3 アウシュビッツ その2

アウシュビッツからビルケナウまでは3kmほどだが、夏季だけバスがでている。15時30分のバスに乗り5分ほどでビルケナウに到着。

バスを下車すると、すぐ目の前に収容所の管理棟がそびえていた。

まず管理棟に入ってみた。中には特に展示はないが、ここから収容所全体が見渡せる。広さがアウシュビッツより数倍広いこと、建物があまり残されていないこと、鉄道線路が収容所敷地の反対側まで伸びていることなどを確認することができる。

管理棟の1階を列車は通れるようになっていて、敷地内に入ると、プラットホームの跡が残されている。プラットホームはかなり長くて、長大な列車で囚人が運ばれてきたことを想像させる。(アウシュビッツのほうじゃ、鉄道線路が敷地内にまで延びていない)

建物はあまり残されていないが、当時は建物が敷地内一杯に建っていた。左の写真でも手前は空き地になっているが、建物の跡らしきものと、煙突の下のかまどらしきものが見える。

この写真ではレンガ造りの建物だが、作られた時期が遅いものは木造であった。また、レンガ作りとはいっても、アウシュビッツに残されている頑丈な建物に比べて、簡易な構造であることもわかる

こちらは、木造の建物群。ほとんどバラックといってよい。各建物にはかまどと煙突が残されていたが、それだけでこの地の冬の寒さをしのげるとは思えない。

木造の建物群のうち何棟かは内部を見ることができる。アウシュビッツのように、さまざまな展示がされているのではなく、当時のままを見せるようになっている。

ひとつの棟は、トイレ棟になっていた。丸い穴が開いているだけである。アウシュビッツのトイレに比べずっと簡易なもので、衛生状態も悪かったことが想像される。
囚人棟の内部は3段ベッドなっていた。ベッドは木造。写真は片側だけが写っていて、写真の左側にも3段ベッドが並んでいた。この建物ひとつにつき、暖房用のかまどと煙突はひとつが残されているだけである。
木造の囚人棟の入口の部分。
鉄条網のフェンス。

左手の草原の中に点々と見えるのは、棟ごとのかまどの跡である。

この写真のところでは、かまどと煙突が残されていた。それとも修復されたものであろうか。遠方に管理棟が見える。
ガス室の跡。破壊された跡がそのまま残されていた。

線路の終点の先に国際慰霊碑がある。この周囲には小さな慰霊碑が並んでいる。

管理棟からこの慰霊碑までは1kmほどあり、収容所の広さが実感できる。

線路の終点近くから管理棟を望む。

プラットホームの跡が線路の終点近くまで延びていたことがわかる。

ビルケナウはアウシュビッツのように、説明がないが、かつての囚人棟の跡や破壊されたガス室の瓦礫などが、当時のありさまを訪問者に想像させてくれる。アウシュビッツも不気味であったが、不気味さはビルケナウのほうが強い。

こちらは広いので、一通り見て歩くだけであったが、1時間半ほどかかった。

17時ごろにオシフィエンチム駅行きのバスがあったので駅までバスで戻った。ところが、適当な列車がなく、少しはなれたところからバスで1時間半ほどかけて、クラクフに戻った。

19時近くであったが、まだ真昼。夕食のために旧市街へ出かけた。旧市街の中心には、織物会館があって、その前が大きな広場になっていた。

旧市街の通り。古い建物が保存されている。この一角で夕食をとった。

プラツキとサラダ、ビールで夕食。

プラツキはポーランドの代表的な家庭料理。じゃがいも、たまねぎを小麦粉にまぜてたものを焼き、それにチキンや野菜の煮込みをかけてある。

食事の後、駅前のホテルに戻り、ビルケナウで歩きまわったためか、すぐに眠りについた。

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