灼熱のウズベキスタンを行く(6)

【レギストラーツィアでひと騒動】

 ブハラでの2泊目も夜が明け、今回の旅行のメインであるサマルカンドへ向かう日がやってきた。6時に起きて、シャワーを浴びたり、朝食がわりにお菓子を食べたり、隣室のイタリア人に手紙を書いたりしていたら、あっという間に7時。早くサマルカンドに着きたいので、すぐに部屋を出る。

 イタリア人はすでに出発していて、手紙は無駄になってしまった。このあと、大変重要な仕事が残っている。レギストラーツィア(外国人登録)の紙をもらうことだ。

 ウズベキスタンでは、旧ソ連時代のなごりのような制度があって、外国人は宿泊をしたホテルでレギストラーツィアの紙をもらわなければならないのだ。その紙には、ホテル名などがゴム印でおしてあって、手書きで、宿泊者名、パスポート番号、宿泊日が記入されるのだ。

 ガイドブックには、この紙がなかったばかりに、出国の際に詰問されたあげく罰金をとられたとかいう話が書いてある。どんなことがあってももらわなければならないのだ。普通は黙っていても渡してくれるようで、タシケントホテルではチェックイン時にもらえたし、ヒワのホテルアルカンチでも1泊目があけたころにもらっていた。

 このホテルでも、着いた日に、各階つきのおばさんがパスポートを集めたのはレギストラーツィア作成のためだろう。ところが、パスポートは返してもらったものの、レギストラーツィアの紙は、まだもらっていない。

 それで、おばさんの部屋に行ってみたが誰もいない。で、やむを得ずフロントで頼んでみることにした。玄関を入ったところにある、フロント用のボックスは無人。だが、その横のソファーで、年配の女性が横たわっていた。

 眠ってはいなかったようなので、まず部屋の鍵を返す。横になりながら、面倒臭そうに手をのばして受け取ってくれた。次にレギストラーツィアと言うと、横になったままで手をあげて上を差した。その階の担当者にもらえ、ということを言っているのだ。ホテルの従業員の態度としてなっていないと思い、不愉快きわまりなかったが、仕方ないので、階段をまた上って3階へ。

 再度3階の担当であるあばさんの部屋へ行くが、やはり無人。しかし、ここはどうしてもレギストラーツィアの紙をもらわなければならない。じっとがまんして待つこと10分。

 ようやくおばさんがやってきたが、着いた日のおばさんとは別人であった。話がややこしくなるのでは、と心配したが、案の定、見つからないのだ。いつこのホテルに来たのか聞かれて、パスポートも見せるように言われた。すると、ノートには自分の名前などが書かれていて、レギストラーツィアも発行したということになっていた。

 きっと、着いた日のおばさんは、イタリア人と同一のグループだと考えて、自分のレギストラーツィアをイタリア人に渡したのだろう。イタリア人とその後会うことはなく、イタリア人と共に、自分のレギストラーツィアも去ってしまっていたのに違いない。どうしても再発行してもらわないと、あとで困る。

 言葉が通じない場面でこんなことがおこると悲しいのものがある。英語は通用しないのだが、黙っていては何もしてもらえないので、大声でどなるように英語を張り上げ、同時におおげさなジェスチャーを交える。相手は、すでに発行しているので再発行はできない、なんて言っているのに違いない。机をたたいたり、わざと廊下にも響き渡るような大声を出した。

 そして、そばにあった紙を指差して、ゴム印を押し、書き込みをするようにジェスチャーをおこなう。ようやく、わかってくれたようなのだが、今度は、下つまりフロントへ行かないとダメだと言っているようなのだ。

 フロントのところでは、さきほどの女性がまだソファーで横たわっていた。ジェスチャーで、上へいったけれども、下へ行けと言われたというようなことをわからせるのはたいへんだった。女性は別のところにいた男性を連れてきた。結局、この男性にパスポートを見せ、必要事項の記入されたレギストラーツィアを再発行させることにようやく成功した。

 部屋を出てから、レギストラーツィアの紙を受け取るために1時間を要しすでに8時を回っていた。朝から大変な目にあったが、難問を解決した達成感も感じた。


【ブハラのバスターミナルにて】

 レギストラーツィアでひともめしたため、早朝出発の予定が8時を回ってしまった。サマルカンドへはタクシーで行こうと思う。当初は路線バスの予定であったが、ウルゲンチからブハラまで、あまりの暑さと予想以上に時間がかかってしまったため、タクシーがあればタクシーで行き、適当なタクシーが見つからなければ、路線バスに乗ることにした。とりあえずは、バスターミナルまでタクシーに乗らねばならない。

 ホテルを出てしばらく歩くがタクシーは走っていない。1kmくらい歩き、オールドブハラホテルのあたりまでやってきた。オールドブハラホテルにもタクシーは止まっていない。しばらく道路脇に立ち尽くすこと約10分。ようやくタクシーをつかまえることができた。ところが、運転手は「バスターミナル」という英語を知らない。あわててロシア語の「アフタヴァグザル」と言いなおす。

 4kmをあっという間に快走し、すぐにバスターミナル着。タクシーの車窓からは、道を歩く人をほとんど見かけなかったのだが、バスターミナルは人が多い。サマルカンドやタシケントに向かう人たちだろう。300cym(約90円)払ってタクシーを降りる。タクシーのトラックから、荷物を取り出そうとしていたら、まだ荷物を出していないうちから、男が声をかけてきた。

 「サマルカンド? タクシー?」 渡りに船とは、まさにこんなことをいうのだろう。しかし、値段が心配だ。ボラれてしまってはたまったものじゃない。英語のあまり通じない国で、英語で話かけられたら要注意というのが、旅の定石である。そのためタクシーではなくて、路線バスに乗るつもりをしているふりをしたのだ。

 「サマルカンドへ行くんだ。でも、バスに乗るよ。お金があまりないんだ。」「バスなら安い。でも、暑いよ。それに、今からじゃ着くのは日が暮れてからになっちゃうよ。」 ガイドブックによると路線バスだと466cym(約140円)で行ける。多少値上がりしているかもしれないが、200円くらいだろう。

 サマルカンドまでの所要時間はガイドブックによれば6時間。次のサマルカンド行きのバスは、ガイドブック通りだとしたら9時30分発だから、サマルカンドには15時30分着。でも、ウルゲンチ・ブハラ間は、8時間のところを11時間30分かかったのだ。やはり、8時間を見ておいたほうがいいだろう。すると、17時30分着くらいか。日が暮れるかどうかは別にして、男の言っていることもウソではないだろう。

 「で、サマルカンンドまでいくら?」「$20ポッキリ」 こりゃどうも疑わしい。本当に$20(約2400円)で行ってくれるのだろうか。ヒワのホテルで話した日本人は、450kmあるブハラ・ヒワ間がタクシーで$50だと言っていた。ブハラ・サマルカンド間は、273kmである。$20は安すぎると思った。

 「本当に$20か」「もちろん」「$20は払うが、それ以上は全く払わないよ」「OK」「オール込みで$20か」「その通り」 まだ疑いは残るが、声をかけてきたタクシーでサマルカンドに向かうことにした。

 「じゃ、乗っていくよ」「あの車に乗れ」 すぐ近くに止めてあった乗る。 「先払いだ」「$20払う。でも、あとで何も払わないよ」「今払えば、あとで払わなくてもいい」「本当に$20だけだな」「もちろん」 あとで何か言われる可能性もあったが$20を先払い。金を受け取ると、車は動きだす。このまま出発かと思ったのであるが、違うのであった。ほんの50mくらいだけ移動したあと、別の車に乗りかえるように言われる。別の車には運転手が乗っていて、今まで交渉してきた男は何かをその運転手に伝えた。先払いさせられた訳もわかった。

 「本当に$20だけだな」「その通り」「この人には払わないよ」
「OK」「降りるときには払わないよ」「OK」 交渉してきた男は、外国人相手の仲介役なのだろうか。運転手は$20のうちどれだけをもらうのだろうか。運転手の報酬が少なければ、降りるときに、またいくらか払えとか言われるのではないかという不安をいだきつつ、タクシーでブハラをあとにした。

【タクシーでサマルカンドへ】

 9時前にブハラを出発。あっという間に市外に出て、広大な畑の中を突っ走る。時々通過する小さな町をのぞいて、道の両側に家屋はほとんど見られない。一般の道路なのだが、100km近いスピードを出す。見とおしが良く、直線状になっている部分が多い道路なので、自然とスピードがでてしまうようだ。走っている自動車はさほど多くないが、時々のろのろと走るバスやトラックを追いぬいていって、実に爽快である。

 もっとも、自動車専用道路ではないから、突然、歩行者が横断したり、猛スピードで走る車のそばを馬車が走っていて、危ないなあと思うこともしばしばあった。なぜか牛が道路の真中近くを歩いているということもあった。そばに人間はいないのに、牛だけが悠然と歩いていたのだ。

 このタクシー、エアコンはついていない。だが、当然のことながら、窓を全開にして風を入れることができる。先日のバスの場合をおおいに違っていて、快適とまでは言わないが、汗があふれ出すをいうことはない。ところどころに、工事区間があったりして、その区間では窓を閉じるのだが、やはり窓を閉じるとすぐに汗ばんでくる。

 運転手には英語はまったく通じない。少し話しかけてはみたのであるが、ノーイングリッシュといわれただけだ。バスターミナルで外国人客を仲介する男が出現したのもよくわかる。

 道路沿いに、建物の残骸があった。相当古そうな感じで、有名な遺跡であるのかもしれない。小さなアーチ状になっている廃墟で、ミニ凱旋門といったようなものだ。建物の残骸の周囲は荒地のようになっていて、かなり大きな建物群があったのかもしれない。指差して、ワンダフルとかいって、運転手の注意を引いてみたが、何なのか知らないようだった。

 乾燥地帯の町々に水を供給するパイプラインを見ることもできた。道路の頭上をパイプラインが越えている個所があったのだ。パイプはかなり太くて、直径が2mくらいあって、その太さのパイプが数本、束になっていて、さらにその束が2つある。オアシス都市の命綱となっているのだろう。国中のいたるところに、水のパイプライン網が張りめぐらされているのかもしれない。

 ところどころに検問所もあったのだが、車を停車させられることはなく進む。だが、検問を受けていた車もあった。検問所が近づいてくると、標識があって、スピードを落さなければならないようだ。また検問所の直前の部分だけは、部分的に渋滞していて、見張り役の兵隊は、怪しいと思われる車だけにストップを命じているのかもしれない。バスでブハラに入る際に、厳重に調べられたのとは大きな違いであった。

 サマルカンドが近づいてくると、道路は直線状のまま、丘陵地帯を走る区間が長く続いた。車の前方、1kmくらいが、なだらかな丘陵になっていて、走る車の姿がよくわかるのだ。丘陵の頂上まで達すると今度は下り坂で、これまた見とおしが良い。こうした区間が延々と続くのだ。走る車が少ないといっても、前方をはっきり見とおせると、結構、通行する車が多いものだと感じる。この光景には、アメリカ的な風景だという印象を持った。

 しばらく丘陵が続いたあと、次第に家屋が多くなってきて、いよいよサマルカンドに入ってきたようだ。今回の旅行で最も期待している都市である。さすがに、ウズベキスタン第2の大きな都市だけあって、家屋がめだってきても、なかなか町の中心部には近づけない。

 道を歩く人の数もブハラよりはずっと多い。車も多くて、道路幅の狭いこともあって、ところどころではなかなか走れない区間もある。道路沿いには商店がたくさんならんでいる。道路沿いの家屋のつくりを見ていても、土色がほとんどであったブハラの家屋に比べてみて、いろいろな色が見られ、住む人も豊かな感じを受けた。ブハラよりも、ずっと華やかだというのが、サマルカンドの第一印象であった。

 目的地のザラフシャンホテルを運転手は知らなかったみたいで2、3回、道端を行く人に聞いてようやく到着。13時前であった。約270kmを4時間で走ってきたのだ。バスならこの倍くらいかかっていただろうから多いに満足した。心配していた追加料金の請求もなくホッとして、タクシーを降りた。


【サマルカンドホテルに到着】

 ザラフシャンホテル、ブハラで泊まったホテルと同名だが、人通りの多い道路に面した2階建てで、余り大きくない。ガイドブックによると、一泊2800cym(約840円)であるが、その値段にしてはかなり清潔で明るい印象を受け、ブハラのホテルよりはレベルが上と一見してわかる。ザラフシャンという名は、サマルカンドの近くを流れる、アムダリア川の支流の名だ。

 フロントにいた女性に、英語で今日泊まることができるか、と尋ねてみたのだが、どうも満室らしい。英語が通じなくても、ホテルのフロントへ荷物をかかえて入ってきたら、泊まりたいからきているのにほぼ間違いないから、値段の説明をしたり、名前を書かせたりするのが普通だ。そうしないところをみると、泊まれないのだろう。

 ここはあきらめて、次に、サマルカンドホテルをめざすことにした。ザラフシャンホテルからは、1.5kmほど離れている。タクシーで行っても安いのはもうわかっているのだが、町の様子を見たりしながら歩くのは楽しいので歩いてみた。

 道路に沿って街路樹が植わっているので、その影になるようにして歩く。それでも汗がどんどん出て1.5kmは遠い。荷物を背負って歩く身にはこたえる暑さだ。とはいってもヒワやブハラよりは少しは気温が低めの感じだから35度くらいなのだろう。

 道端でジュース屋があちこちに店を出しているのはブハラと同様だ。ジュース屋を見るたびに飲みたくなるのをこらえて、一回だけにしておく。なにしろ依然として腹具合が良好といえる状態ではないからだ。

 車が多くて横断歩道以外で道路を渡るのには注意を要する。さすがに馬車や荷車は見かけない。道を歩いている人も多い。その服装も、ヒワやブハラよりも都会的な感じで、タシケントに似ている。欧米文化がどんどん入ってきて、若者のなかに浸透している様子がうかがえる。一方、年配の女性の民族衣装姿も目立ち、原色の花柄が鮮やかである。

 ようやくサマルカンドホテル到着。高層ビルの少ない都市にあって、ひときわ目立つ建物だ。玄関をはいると大きなロビーが広がって中級ホテルのことだけはある。それでも電灯は消してあるのでうす暗い感じだ。

 フロントでは英語が通用した。一泊$42(約5040円)、3泊するつもりだが、最終日は次の都市への移動の都合上、早朝の出発になるかもしれないので、朝食抜きとした。朝食は$5ということで、$121を先払いする。

 また、明後日には、シャフリサブスへ行きたいので、タクシーの予約も頼んでおく。シャフリサブス往復で$50ということだ。シャフリサブス往復とブハラからサマルカンドはほぼ同じ距離であるので、高い感じもしたが、他のところでタクシーを捜すのも面倒なので、$50でOKした。

 このホテルもまた旧ソ連方式をとっていて、フロントで渡されたレシートを持って部屋のある階へ行き、その階担当のおばさんから鍵を受け取るようだ。レギストラーツィアはフロントで発行するみたいで、パスポートを預ける。

 指定の階へ行くと連絡がいっていたのかおばさんが待ち構えていて、部屋に案内された。今まで泊まったホテルの中では最高である。清潔であるのがなによりで、7階であったので見はらしがとても良い。もっとも行ってみたいレギスタンらしきものの一番上も見える。だが、期待していたエアコンと冷蔵庫がなかったのにはがっかりであった。トイレも清潔で良かったが、シャワーのみでバスはなかった。

 ふかふかのベッドに横になって、まずは身体を休める。この旅行ではじめての心地よいベッドだ。小一時間休み、まずはレギスタンに行ってみることにした。

 おばさんから、出かけるたびに鍵を渡すように言われたので、面倒だが渡してからでかける。フロントに立ち寄ると、パスポートを返し、レギストラーツィアの紙もくれた。明後日のタクシーの予約もできたということで、サマルカンドでの行動はスムーズにいきそうである。


【レギスタン】

 サマルカンドホテルから歩くこと約20分。レギスタン広場に到着。レギスタンとは砂の広場という意味である。中央にある大きな広場を取り囲んで、3つのマドラサ(神学校)が、左右と正面に陣取っている。

 そしてひとつの側だけが建物がなく、そこから3つの壮大なマドラサをながめることができるのだ。それぞれのマドラサには、玄関の横のほうに2つづつのミナレットが建っているのだが、それぞれの玄関にあたるアーチがあまりにも巨大であるので、ミナレットが目立たなくなっている。

 向かって左側にあるウルグベクのマドラサがもっとも古くて14世紀の建造。ウルグベクはティムールの孫であり、学者としても活躍した。向かって右側のシールダールのマドラサ、正面のテッィラカーリのマドラサは、チムール王国が滅亡したあと、17世紀の建造であるが、見た目には同じような巨大な建造物が並んでいるように見える。

 レギスタン広場全体の入口は、向かって右側のシールダール・マドラサのそばにある。入場料150cymとカメラ持ちこみ料100cym、あわせて250cym(約75円)を支払うと、書きこみ式のザラ半紙の入場券にいろいろ書きこんで、カメラ持ち込み料込みの入場券が発行された。



 まず、シールダールのマドラサに入る。このマドラサの玄関のアーチには、ライオンが描かれていて、イスラム教で禁じられている偶像崇拝にあたるとして、建造当時批判され、そのために、あらためてテッラカーリのマドラサを建てなければならなくなったという。

 玄関のアーチの中に入ると中庭があるが、中庭を取り囲んで土産物屋が並んでいる。マドラサの一階の部屋を見て歩くといことは、土産物屋を見て歩くことと同じだ。手作りだという置物、民族衣装そしてじゅうたんなどをゆっくり見て歩く。あまりにも暑いので、土産物屋の店員も商売には熱心ではなく、あまり近寄ってこないので、ゆっくりと土産物を見ることができた。サマルカンドは少し長く滞在したいと思っているので、どんな品物があるのかということだけを見て回った。

 続いて、テッラカーリのマドラサに入る。ここには、天井の一面に金箔がほどこされている部屋があった。最初は暗くてよくわからなかったのであるが、じっと見ていたらライトを照らしてくれた。金箔をほどこしてあるだけではなく、金箔を使って美しい模様を描いているのだ。この天井、ドーム状になっているように見えたのだが、ガイドブックを読むと、実は平面であるのだが、遠近法をうまく取り入れた結果、ドーム状に見えているのだという。





 このマドラサも中庭があり、内部の部屋を使って博物館もあるらしいのだが、残念ながら、大規模な補修工事をやっていて、中をあまり見ることはできなかった。

 最後に、ウルグベクのマドラサに入る。巨大なアーチを通って中に入ると、ここにも中庭があって、土産物屋が中庭を取り囲んでいる。かつては建物を取り囲む回廊で授業がおこなわれたらしいのだが、今は土産物屋の軒先となっているのだ。ヒワやブハラでもいくつかマドラサを見てきたが、マドラサの構造はどこも同じようなものである。



 かなり疲れがでてきたので、ひと休みして、かつて行われていた授業のようすなどを想像してみたりしていると、これ以上歩くたくなってきて、半時間くらいの長い休憩。レギスタンはこの国で最大のみどころであるので、シーズンだと観光客であふれかえるのだろうが、訪問した頃は暑さのため敬遠されているらしく落ち着いて見学することができた。

 3つのマドラサを見て、石畳の広場に出る。建物の建っていないひとつの側には、特設の階段状の観覧席が設けられている。ガイドブックによると、夏の夜には、この広場で音と光のショーがおこなわれるということなので、その観覧席なのであろう。

 出口から広場をあとにすると、小さな噴水がある。そこで子どもたちが水遊びをしていた。子どもたちを見ていたら、カメラ、カメラといって、写真をとることをせがんでくる。何枚かとってあげるとそれだけで満足したようだ。


【航空会社にて】

 レギスタンからタクシーでウズベキスタン航空の事務所へ向かう。だが、市内のどこに事務所があるのか、ガイドブックにも書いていないので雲をつかむような話しだ。運転手には英語は通じない。「ウズベキスタンエアウェイズ」では、何のことかわからす、「アエロポルト」とか聞き返される。空港に連れて行かれては困るので、「アエロカッサ、ニェットアエロポルト」と言ってみて、ようやく通じたようだ。

 地図を見ながら助手席に乗っていたのだが、すぐにどこをどう通ったのかわからなくなってしまった。10分ほどで着いて、400cymを支払う。その時に、ガイドブックの地図を見せて、ここはどこなのか尋ねてみたのだが、よくわからないようだ。ウズベク語の表記もしてあるのだが、地図の見方がよくわからなかったのか、その場所が地図の枠外であったのかであろう。

 入口には営業時間は17時までと書いてある。すでに17時を少し過ぎてしまっていたのだ。しかし中に入ると、まだ行列ができていて、営業中であった。いくつかのカウンターがあって、すいているカウンターでしばらく並んで、「3日後に、タシケント経由でフェルガナまで」と行ってみるが、あっちのカウンターに行くように指差される。カウンターによって扱う仕事が違っていたのか、英語の客が面倒と思われたのか、どちらかであろうが、しばらく並んでいたので、いい気分ではない。

 指差されたカウンターに行ってみたが、英語が通じないのでひと苦労。サマルカンドからフェルガナへは直行便がないので、タシケントで乗り換えなければならないのは承知している。だが、フェルガナへの便はない、などとわかっていることを繰り返している。こうなれば、筆談に頼るのが定石である。字を書くようなジェスチャーをして、紙とボールペンをもらって、「8/7 Samarkand → Tashkent → Fergana 」と書いて渡す。ようやくわかってもらえたようだ。

 どうも、サマルカンド・タシケント間は乗れるのだが、タシケント・フェルガナ間が満席ということのようなのだ。では、その次の日はどうか、と尋ねてみる。4日後ならば、空席があるようなのだ。で、フライトスケジュールを尋ねてみる。すると、何と、タシケントで8時間も待たなければならないのだという。

 タシケントからフェルガナへの便で、もっと早く乗れる便はないのかと尋ねると、タシケント発フェルガナ行きの時刻をいくつか書いてくれた。その中には、サマルカンドで1時間待ちで乗れる便もあった。で、これに乗りたいと言ったのだが、これはだめだ、ということらしい。

 なぜだめなのか、この便に乗りたいのだ、8時間待ちは長すぎる、などとと言ってみたのだが、果たしてどれだけ通じていたのかわからない。そして、とうとう、翌日の10時にもう一度来るようにと言われる。このときは、ややこしい客が閉店間際になって飛び込んできて、閉店時間がとっくにすんでいるのに粘っているので追い出されたのかと思った。(実際は英語のわかる職員に話しをさせるためであった。)

 仕方がないので、運賃はいくらかということを書いてもらって、この日は事務所をあとにすることにした。すでに他のカウンターは電灯も消され職員の姿もなく、残っている客は誰もいなくなっていた。

 航空会社で頭に血がのぼったこともあって疲れがどっと出る。当初、夕食はバザールの近くにかたまっているという屋外レストランでとる予定をしていたのだが、サマルカンドにはしばらく滞在するので、この日は、サマルカンドホテルのそばの屋外カフェで食べることにした。

 タクシーでサマルカンドホテルへ戻る。そばの屋外カフェに入ってみるが、料理の種類が少なく、シシャリクすらやっていない。ポテトチップ、ソーセージ、ボルシチ風シチューなどがあるだけだ。しかし、再びタクシーに乗って、バザールまで出かける元気はないので、何品か注文。ビールは置いていないというので、コーラを飲みながらの食事。

 さっさと食事をして、ガスなしのミネラルウォーターを買って、ホテルに戻る。部屋のそばまでいっても、鍵をおばさんにもらわないと中には入れない。面倒だ。部屋に戻ると19時。翌日、ゆっくり夕食を楽しむことにして、この日は早い目に休むことにした。


【ウズベキスタンテレビ】

 ホテルにもどり、シャワーを浴びて、この国へきてはじめてテレビを見る。テレビの横に書いてある説明によると衛星放送も受信できるようなのだが、スイッテを入れてみると、なぜかウズベク語のチャンネルがいくつか映るだけ。

 数少ない現地のテレビ放送のチャンネルを回すが、映画を途中から見ても訳がわからないので、ニュースを見る。ウズベキスタンテレビだ。カリモフ大統領がでていたので、今しがたニュースが始まったばかりかと思ったのであるが、どうもそうではない。

 ニュースを見始めてから、2、30分たとうとしているのに、依然としてカリモフ大統領関連のニュースが続いている。工場訪問、病院訪問、学校訪問と、大統領が訪れたところをつぎつぎと映し出し、その都度、大統領のおこなった発言をあますところなく放映しているのだ。

 おそらくソ連時代には、スターリンはじめ、その時々の権力者の行動を延々と放送していたのに違いないと思うのだが、いまだにそのようなニュース番組の作り方を続けているのだ。ロシアの場合には、テレビ番組が昔と様変わりしているという話題を、日本のテレビで見たことがある。かつてのように権力者を礼賛する番組は姿を消し、放送局によって主張がかなり違っていたりするらしい。だが、同じ旧ソ連でも、ウズベキスタンにあっては、昔ながらのテレビ番組を作り続けているようだ。

 大統領が学校を訪問して、この国ではまだ数少ないであろうコンピュータ教室で勉強している生徒に、よく勉強しているかとか、将来は何をしたいのかなどと質問しているありさまが10分ほど続き、そのあと別の場所の訪問の様子がまた10分ほど続くのだ。日本でもたまには首相が地方を訪問して訪れた先が紹介されることがあるが、たいていはワンカットである。

 このようなテレビ番組をじっと見ていることができたわけではない。今後のスケジュールを考えながら、時々画面を見るというような見方だった。

 出発前にたてていた計画では、サマルカンドからフェルガナへの移動には夜行列車を使う予定であった。サマルカンドからフェルガナへは、鉄道、道路とも平地を通っている。かつては、このルートが2都市間の移動に一般的に使われていた。しかし、このルートは途中で、タジキスタン領を通るのだ。

 そのため、現在はバスはなく、鉄道の場合もわすかな夜行列車があるだけなのだ。地元の人でも、この区間の移動は、飛行機や自動車でタシケント経由にする人が多いらしい。ただし、タシケント経由にすると、三角形の二辺を通るようなもので距離が倍になり、しかもタシケント・フェルガナ間は山地を通るので、自動車の場合は時間がかなりかかるのだ。

 タジキスタンを通るというので、これは是非乗ってみたいものだと思っていた。タジキスタンでは内戦が一応は停戦しているものの、かなり危険な状態が続いているらしいが、危険なのは南部のほうで、北部はさほどでもないようだ。で、タジキスタン北部を通る列車に是非乗ってみたいと考えていたのだ。通過するだけなら、タジキスタンのビザはいらない。むしろ、出発前に心配だったのは、この国の列車は、非冷房なのはもちろん、出発前まで炎天下に放置されているので、暑さが言葉では言い表せないくらいだということを、この地を旅した人の旅行記で読んだからだ。

 で、ウルゲンチからブハラへのバスで、ひどい暑さのため参ってしまったあとは、熱地獄列車はごめんとばかりに、飛行機に変更したのだ。腹具合がよくないことや、ヒワであった人から飛行機代もたいして高くないということを聞いていたこともあった。

 だが、ウズベキスタン航空の事務所へいったところ、3日後の席はなく、4日後の席しかなく、しかもタシケントでの待ち時間が異常に長い、ということで列車の利用が再浮上してきたのだ。

 列車なら、タジキスタン領を通れるけれども、万が一の危険の心配も多少あり、予想される灼熱地獄とトイレの心配がある。飛行機なら、短時間で移動できるとはいっても、移動の日は待ち時間のため一日つぶれてしまう。

 かなり考えて、やはり、4日後に飛行機で移動することにした。そうこう考えている間に、テレビや電灯をつけたまま寝てしまっていた。夜中に起きたときにはテレビ放送はすでに終了していた。