11   リ  マ

 

   朝食も日本食。美味しくいただいた。前夜の夕食と同様、宿泊客の間で話がはずみ、食後も話続けている人もいるが、自分は、この日だけがリマ市内の観光なので、すぐに出発する。ペンションからアルマス広場まで、タクシーで7〜8ソーレスだという情報を食事中に得ていたので、ペンション前でタクシーを捕まえると、8ソーレス(約296円)とこちらから提示。スペイン語ができないだけに、10ソーレス程度ならやむを得ないと思っていたら、何のことはない。8ソーレスですぐに決着。

  タクシーに乗ってからしばらくして、フロントガラスに弾丸があたったような跡があることを発見し驚いた。しかし、よくガラスが割れずに部分的にヒビがはいっているだけですんでいるものだ。流れ弾があたったのだろうか。それにしても、ぞっとする。前夜の食事のときに、治安のことが話題になり、昔に比べてみてずいぶん良くなった、特に、殺人など凶悪なものが減ったと聞いていたが、こういうのを見ると不安になる。

  アルマス広場まで20分。広場に面してカテドラルが建っている。このカテドラルは、スペイン人の征服者、ピサロによって建設された。カテドラル内に、彼のミイラが保管されており、祭壇がいくつもある大きな空間が中にある。金箔や銀箔の彫刻が見事な祭壇、ピサロのモザイク、歴代のインカ皇帝の肖像画などもある壮大な堂内だ。建造後、数度の地震で損壊したが、18世紀の大修復のあとは、そのときの姿を今にとどめている。

  アルマス広場に面して、大統領府がある。こちらは入場できない。この広場の片隅にピサロの銅像がたっていたらしいが、今は撤去されたのことだ。リマはインカ帝国を滅ぼしたスペイン軍のフランシスコ・ピサロが造った町で、同時に征服者、植民者として先住民を威圧し、金銀の財宝を根こそぎ奪い取った。そんな状況に配慮しているのだろうか。

  しばらく大統領府を見ていたら、小学生の一団がその前を通りかかった。

  続いて、サントドミンゴ教会・修道院へ。画像はその中庭。回廊には、セビリア風のタイルがふんだんに使われ美しい。

  さて、この中庭から、天野博物館に携帯電話で電話した。日本の携帯がそのまま海外でも使えるのは便利だ。電話にでたのはペルー人のようだったが、日本語で、、というとすぐに日本人職員に電話を代わってもらえた。天野博物館は予約が必要で、日本人向けの案内ツアーは、ガイドブックでは15時30分と16時30分からと書いてあったので、16時30分からの予約をお願いした。すると、16時30分のはすでに一杯で、16時45分に現地に行くということになった。

  ここの地下には、聖者であるサンタ・ロサとサン・マルティンの墓がある。左上の画像は、サンタ・ロサの墓。死後も信仰心のあつい人たちに奇跡をおこしたという。右上は、サン・マルティンの墓。彼も奇跡をおこしたとされ、両者はリマの守護神のような存在だという。

  さらに、ラ・インキシシオン(宗教裁判所博物館)へ。植民地時代には、キリスト教は絶対的な力を持ち、異端者などには拷問が行われた。画像は手足を縛り、四方に引っ張模様を再現したろう人形。ほかにもいろいろな拷問の様子が展示されている。

  ラ・インキシシオンの前にあるインキシシオン広場では何やら式典が行われていた。この付近の商店には、ウインドーが鉄格子でガードされている店が多い。なかには、鉄越しに商品やお金のやりとりをする店もあることに驚いた。治安が悪いことを裏付けているようだ。

  セントロ観光の最後は、サン・フランシスコ教会・修道院。内部の見学は、ガイドツアーによってのみ可能であるため、しばらく待機のあと、見学。

  一番興味を持ったのは、食堂にかかっていた「最後の晩餐」の絵。「最後の晩餐」といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの手によるものがあまりにも有名だ。自分はイタリアでその実物を見ているが、それとこの教会の「最後の晩餐」はずいぶんと違う点がある。

  まず、食卓の形、ダ・ヴィンチの絵では、長方形だが、ここのは円形なのだ。そして、ダ・ヴィンチの絵では描かれている人物は弟子たちだけなのだが、ここのは、弟子たち以外に子供や犬が描かれている。そして、裏切り者とされるユダは、ダ・ヴィンチの絵では、お金の入った袋をもっているのだが、ここの絵では、ユダの背後で悪魔がささやいている姿が描かれている。そして、何といっても、自分が興味を持ったのは、食事の内容。皿に盛られている料理の中に、何と、クイ(食用ネズミ)があるのだ。

  このように考えると、ずいぶんとペルー化された「最後の晩餐」だといえる。同時に、知らず知らずのうちに「最後の晩餐」とは、ダ・ヴィンチが描いた絵の状況が、正しい状況と思い込んでいたことを痛感した。ダ・ヴィンチは、彼なりの想像によって絵を描いているのに、なぜだか、自分はそれが歴史的事実のように思い込んでしまっていた、ということに気づいたのだ。 ガイドとともに回るのは、好きじゃないが、この日ばかりは説明を聞けてよかった。

  この教会でも、サント・ドミンゴ教会と同じく、中庭を取り囲む回廊に張られているセビリア風のタイルがとても美しい。

  地下にはカタコンベもあった。地下に降りていくと空気はよどんでいる。壁に沿って長方形の棚が並び、そこには人間の骨が安置されていた。さらに進むと、井戸のように見える円筒があり、その中をのぞくと頭蓋骨と手足の骨が同心円状にきれいに並べられていた。

  見学できるのは地下1階だけだが、地下3階まであるらしい。時代はそう古くなく、植民地時代の遺骨で、一般の市民のものだという。

  ここまでで、午前中のセントロ観光を終え、ほかに移動する前に、昼食。おまかせのセットメニューがあって、聞くとスープとミートスパゲティということで、これをオーダー。

  昼食後、タクシーで日秘文化会館に向かった。日秘文化会館は日系人が日本文化を知るために建てられたものである。日本語や華道、柔道などの講座が開かれている。ガイドブックではこの会館の2階に日本人移住史資料館があることになっている。ここを訪問するために、この会館に来たわけだが、入口では厳重なセキュリティチェックがあった。

  中に入り2階を探してみたが、そのような資料館はない。再び1階に戻り、インフォメーションで聞いてみることにした。一見、日本人がインフォメーションにいると思って、日本語で尋ねてみたのだが、うまく通じなかった。日系人だったからだ。英語もまじえて、ようやくわかったのは、資料館はこの会館内の2階だが、別の棟だという。本館ではなく、資料館専用の棟があり、その2階ということらしい。

  さて、資料館では日本からの移民や日系人のことについて詳しい展示があった。ペルーに移民としてやってきた日本人は、地方の農園で小作として重労働を強制さらたいたようだ。そんな生活から逃れようとしてリマなどへ逃れてきて都市住民になった人も多いし、逃れる途中に命を落とす人も多かったという。地方ごとに入植した日本人の数や逃れた人の数などの資料もある。

  また、日本とペルーの外交関係や文化交流についての展示もある。ここでは、じっくりと見学したので、小一時間かかった。

  このあと、タクシーでミラフローレス地区にある恋人たちの公園へ。なぜ、恋人たちの公園かと言えば、恋人の抱き合うモニュメントがあるからだ。

  この公園は崖の上にあって、公園からは太平洋を見渡すことができる。この海をへだてて、日本とペルーは一応、隣り合っているわけだ。

  ミラフローレス地区では、このあとラルコ・マルに行くつもりをしていた。恋人たちの海岸から1kmほど離れている、現代風のショピングエリアで、この地区を代表するようなスポットである。だが、日本人移住史資料館で時間をかけすぎたため、次ぐに行く天野博物館の指定時間を考えると、ほとんど滞在できないことが明らかだったので、ラルコ・マルはあきらめた。

  約束の10分ほど前に、タクシーで天野博物館に到着。入口は鉄扉の内側にあり、鉄扉を開けてもらうために、インターホンで中の人を呼びだした。名前と予約時間を告げ、中に入れてもらった。

  予定の16時45分に案内が始まった。この博物館は、故天野芳太郎氏が、発掘し集められた、土器や織物などが展示されている。時代は、プレインカ時代もインカ時代のもあるが、中心はプレインカ時代のもので、なかでもチャンカイ文化のものが多い。

  チャンカイ文化は、15世紀にペルー北部のチャンカイ川流域が中心の文化である。展示室は2部屋しかないのだが、一方が土器が中心、もう一方が織物が中心になっている。織物も多く残っているのが意外な感じがする。ペルーの海岸部は砂漠になっていて、雨はほとんど降らない。そのため、織物が破損したり色落ちせずによい状態で残ったと考えられる。

  1時間弱の案内のあと、館内のショップでお土産を吟味。そのあと、ペンションにタクシーで帰った。ドライバーに住所を書いた紙を見せていたのだが、ペンションの近くまできてどこがペンションかわからなくなってしまった。おまけに、このペンションは防犯対策のためだろうか、外には看板はでていない。そのため、自分がペンションに携帯で電話。経営者の早内さんに、事情を話し、ドライバーにスペイン語で説明してもらった。携帯を持参してよかったと思った。

  結局、15分くらいで帰れる距離なのに、30分以上かかってペンション着。食事時間にはまだ早かったので、先にシャワーを浴びたり、帰国のための荷物整理をしたりした。

  そのあとで、ペルー最後の食事。もちろん日本食。上の画像は、食事のごく一部。前日と同じく、ウニがまたもやどっさり食卓を飾ったほか、美味しい食事を堪能した。前日とは少し宿泊客が変わったが、やはり、その日の体験談とか話して盛り上がった。この日は、宿泊客以外に、経営者の知り合いのペルー在住の人も一緒に食事。ペルーの日本大使館占拠事件のときに拘束された話を聞くことができた。

  しばらく、話をしていたが、いよいよ空港に行く時間になった。空港まで送ってもらえるとのことで、21時30分にペンション出発。

  空港には、深夜1時出発のところ、22時前には到着した。ところが、搭乗予定のアメリカン航空の搭乗客の列は長蛇の列になっていた。延々と続く列に1時間30分ほど並んだのだ。

  なぜ、そん なことになったのかというと、セキュリティチェックにとても時間を要していたからだ。搭乗手続の前のセキュリティチェックでは、荷物を他の人がさわってないか、荷物の中に危険品ははいっていないか、ペルーには何日間いたか、ペルーで滞在したところはどこか、などなど。これを英語で問われるので、英語のテストを受けているようなものだった。5分間ほどかかってようやく、無罪放免になって、ようやくチェックインが許された。

  で、セキュリティチェックを受けた荷物を運ぼうとすると、触らないように制止され、係員が自分の荷物を荷物台の上まで運んだ。なお、帰国後わかったのだが、こうしたチェックは、9.11テロのあと行われるようになったのではなく、それ以前から、南米発の米国系の航空機では行われていたという。

  さらに出国審査も込んでいたため、搭乗ゲートにたどりついたのは、出発予定時刻の30分ほど前だった。搭乗ゲートのところでは、ほとんど休むまもなく搭乗開始。

  帰国便はほぼ定刻どおりのフライトだった。上はダラス行きで出た機内食。

  ダラスで乗り換え成田行きに搭乗。上は1回目の機内食。

  上は2回目の機内食。予定通り成田に到着後、国内線で伊丹へ。ここにペルー旅行が無事終了した。次回はペルー北部にいったみたいものだ。そのとき、マチュピチュはもう一度行ってみたいものだ。

 

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