灼熱のウズベキスタンを行く(9)

【サマルカンドの学生との出会い】

 サマルカンドホテルで3回目の朝を迎える。窓からは遠くにレギスタンの上部も見えるが、このサマルカンド市街の眺望も見納めかもしれない。この日は、サマルカンドホテルから少し離れたところにあるアフラシャブホテルに移動するのだ。こちらのホテルは余り高くないから眺めが良くないかもしれない。

 この朝は、サマルカンドホテルにチェックインしたときに朝食を抜いてもらっている。なぜなら、早朝から空港へ行かなければならなかったかもしれないからだ。でも、結局は、一日余計にサマルカンドに滞在することになり、一日だけホテルを替わることにした。なぜホテルを替わるのかといえば、快適さを求めてである。

 前夜のうちに荷物の整理はしてある。朝食はとらないから、起きてシャワーののち、すぐに出発。部屋の鍵は、この階の担当のおばさんに渡す。そのためフロントに立ち寄る必要もなく、そのまま玄関から外に出る。まだ8時であるが、すでに気温は相当高くなっているようで、あっという間に汗だくになる。

 10分ほど歩いて、アフラシャブホテルに到着。まだ新しいホテルで、オープンしてから2、3年しかたっていないようだ。すぐにフロントで今日泊まれるか尋ねると、泊まれるとのことだ。何時から部屋が使えるか聞くと、今から使えるとのことだが、よく聞いてみると、12時までの利用には半日分の料金が必要と言われ、昼から使うことにする。

 12時にホテルに戻ってきてチェックインすることにして、それまでの間、荷物を預かってもらうことにした。そして、昼まで観光に出かける。まずは、レギスタン広場にもう一度行くことにした。もう一度、広場を取り囲む壮大な建造物群を眺めてみたいし、中にある土産物屋で買物もしてみたい。先日、土産物屋の下見はしてあるので、買うだけだ。

 アフラシャブホテルからレギスタン広場までは10分ほどで行ける距離だが、歩くには暑すぎる。汗をふきながら歩いていると、急ぎ足で後ろを追ってきた若い男が呼びかける。英語で「英語はわかりますか。日本からきたのですか。サマルカンドはいいですか。」と聞いてくる。

 若い男は、サマルカンド大学の学生で、東洋文化を学んでいて、日本にも関心があるという。日本語はわからないが、サマルカンド大学でも日本語の教育はおこなわれていて、人気があるということである。

 また、英語の教育はどんどん進んでいて、かつてのロシア語の座をいまや英語がとってかわろうとしているということだ。学生にかぎっていえば、英語はかなりわかる人が多いらしい。この国へきて以来、英語の通用度の低さについては、びっくりしどうしであったのだが、このような状況もどんどん変わって行くことになるのであろう。

 どこへ行くのか聞かれたので、レギスタンと答えると、男もレギスタンへ行くのだという。なぜかというと、2週間後に、レギスタン広場を舞台にして国際音楽祭が開かれるのだが、彼もそのスタッフをしているのだということだ。今日は、リハーサルが行われているので、自分もその仕事をするために、レギスタンへ行くところであるという。

 これは、民間レベルの交流ではなくて、政府があと押しして開かれる国家的行事であるとのこと。そして、日本の企業が資金的にバックアップしていて、音響とか舞台装置とかも日本の専門家が多く参加しているという。参加する国はたくさんあるのだが、その中で日本の役割は特に大きいとのことだ。

 話をしながら歩いていると、暑さもさほど気にならずに、レギスタン広場に到着した。


【音楽祭リハーサルのレギスタン】

 レギスタン広場からは、何と「さくらさくら」のメロディーが聞こえてきた。日本が大きな役割を果たしているという国際音楽祭だけのことはある。ウズベキスタンの人たちは、このメロディーをどのように感じているのだろうか。

 広場に到着したが、広場の中は見えなくなってしまっていた。というのは、この広場を取り囲むようにして、3つのマドラサが建っているので、何も建物がないのは、広場周囲にある4つの辺のうち1つの辺だけなのであるが、その一つの辺に、大きな仮設スタンドが出来ていたからだ。スタンドのないグラウンドでスポーツ大会が開かれるときなどに利用される、階段状になっている組立式のスタンドが何もない辺に沿って設置されていたのだ。

 広場の中では、大勢の人たちが民族衣装を着用してダンスをしていた。伝統的なダンスなのかもしれないが、自分が見ると、どうもフォークダンス風である。次から次に流れてくる音楽に合わせていろいろなダンスをしているのかもしれない。先ほどの「さくらさくら」にあわせてはどんなダンスをしていたのだろうか、見たかったものだ。日本風の踊りを踊るんだろうか。テンポが遅いので、ほかのダンスはやりにくいだろう。

 さて、先日、訪問したときに入場券を買ったところが今日は閉まっている。音楽祭のリハーサルのため、この日は臨時に入場をさせないでいるのかもしれない。一緒にいる学生が、自分と一緒に入ればよいと合図してくれたので、彼にくっついて中に入る。その際には、彼は。スタッフのパスのようなものを提示させられたのであるが、自分は彼の同伴者みたいな格好になって、何も見せずに入場することができた。しかも無料で。

 一番手前にある、シールダールのマドラサの門をくぐる。何と、の中では土産物屋のほとんどが店を開いていたのだった。この日は、一般の観光客が入場できないような状態だったのでまさか土産物屋が店を開けているとは思わなかった。音楽祭のリハサールに参加している人向けに営業しているのか。それとも、店の人たちは、一般の観光客が入場できないということを知らずにいるのであろうか。

 先日、訪問したときに、いくつかの土産物屋で品物を良く見ておいたから、この日は買い求めることにした。学生は、品物の説明もしてくれた。通訳の役目もしてくれて大助かり。値段は、先日確かめたときと同じで、学生と一緒にいるからといって、特に安くなってはいない。いくらかの値引き交渉をするが、学生の力で特別安くなったりはしない。

 土を固めて焼いて作ったた人形、大胆な花柄のスカーフ、現地の男性のほとんどの人たちがかぶっている角型帽子など、何点かを購入する。

 学生は、これから国際音楽祭スタッフとしての仕事があるので、つきあうことができないとのこと。出会った記念にと、彼は、ソ連時代のコイン、ウズベキスタンが独立した直後に発行された紙幣をくれた。自分は代わりに彼に贈るような品物を何も持っていなかったので、ありがとう、音楽祭が成功するといいですね、ということしかできなかった。彼は、シールダール・マドラサの一室へと消えていった。

 学生と別れたあと、再び、ティッラカーリのマドラサ、ウグルベクのマドラサにも入る。これらのところでも、やはり土産物屋などがほとんど開いている。観光客がはいってこない以上、売上がほとんどないような状態になっているのかもしれないが、リハーサル参加者のなかには、遠方からやってきている人もいて、そうした人向けに土産物を売っているのかもしれない。

 広場では、延々とダンスのリハーサルが続いている。全体で300人くらいが踊っている。しばらくは、ダンスを見学する。ほかの観光客は入っていないので、この行事のスタッフになった気分だ。

 しばらく見てからレギスタン広場をあとにすることにした。学生との交流ができてレギスタンの印象がより強いものになった。


【サマルカンドのバザール】

 サナルカンド市街地からアフラシャブの丘に入るところに、サマルカンドで最大のバザール、シャブスキーバザールがある。レギスタンをあとにして、バザールへの道を汗をぬぐいながら歩いた。レギスタンからこのバザールまでの間は、この町で一番の繁華街らしく歩行者天国になっていた。

 周辺の町からも自動車でやってくる人々が多く、バザールの回りは大混雑である。バザールにやってくる人たちの顔つきを見ていると、この国はいろいろな民族からなる多民族国家であることがよくわかる。圧倒的にウズベク人が多いのであるが、ロシア系や朝鮮系の人たちも多い。



 バザールで売っている品物を見ていると、この国の人々の日常生活の片鱗を垣間見ることができる。サマルカンドのナンは有名なのだが、ナンが山積みになっている売場がある。直径が30cmくらいはある大きなものだが、表面はもちろん、内部もかなり硬くて自分の口にはあまり合わなかった。日本には非常食として乾パンなるものがあるが、そこまではいかないが、パンとしては相当硬い。

 バザールの売場全体の中で、一番広い売場面積を占めているのは、青果売場である。なかでも目につくのは、真っ赤なトマト、濃緑と真っ黄のピーマン、積み上げられた状態が壮観なスイカ、日本のとは違ってやや細長い実のブドウなどだ。



 青果が豊富なことで、ここがオアシスなんだということを実感させてくれる。オアシスという言葉を聞き何をイメージするか。多くの日本人にとって、ナツメヤシが立ち並んだ中に涌きでている泉であろう。だが、サマルカンドはオアシス都市ではあるが、オアシスのイメージにはほど遠い。だが、豊富な青果を見て、周囲の砂漠とは違って、ここはやはりオアシスなんだということを思い出させてくれる。



 ここでの買物はキロ単位が基本なのだが、一部の店では、スイカやマクワウリを、カットして一切れいくらといった売り方もしている。スイカを一個買っても食べきれない個人旅行者にとっては、ありがたい売り方だ。水分補給は、街角の屋台で売っている独特のジュースや瓶入りコーラが中心になっているが、果物でできることがありがたい。ホテルに帰ってから食べるために、ブドウを買い求めた。

 肉売場には独特の臭いが漂っている。猛暑の中、肉が傷まないか心配である。中には、ひなたに肉が放置されているような店もある。ここでは、肉は塊で売買されていて、日本のようにスライスされた薄い肉はない。スライスは各家庭ですべき仕事になっている。羊肉が圧倒的に多いが、鶏肉、牛肉も、塊のまま吊られているところもある。注文に応じて、その都度カットぢて売るのだろう。

 魚売場があることにも驚かされた。ビニール製のたらいに水をはって、その中で生きた魚を泳がせているところもある。バザールの前のレストランで食べた魚もここで売られているものだったのだろうか。砂漠のど真ん中の街で、魚を売っているのは意外であった。

 このほか、香辛料売場、民族衣装売場、帽子売場などが見ていても楽しい。乾燥地の生活と聞くと単調な毎日の連続のような気もするのであるが、食生活に限ってみても、ここで売られているさまざまな食材の多さは意外なことである。



 海から遠く離れた地域ならではのものとしては岩塩がある。塩は海水からとるものではなく、岩塩からとるのであるが、ここでは塩に精製される前の岩塩のままでも、売られている。

 買物をする人自身が、袋を持参するのがこの国の習わしである。だが、なかには袋を用意してきていない人も中にはいる。それで、ビニール製の袋も売っている。しかし、そのビニールときたら日本で使っているブニールと比べてかなり薄いもので、袋もいつ破れるのかわからないような代物である。

 意外なものといえば、キムチである。まさかここのバザールにキムチ売場があるなんて思ってもみなかった。ここが韓国であるのかと錯覚するような大規模なキムチ売場。売られているキムチの種類もさまざまで、初めて見るものもある。朝鮮系の人たちが多く住んでいるということを統計資料を使わずに示してくれるような売場である。

 バザールはちょっとのぞいてみるだけのつもりであったが、じっくり見ているとあっという間に時間がたってしまい、すでにホテルに戻る予定の12時をとっくに過ぎていたのであった。



【ビビ・ハニムモスク】

 バザールに隣接して、ビビ・ハニムモスクがある。バザールの珍しいもの探しをしたあとは、かつては中央アジアで最大といわれた建造物の遺跡を見学する。

 バザールで疲れたため、まずはモスクの前の道路の街路樹の木陰で休憩する。そばでは、少年がスイカはいらないかと売りこみに熱心だ。かなり安くするようなことを言っているが、持ち運びにたいへんだし、一人で食べきれないので断る。

 木陰からは、モスクの最上部の巨大な青のドームがよく見える。青はサマルカンドを象徴する色である。

 重い腰をあげて、モスクに入場する。巨大な建造物は、かなりの部分がなくなっていて、空き地のなかに点々と建物があるといった感じである。今は空き地になっているところも、建物であったのであろうが。これが本当に中央アジアで最大であったのか、と思わせる。



 14世紀の初頭、大帝国を築き上げたチムールが、その象徴となるような巨大な建造物を当時の都であったサマルカンドに造って、自らの権力を誇示しようとしたのが、このモスクが造られたきっかけであった。帝国の各地から多数の職人が呼び寄せられ、突貫工事で巨大モスクの建設がおこなわれ、チムール自身も毎日のように、工事現場にやってきて、作業を直接に監督したという。

 だが、工事も終わりかけたころに、チムールは出征地で死んでしまった。その後、モスクは落成した。ところが、完成して間もないころに、モスクで礼拝をしていた信者の上にレンガが落ちてきた。それ以後、あちこちで巨大モスクが崩壊し始めたのであった。崩壊はどんどん進み、また、レンガ落下を恐れて、礼拝に訪れる人もいなくなってしまったという。

 そして、以後600年、巨大モスクは崩壊の一方で、今のような無残な姿をさらけだすようになってしまったのだ。状況が一変したのはソ連崩壊でウズベキスタンで独立した後のことである。ソ連時代にも、多少の修復工事は行われていたのであるがあまり進んではいなかったようだった。

 しかし、独立後、共産主義に代って国民をつなぎとめておくために利用されたのがチムールで、そのチムール生誕660年の記念行事が1996年に実施されたのであるが、それにともなって修復工事により力が入ってきているようだ。

 完成後間もないモスクが崩壊したのは、建設を急ぎすぎたことや、構造そのものに問題があったためらしい。よくあることだが、こんな逸話も残されている。

 チムールの王妃のなかで一番寵愛をうけていたビビ・ハニムが、チムールへの贈り物としてこのモスクを建設したという。工事を急がせたのも、王妃ビビ・ハニムだったという。王妃は毎日のように工事現場にやってきて、指示をしていた。ところが、王妃に恋心を燃やしていた職人がわざと工事を遅らせたため、王妃は職人に工事を急ぐよう頼んだ。職人は、悩む心境を王妃に打ち明け、キスをすることを条件に工事を急ぐといった。

 王妃はその申し出を拒みつづけたが、ついに折れて、キスを許した。ところが、キスの跡がアザになって残ってしまった。都に戻ったチムールは、巨大モスクに驚き、王妃にお礼を述べようとしたが、顔のアザのことを聞き出して、愛は憎悪に変わり、王妃と職人をこのモスクのミナレットから落す死刑に処したとのこと。だが、王妃は衣装がパラシュートのように開いて無事着地して、顔を黒のベールで覆うことで罪を許され、職人は、神通力によってペルシャのほうへ飛んでいくことができたという。


【バザール前でシシャリク】

 12時にホテルに戻ってチェックインしようと思っていたが、レギスタン広場、バザール、ビビ・ハニムモスクとまわって、結構時間がかかり、すでに13時をまわっている。

 遅れついでに、バザール前の屋外レストランで昼食を済ませていくことにした。夕食は、別の地区でとるつもりをしているので、バザールの周辺の雑踏を楽しむのはこれが最後になる。一生ここを訪れることがないかもしれないので、このあたりで昼食をしっかりと楽しんで行くことにする。



 シャブスキー・バザールの入口前には、3軒の屋外レストランが並んでいる。昨日は、そのなかの1軒に入ったので、今日は別の店に入ってみたい。夕方と同様、たくさんの人々で大賑わいのため、空席が少ない。シシャリクを焼いている臭いがたちこめるなか、店の中をのぞいていたら、給仕係の店員が手招きしたので、行ってみる。

 よく見たら、昨日、自席の給仕をしてくれていた店員だった。日本人がひとりで店にやってくることなど滅多にないのだろう。自分をよく覚えていたみたいだ。別の店に行きたかったが、せっかくなので、昨夕と同じ店にすることにした。

 英語で「昨日のシシャリクと魚がとてもおいしかったので、今日も食べに来た」と伝えるが、何も通じていないと思う。空席を探して案内してくれた。

 実際、昨日のシシャリク、魚フライともにおいしかったし、ほかのメニューもあまりないみたいなので、昨夕とまったく同じく、シシャリク、魚フライ、トマトサラダを注文。飲みものは、コカコーラを頼む。

 シシャリクは、昨日は、焼いているそばまで行って指差し注文したのだったが、今日は、「シシャリク ツー、ツー、ツー」と言いながら、2本指を3回出しての注文。なんとかわかってもらえたみたいである。

 昨日と同じく、トマトサラダだけがすぐに運ばれてきたので、先に食べ始めたら、しばらくしてなくなってしまったので、トマトサラダは、もう一皿追加注文する。シシャリク、魚フライともに、注文をうけてからの調理であるので、しばらく待たねばならないのも同じ。

 自分が座っている位置からは、路上を歩く人々、バザールを出入りする人々がよく見える。ひとときの人間ウォッチングを楽しむ。ここでも、多民族国家であることや、民族衣装のバラエティさを感じた。

 ふつうはバザールといえば早朝の賑わいというイメージが強く、昼過ぎになると閑散としてしまうというイメージあるが、ここでは昼過ぎになっても、早朝と同じような賑わいが続いているようだ。ひっきりなしに、多くの人々がバザールに集まってくることから、サマルカンドの都市の人口の多さ、周辺の村を引きつける力の大きさがかなりのものであることがわかる。

 シシャリク、魚フライは、ほぼ同時に運ばれてきた。今日は、昨日と違って、ナイフ、フォークも持ってきてくれた。シシャリクはともかく、魚フライは、手だけで食べるのは、なれない身にはたいへんだ。今日は手が油まみれになることがなく助かった。

 当然のことながら、昨日と同じ味であるが、これがまたおいしいのだ。バザールで仕入れたばかりの新鮮な食材を利用したうえ、目の前で火を通して調理しているので、熱々の料理を食することができる。

 魚の骨をとって食べるのには時間がかかる。少しの魚の身をとるために、たくさんの骨をとらねばならなかったりする。結局、この食事に小一時間かかり昼食が終ったのは14時であった。

【アフラシャブホテル】

 昼食のあと、ホテルに歩いて戻ることにした。40度をこえる暑い中、2キロ近く歩くのは大変だが、今度このオアシス都市にやってこられるのはいつかわからない、もうこないかもしれない、となると歩きたいのだ。

 炎天下40分ばかり歩いて、アフラシャブホテルにたどり着いたときには時刻はすでに、15時半。12時に戻ってくる予定が大幅に遅れてしまった。すぐにチェックイン。朝、荷物を預けていたので、顔を知られていて、スムーズに手続きをすませられた。ここのホテルが、この国にやってきてから今まで泊まったホテルと大きな違いが2つある。

 1つは、パスポートを預けるのではなく、チェックインのさいにパスポートを見て、すぐにレギストラーツィアを作って渡してくれたこと。ほんの1、2分、待たされたが苦にはならない。ほかのホテルに比べると格段の速さである。

 もう1つは、フロントで部屋の鍵を渡してくれたこと。この国にきてどのホテルも、各フロアのおばさんが鍵を管理する方式だったが、はじめて国際的にあたり前の方式のホテルに泊まれた。

 アフラシャブホテルの部屋には、大きなダブルベッドが置かれており、まずは横たわる。適度にエアコンが効いていることもあり、あっという間に睡魔が襲い、熟睡してしまった。

 目がさめると17時。サマルカンドのみどころは、このホテルやサマルカンドホテルの東側にあるので4日間もこの町にいて、ホテルよりも西側にはほとんど足をのばしていない。で、駆け足ではあるが、西側のほうを見て歩くことにした。

【サマルカンド最後の夜】

 17時を過ぎているとはいえまだ暑いので、道を歩く人のすがたはまばらだ。バザール周辺はどこから人々が集まってきたのかと思えるくらいだったが、2kmほどしか離れていないのに閑散としている。しかし子どもたちは元気だ。裸になって遊びまわっている。

 やがて、ムスタキルリック(独立)広場にやってきたが、特別に見るものもなく、だだっ広い空き地に誰もいないので、不気味だ。すぐに立ち去る。

 しかし、さらに歩いていくと次第に人々の姿が多くなってくる。やがて、クルイティ・バザールにたどりつく。ここでも新鮮な野菜や果物が売買されているが、先ほど見てきたシャブスキー・バザールに比べると、ずっと規模が小さい。

 さらに少し行くと、グムと呼ばれる国営百貨店がある。3階建てのこの百貨店は、内部の照明を節約しているのか、外に比べてうす暗い。一応、百貨店というだけあって、さまざまな品物が扱われているのであるが、商品が陳列してある数が少ないので、棚にすきまが目立つ。客の数もそれほど多くなくて、バザールに比べると著しく活気に欠ける。

 しかし、グムを出たあたりは、人通りが割りと多い。時刻は18時に近くなり、ちょっと涼しさを感じるようになってきたので、家の中にいた人たちが外へくり出してきたのかもしれない。

 バザールの周辺やバザールからレギスタンへの歩行者天国の賑やかさには到底かなわないのだが、露店が何軒か出ていて、人々が集まってくるところになっている。

 さらに、しばらく歩くと、ガイドブックに食堂街と書かれている路地がある。ここで食事を、と思って外出したのであったが、どうも活気がない。半数以上の店が閉まったままだ。営業している店も客の入りが少ない。ずっとこの状態なのか、もっと遅い時間になってから賑やかになるのかよくわからないが、このあたりで食事をしたいとは思わなくなってしまった。

 大通りまで出てタクシーでバザール周辺まで行こうかなとも考えていたら、ようやく客のたくさん入っているビヤガーデン風のレストランが目に入った。ここで食事をすることにしよう。 各テーブルを覆っているパラソルには、バドワーザーと書かれている。当然、バドワイザーのビールが飲めると思ったのだが、それは間違い。席について、真っ先に、バドワーザーを注文したのだが、置いていないという。飲物は、コーラ、ファンタ、チャイだけであったのだ。それでコーラを注文。



 料理も、シシャリクのほかは、トマトサラダなどサラダ類、ポテトなどのスナック類、それにナン、アイスクリームなどがあるだけだった。シシャリクには、いろいろ種類があるらしい。いつもやっているように、焼いているところまで、ウエイトレスと一緒に歩いて行って、指差しして注文した。さらに、トマトサラダ、ナンを注文。

 シシャリクが焼きあがるまでの間に、サラダやナンを食べて待つ。焼きあがってきたシシャリクは、今まで入った店に比べて、一本の串に刺してある肉の数が多く、しかも肉の塊が大きい。3本食べて腹八分目になった。最後に口直しにアイスクリームを注文。これがまた甘くておいしい。



 レストランを出るとあたりは真暗。街灯がほとんどないのだ。ひとりで歩くのは危険が感じられる。道路の凸凹にも気をつけなければならない。で、ほかの人が歩いているそばを歩いて、ホテルまで歩いて帰った。ホテル到着20時。

 いよいよ明日はサマルカンドをたつ。荷物の整理を一通りすませ、明日の予定を確認しながら眠りについた。