part1 - 3日目     

朝食を外食するので7時にチェックアウトし、MRTを乗り継いで、科技大樓へ。目指すは、永和清粥大王。MRTの大安と科技大樓の中間にあり、高架鉄道の車窓からも見えた。

食べたい品を言って皿に盛ってもらうシステムで、まとめてお金を払うようになっている。ホタルイカ、卵とじ、もやしと肉のあえものを注文。粥は黄色くみえるが、かぼちゃが入っているためである。

朝から満腹になってしまった。

食後は、MRT大安までいった。ラッシュ時の台北はバイクだらけである。どの交差点でもバイクがあふれている。バイクは交差点で一番先頭に出るような決まりになっているようだ。

MRTの高架鉄道。大安にて。

MRTを乗り継いで、西門町へ。 地上に出ると、すぐに中山堂があった。1936年、昭和天皇の即位を祝して建設された台北公会堂が前身である。講演会やコンサートなどに利用されたという。戦後は、中山堂と改名され、外国の賓客の接待や総統就任式などの国家的行事の場となった。2000年ごろから、再び、公会堂としての用途で用いられるようになってきた。

中山堂の前の広場に相対して、「抗日戦争勝利曁台湾光復紀念碑」があった。「光復」とは、祖国復帰ということであるが、これも中華民国の立場から見たものである。抗日戦争というのも、中華民国の立場から見たものである。独立派の立場では、そもそも、日本とは戦争はしていないのである。(ただし、統治はされていた。)

むしろ、独立派からすれば、この紀念碑は、長らく煙たい存在であったであろう。なぜなら、独立派にとっては、「光復」は外来政権の支配の始まりを意味したから、、

しばらく、この広場で休んで考えた。台湾独立の意味がようやくわかってきた。これまで、台湾独立とは、中華人民共和国からの独立と思っていた。しかし、そうではない。建前上の主張は別にして、台湾は中華人民共和国の一部になったことはない。独立とは、中華民国からの独立、あるいは、中華人民共和国でも中華民国でもない「中国」からの独立をいっているのである。そのことをわかりにくくさせているのは、中華民国の支配範囲が台湾しかないため、どうしても、中華民国=台湾と勘違いしてしまうためと、中華人民共和国が独立に猛反対しているためである。

続いて、総統府にいった。日本統治時代の総督府が改築の上、使用されている。入るときには、パスポートを提示し参観証をうけとり、荷物の検査をうけたうえで、カバンを預ける。

9時の参観開始すぐに入場。日本人の参観者が多く、10人程度づつのグループが作られ、ガイドの案内で見学していく。

自分のグループのガイドは、70歳代半ばのお年寄りで、日本軍に志願しビルマへ派遣されたという。そして、228事件で目隠しをされて殺される寸前で命拾いしたのだという。しかし、親族では殺された人がいるとのこと。その後、ジャーナリストをしていたが、蒋介石時代は、自由な報道は許されておらず苦労したという。たいへんわかりやすい日本語で案内してもらった。

まず、驚いたのは、この建物の主として、歴代の総統は当たり前として、日本総督も顔写真が展示されていること。日本総督と中華民国総統が同格で扱われていた。そして、日本総督のなかで、特に台湾で評価が高い人物が2人いるとのことで、その2人の功績を長々と話された。

次に、かつての総督府を撮影した写真をいろいろ見ながら解説が続いた。昭和天皇は皇太子時代に総督府を訪問したとのこと。前日、北投の温泉博物館でも写真を見たので、同じときなのだろう。

米軍が撮影した空中写真もあった。総督府だけじゃなく台北はじめ主要都市の空中写真を米軍は持っていて、それをもとに台湾の主要都市は、1943年11月ごろから、しばしば空襲をうけたということだ。日本本土の空襲は、1944年6月ごろから九州、11月ごろから東京であったので、ずいぶん早い段階から空襲があったことになる。さて、中国本土は日本軍が空襲したのに対して、台湾では米軍に空襲されたのである。このことも、台湾に親日的な人が多い背景じゃないだろうか。

総督府も空襲でかなり被害を受けたが、1950年代に大改修をしたとのこと。そして、「韓国は壊しましたが、台湾は永久保存します」と言っていたのが、大変、印象に残っている。

続いて、戦後の総統についての展示の部屋にやってきた。まず、蒋介石、蒋経国の部屋でガイドは、なんと、「ここでは話したくありません。この親子にはひどい目にあわされましたから、、」と言って、ここでは各自で見学になった。

次の部屋、李登輝、陳水扁の部屋に行くと、「こっちの部屋は空気が違うでしょ」といっていた。そして、李登輝時代から、別の国のようになった、という感想も話されていた。

このほか、総統への各国首脳から台湾訪問時のお土産の部屋があった。台湾と国交を持っている国は、太平洋の小さな島の国やアフリカ、中米の国がほとんどで、26カ国だという。そのためか、贈り物の多くが、アフリカや太平洋の島らしい工芸品などが多かった。日本は国交をもたないが、石原都知事からのお土産が展示されていた。そして、ガイドは、日本の政治家の中では、石原都知事が台湾のことを一番思ってくれていると言っていた。

最後に、総統府グッズを売っている売店があり驚いた。総統府マーク入りのTシャツなどもあった。しかし、高かった。

「憲兵」と書かれたヘルメットをかぶった兵隊の人形のついたキーホルダーもあった。実は、ガイドは、「憲兵」という言葉を連発していた。あまりにも説明が長かったので、早く出たい人がいたとき、自由行動はできなので、憲兵を呼んできます、と言ったり、今日は2階に憲兵の姿が見えないので総統がいないのだろう、とか言っていた。「憲兵」はもともと日本語であり、しかも警察権を持った怖い兵隊のイメージを持つ言葉である。しかし、キーホルダーを見たり、ガイドの言い方を聞いていたりすると、意味は同じでも、台湾では、怖いイメージはもたれていないようだと感じた。

結局、9時すぎに入場して、退出したのが11時前だった。大変充実した時間だった。

見学は裏口からの入場だったが、正面にも行って一枚撮影した。

滞在できる時間はあと1時間あまり。最後に西門町を歩いてみた。若者の町ということだったが、昼前であるためか人出は多くなかった。

繁華街の一角にあった天后宮にいった。中国ぽいきらびやかな寺院である。

最後の食事は、阿宗麺線。立ち食い専門店である。細い麺にとろみのあるスープがかかっている。たいへん熱くて食べるのにとても時間がかかってしまった。もう一軒、ほかの店に入ろうと思ったが、そんな時間もなくなった。

台北車站の駅前の新光三越で土産を買い、すぐに国光客運の乗場へ。しばらく待って、中正機場(空港)行きのバス発車。

一眠りして起きたらバスが止まっていた。ほかの客が降りかけていたので、第1ターミナルに着いたようだ。45分の乗車で到着した。前々日に到着したときは60分かかったので、そのつもりをしていたが45分でついたので予想外だった。

あとは、特に何もなく帰国。機内食はビーフシチューをチョイス。少し居眠りしていたら、あっという間に関西空港に到着した。

 

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