマチュピチュ市街の一部分として丁寧に手を施して建設されたように思える。

  かなり下ってから、遺跡の中心部へと向かった。 上がったり、下がったり、起伏のある遺跡は疲れる。

  美しい曲線を描く建物がある。これは、太陽の神殿と呼ばれる。クスコの太陽の神殿に似た石組みがにみられるからだという。窓には金が取り付けられていたらしい。

  太陽の神殿の下部の内側には三角形の石室があるが、これは陵墓と呼ばれる。ミイラがここで発見されたから、ミイラの安置所と考えられている。石室の奥には、祭壇のようなものが見える。

  太陽の神殿の隣は王女の宮殿。遺跡の中で唯一の2階建ての建物だ。建物の外側に階段があるのが特徴で、内側には階段がない。こうした建築はインカには多いという。外側の階段も2階にあがったところから先は柵がしてあって、内部をうかがい知ることはできなかった。

  マチュピチュに王女がいたのかどうかは不明だが、かなり高い地位の人物が住んでいたものらしい。

  太陽の神殿のそばには水が流れている。水量はわずかなものだが、遺跡内では貴重な水が得られる場所になっている。水の流れる部分には溝がほってある。高低差のある遺跡の中で、高い部分から低い部分にかけて、水が下っていくようになっていて、ところどころに水を汲むところがある。

  遺跡の中心にある広場。広場の向こうに見える高台は貴族の居住区と言われている。広場では儀式が行われ、建物が観客席の役割を果たした。広場の左手には、主神殿などがある。

  階段をあがり主神殿などがある高台に向かった。階段に沿って水路があり、水汲み場が上から下へと続いている。

  下の画像の真ん中の広場は、神聖な広場と呼ばれる。広場を取り囲んで、3つの神殿がある。上に見えるのが神官の館、左端にあるのが3つの窓の神殿、右下にあるのが主神殿である。また、右上に、遺跡の下のほうに下る階段があり、その階段に沿って水汲み場がある。

  下の画像は、内側から見た3つの窓の神殿。インカの初代皇帝マンコ・カパックは、タンプ・トコの洞窟の3つの窓から誕生したという伝説がある。この伝説の場所が、この神殿だという説もあったが、現在ではクスコに近くだと考えられている。

  3つの窓からまっすぐ見た先は、夏至の日の出の場所らしい。

  主神殿から、さらに高台を上っていく。そこが遺跡内の最高地点。

  下の画像は、今まで歩いてきた方向を眺めたもの。神聖な広場が手前に見え、段々畑との間に石切り場がある。マチュピチュの建物建設に必要な石はここで切り出されたものと考えられる。

  最高地点にはインティワタナと呼ばれる大きな石がある。天体観測に使われたとか、日時計であるとか言われているが、はっきりとはしない。

  石からは角柱が突き出ているが、それぞれの角は東西南北をさしている。角柱の対角線の上を冬至の日の太陽が通過するという。

  インティワタナから降りると、遺跡の一番奥に近いところになる。広場をはさんで、貴族の居住区などがある。広場を突っ切って、ワイナピチュのほうへと向かった。

  さて、このころ日本へ携帯電話をかけてみた。時刻は9時だったので、14時間の時差がある日本では前日の午後7時だ。鮮明な声で通話ができた。マチュピチュからの通話、いつから可能になっていたのだろうか。こんなことができるなんて、、あらためて、すごい時代になったものだと感じた。

  やってきました。ワイナピチュの上り口。ここまでやってきても、上るか、やめておくか迷う。少し悩んだが、上ることを決心。入口には受付があり、そこで名前、パスポートナンバー、入山時刻を記入する。時刻は9時30分、この日の150人目ぐらいだった。

  すでに、ほとんど休憩なしに3時間30分、起伏の多い遺跡内を歩いてきたので、少し休憩して体調を整えてから出発する。

  いったん谷を下るため、10分ほどは下り道だ。そのあと、いよいよ絶壁にへばりつくような登山道を上る。入口から見ていると、絶壁のような山なのだが、その壁によくこんな道を作れたものだというような登山道だ。入口からは岩山のようにしか見えなかったが、登山道は意外にも木々に覆われていて、視界はあまりよくない。自分がどのくらい上がったのか、よくわからない。

  ところどころ、水が湧き出ていて、そのためすべりやすくなっているところがある。自分がはいていた靴は底が平らなものだったので、すべらないように一歩一歩、気をつけて歩いた。

  上がるにつれ、鉄の鎖や手すりのついている区間も多くなり、慎重に上っていった。30分ほど急な登山道を歩くと、頂上らしきものが見えてきた。ところが、ここからが難関。傾斜はさらに急になり、なかには70cmくらいの段差を上らねばならないところがあり、はいていたジーンズのせいで足が上がらず苦労した。見かねた外国人が手を出して助けてくれて、なんとか上れた。

  ワイナピチュに上るなら、底が平らな靴とジーンスは避けたほうが無難だ。通常の遺跡見学ではなく、ややハードなハイキングコースだと思っておくほうがよい。

  ワイナピチュの頂上近くにも段々畑の跡があった。絶壁の一番上のあたりだ。これにはびっくり。こんなところで、とうもろこしなどを作っていたとは、、上ってきた人は、皆、この畑を見てびっくりしているようだ。  

  山頂まで1時間かかった。途中でかなり多くの人に抜かれているので、通常は40〜50分で上れるのかもしれない。マチュピチュ遺跡が眼下に広がっている。通常、よく見るマチュピチュの画像はワイナピチュをバックにしたものなので、新鮮な感じだ。遺跡の上にそびえるマチュピチュの峰も見える。ワイナピチュよりも高く、上るのもつらそうだ。

  苦労して上っただけのことはあると思った。絶景を楽しめるので、これからマチュピチュを訪問する人はぜひ登頂してほしいものだ。

  下は遺跡の部分を高倍率で撮影したもの。自分の歩いてきたルートをたどったら、かなり上がり下がりしていたことがわかった。そして、山頂ではないにしても、山のかなり上のほうに遺跡があることもよくわかる。空中都市という言い方がされることもあるが、まさに空中の都市だということが実感できる。

  谷から遺跡にいたる道は13回折れ曲がっていることも手もとるようにわかる。

  谷間に鉄道の終着駅であるプエンテ・ルイナス駅が見える。かつては、この駅から遺跡行きのシャトルバスがでていたが、いつの間にか、この駅まで通常は列車が乗り入れないようになり、バスの出発点もアグアス・カリテンテスとなった。

  よく見ると、プエンテ・ルイナス駅には列車が停車している。アグアス・カリエンテス駅に止めておけない列車などが、回送されているのだろうか。

  30分ほどワイナピチュからの風景を楽しんだあと下山。降りるときは降りるときで、気をつけないと危ないので、慎重にゆっくりと歩く。後から来る人をどんどん先に行かせながら歩いた。それでも、45分ほどで入口まで戻れた。12時前だった。

  しばらく休んだあと、遺跡の出口に向かって歩き始めた。下の画像は、貴族の居住区とされている高台から、遺跡の中心部を眺めたもの。  

  貴族の居住区、技術者の居住区と呼ばれているところを通っていく。ワイナピチュで疲れたためか、淡々と出口に向かって歩いた。下の画像は、コンドルの神殿と呼ばれているあたりで撮影したものだが、どうもコンドルの神殿の画像を撮影し損ねたようだ。う〜ん、残念。かなり疲れていたのだろう。

  いよいよマチュピチュの出口が近づいてきた。ワイナピチュをバックにした遺跡を見納めた。

  13時に出口を出て、遺跡をあとにした。7時間、とても充実した滞在時間だった。アグアス・カリエンテスに向かうバスが停車していたので、すぐに乗車。

  バスは何度も折れ曲がる道を下っていった。その途中、何か声が響いているように感じた。しばらくあと、また声が響いた。こりゃ、有名なグッバイボーイじゃないかと直感。確か、子供が学校に行かなくなるからと、禁止されたはずだったので、会うことはないと思っていたのだが、ひょっとして見ることができるかも、と窓の外を探すが、どこにも姿が見えない。しばらくあと、確かにグッバイ〜と言っていることを確認。そして、人影のようなものが見えて、急いで撮影しようとしたが、バスのスピードには対応しきれすに撮影できない。

  そのまま、山の斜面を降りる道は終わり。もう見ることはできない、とあきらめたのだが、何と、プエンテ・ルイナス駅の前でバスが停車し、少年がバスに乗り込んできたのだ。これにはびっくり。チップを集めてまわっている。そうか、チップをもらうためにやってるんだからバスに乗せてもらわないとならないんだ。いつもは、こうしたチップには気が乗らない自分もチップをあげた。

  バスを降りたのが13時30分。指定された列車に乗るためには発車30分前までには行くようにということなので、15時ごろまでに駅には行かねばならないが、まだ十分に時間がある。レストランや土産物屋の多い道を歩いて昼食場所を探したのだが、これは、という店がなく、結局、駅のそばの店に入った。

  ビュッフェ形式の店で、ウルバンバ川の流れを見ながらゆっくり食事した。

  レストランを出ると、すでにこれから乗車する列車が止まっていた。でも、この場所から乗ることはできない。いったん階段を少しあがたっところにある新駅まで行って、そこで乗車する車両ごとに待機していなければならない。

  新駅に入るには乗車券を見せなければならない。大部分の客は予約をしているから問題ないが、予約をしていない客の場合はどうするのだろう。この中に切符売場はあったのだが、、

  新駅から駅の中の階段を下りて列車に乗り込んだ。乗り込むときに乗車券のチェックをしているのが下の画像。乗務員の制服はなかなかよかった。

  発車後、眠気に襲われ眠りに入った。他の客も多くがおやすみ状態で、満席にもかかわらず車内はいたって静かだ。ときどき目が覚めて、外の風景に目をやると、スイッチバックが見えたりした。マチュピチュはクスコよりも高度が低い。だから、クスコ行きはだんだん高所に向かっている。

  オリャンタイタンボを出たところで、ケーキ、クッキーに飲み物のサービスがあった。そのあと、また眠りについた。やがて、クスコ近郊のポロイ駅に着いた。ここからまだ列車では50分かかるのだが、ここで降りてバスに乗ると15分でクスコに戻れるのだ。そのためか客の半数以上がポロイ駅で下車。

  すでに当たりは真っ暗になっているのだが、まもなく車内の電灯も消灯になった。クスコ市街の明かりを見せるためだ。市街地の明かりがとてもきれいだ。アルマス広場がすぐ近くに見えるが、スイッチバックを何度も繰り返して市街に入っていくので、時間がかなりかかる。

  定刻にクスコのサン・ペドロ駅に到着。ナオツールの人が迎えにきていた。到着日はペルー人がやってきたが、この日は日本人の社員がきてくれて、いろいろ日本語で話ができて安心した。

  1日ぶりにホテルロレトに戻ってきた。だが、部屋はこの前とは別の部屋。今度の部屋は、インカ時代の石垣が部屋の壁になっている部屋だ。壁の向こう側は道路だ。インカの石垣のそばですごすことができてとてもよかった。先に泊った部屋と同じで、夜は冷え込むので電気ストーブが置いてあった。

  ナオツールの人からバウチャーを受け取ったり、今後のコースの説明を受けたりしたあと、夕食に出かけた。左が、Lomo Saltado ロモ・サルタード。牛肉とポテト、たまねぎ、ピーマンなどの野菜の炒め物である。右は、Sopa de Ajo ソパ・デ・アホ。ニンニクのスープ。

  飲み物はインカコーラ。ペルーの大衆的なドリンクだ。普通のコーラに比べてみて、炭酸があまり含まれていない。そのためか、甘く感じる。

  マチュピチュでよく歩いた一日だった。疲れをとるために、シャワーのあと、まもなくベットに入り込んだ。

 

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