灼熱のウズベキスタンを行く(12)

【フェルガナを出発】

 フェルガナをたつ朝がやってきた。次の目的地はコーカンド。フェルガナ盆地のなかの町だが、盆地の最も西端に近い。ここに行くのは、旅行者がフェルガナ盆地方面からタシケントに向かう公共の交通手段が限られていて、飛行機、タジキスタン領内を経由する鉄道をのぞくと、コーカンドからでている乗合タクシーの利用にほぼ限定されるからである。

 バスでタシケントに向かうことはできないのだ。かつては、鉄道と同じくタジキスタン領内を経由するバスが運行されたいたのだが、旧ソ連各国が互いに独立国としてひとり立ちしていくのに伴って、国境の通過に制限がくわえられるようになってきて、フェルガナ盆地からタシケントへのバスはなくなってしまったのだ。

 鉄道を利用する場合は、タジキスタンのビザなしで、フェルガナ地区からタジキスタン領内を経由してサマルカンド方面へ向かう列車に乗車できたのだが、タジキスタンの危険度を考え、また、遠回りになることや列車内の暑さも考慮して、列車での利用はやめておくことにした。

 したがって、ウズベキスタン領内だけを通る山岳ルートを自動車で行くことになるのだが、前述したように普通のバスは運行されていない。これは、山岳コースの途中にある峠の区間で道路の整備が不充分なため、まだバスが通りにくいためであるらしい。バスに代わるものとして、乗合タクシーがあるとのことだが、これはコーカンドから出ているという。それで、コーカンドからの乗合タクシーを第一候補に、そして普通のタクシーを第二候補にして、タシケントに向かうことにしたのだ。

 さて、フェルガナからコーカンドまでは路線バスを利用することにした。フェルガナでは比較的近距離のミニバス乗り場はバザールのそばにあるが、長距離のバスターミナルは町の中心部から離れたところにある。そのため、ホテルからタクシーでバスターミナルに向かう。

 はたしてタクシーが拾えるものかと心配していたら、ホテルから少し離れたところに待機中だったので、バスターミナルまで行ってくれるように頼んだ。タクシー代は300sym(約90円)。フェルガナにやってきたときに、空港からホテルまで乗った白タクは500symだったので、やはり空港からタクシーに乗る場合は注意が必要であることを実感する。

 町外れのバスターミナルに到着すると、何とコーカンドと書かれたバスが止まっている。ただしキリル文字の表示なので、コーカンドであると理解するまでに多少の秒数を要した。すでに運転手が運転席に着席して発車態勢に入っている。こりゃ、急がないといけないと思うと、切符売り場が目にはいった。切符を買わないと行けないようだ。

 運転手にちょっと発車するのを待っていてくれと言いたいところだが、ことばが通じないなかでやりとりをしていたのでは時間の無駄である。切符売り場に走っていき、コーカンドと言って、少し多目と思われる紙幣をさしだし、おつりをもらうことにした。バス代は200symで、ほかに荷物料が100sym、あわせて300sym(約90円)であった。距離は100km近くあるから安い。

 リュックを持ってバスに乗る。車内は数人の客が乗っていただけであった。しかし、大きなリュックをかかえているので、満員になってくれば、荷物の置き場に困る。なにしろ、ウルゲンチからブハラに向かったバスでの灼熱地獄のことは忘れることができない。暑いことにくわえ、荷物のために身動きできなかったので、余計につらかったのだ。そこで、はじめから一番後ろの席に陣取ることにした。

 車も道路事情もあまりよくなくて、よくゆれるバスであったが、一番うしろはとりわけゆれた。しかも、この国のほかの地区と同じく、窓が開かないタイプのバスであった。だが、一番後ろにすわっていたおかげで、次第に混雑してきたのだが、荷物のために動けなくなるという事態だけはさけることができた。


【コーカンド到着】

 フェルガナを出発したバスは、村々のバス停で乗客を次々と乗せていき、ついには立ち客で車内があふれかえってきた。多くの客が大きな荷物を持っている。バスの一番後ろに座っているのだが、終点まで行かないとすれば、降りることができるのか心配になるような状況だ。

 コーカンドが近づくにつれ乗客はだんだんと降りていき、コーカンドのバスターミナル到着時には、ちょうど席がうまる程度にまでなった。約2時間のバス旅を終え、車外にでたときにはほとした気分になった。まずは、屋台のジュースを一杯飲んで、のどをうるおす。

 コーカンドはホテルが限られている。ガイドブックで町一番のホテルのように思われるホテルコーカンドに泊まる予定だ。町一番とはいっても、安宿なのだが。バスターミナルから2kmほどの距離があり、歩けないことはないが、荷物をかついでいる身には暑さがこたえそうなので、バスターミナルの前で客待ち中のタクシーに乗っていくことにした。

 ホテルコーカンドと伝えるが、どうも伝わらないようだ。運転手は、ここはコーカンドだ、と言っているようだ。ホテルという言葉がわからないのだろう。すぐにロシア語でホテルを意味する言葉がでてこなかったので、ウズベク語の綴りも記されているガイドブックにチャックををつけて指差して示してようやくわかってもらえるといった状況だった。タクシーはすぐに到着。運賃は200sym(約60円)で、ウズベキスタンで乗ったタクシーのなかでは最低金額であった。

 受付では、1泊したいことを、紙に書いてジェスチャーも交えて伝える。すぐにわかってもらえたようで、金額を紙に書いてくれた。バストイレが共同の部屋とシャワートイレつきの部屋があって料金は倍近く違うが、シャワートイレつきを選ぶ。料金1200sym(約360円)を払い、上の階にあがって領収書を見せて、部屋をあけてもらう。シャワーやトイレで水や湯が出ることをよく確かめて、さらにフェルガナでの失敗を繰り返さぬよう窓があくことも確認してからOKをだした。

 出発が早かったため、まだ10時台であるが、バス乗車にホテル確保を終えたので、少し休んでから観光に出かけることにした。ベッドに横たわって部屋の中をながめると、すっきりとした部屋であることがわかる。ベッド以外には、テーブルがあるだけの部屋なのである。だが、窓はベランダに出るドアをかねているため、部屋は明るく、清掃も安宿にしてはいきとどいていて好感が持てた。

 とはいうものの、シャワーとトイレの方は壁などに汚れが目立ち、便座がはずれていたりと、老朽化が著しかった。それでも、清掃していることはわかるので、この国でほかに泊まった安宿よりは上出来であった。

 ホテルの部屋からは噴水のある広場が見える。この広場はアブドラ・ナビーエフ広場といって、コーカンドの町の中心にあたる広場であるそうだ。となると、この泊まっているホテルコーカンドも安宿の部類にはいるとはいえ、この町で一番のホテルであるということも納得がいく。



 休憩のあと観光に出かけたが、まずホテルの周囲の建築物を眺める。ホテルの周囲には、帝政ロシア時代の建築物がいくつか残っているという。コーカンド市庁舎、郵便局、国立銀行などが、広場を中心にしてかたまっているのだが、いずれもレンガ造りの重厚なものである。

 レンガは変色していて年数がたっていることをうけがわせる。こうした造りは、ロシアの長い冬を越すのには適しているのであろうが、中央アジアにつくったのでは、暑苦しい感じがする。とはいうものの、旧ソ連時代の建築物が経過した年代の割には老朽化が著しい感じがする反面、帝政ロシア時代のこうした建築物は年数を経ていても、まだまだ現役で利用できるような感じがする。


【フダヤル・ハーンの宮殿】

 ホテルから10分ほど歩いたところに、コーカンドで一番のみどころであるフダヤル・ハーンの宮殿がある。行く途中、帝政ロシア時代の建築物と考えられるものが多数軒を連ねていた。かつてこの町の中心街だったところも、今はバスターミナルの周辺にその地位を奪われたかのようである。

 コーカンドを中心にして、帝政ロシアの圧力を受けつづけながらも、19世紀末まで、コーカンド・ハーン国が存続していた。ウズベキスタンで統一国家が崩壊したあと、ブハラ・ハーン国、ヒワ・ハーン国とともに、コーカンド・ハーン国が勢力を保っていたが、19世紀に入ると、帝政ロシアがしだいに保護国化していった。そんな中でも、各国はなんとか存続だけはしていたのだった。

 フダヤル・ハーンは、コーカンド・ハーン国の最後のハーンである。彼がこの宮殿を建てたのは1873年であるから、日本はすでに明治時代になっていた。宮殿が完成してわずか3年後にこの国は混乱して、フダヤル・ハーンはロシアへと亡命し、コーカンド・ハーン国は完全にロシア領に組み込まれたのであった。

 現在では、この宮殿の周辺は、大きな公園になっている。しかし、訪問したときには、かなり大規模に公園の整備工事が行われていた。その様子を見て、宮殿にも入ることができないのではないかと思ったほどだ。宮殿の周辺の土が掘り返されていて、とても宮殿に近づけそうにない。

 だが、この町はコーカンド・ハーン国の首都として、また帝政ロシアと当時の中国の王朝であった清との貿易の中継点として繁栄したのに、現在ではかつての栄光をしのばせるようなものがほとんど残っていないのである。サマルカンドやブハラには及ばないまでも、多くのモスクやマドラサがあったのである。

 ところが、それらの建造物の多くは、ロシア革命のときに、コーカンドは、ロシア革命に反対する勢力によってつくられた中央アジアのイスラム政権の本拠地になったため、赤軍によって徹底的に攻撃をうけ、その際に歴史的な建造物も、そのほとんどが失われてしまったのだという。もし、ロシア革命時の混乱がなかったとすれば、コーカンドはブハラやヒワなみの観光資源を持ち、ウズベキスタン観光のひとつの目玉になっていたかもしれない。

 そんななかで、この宮殿は、赤軍の破壊の嵐にも耐えて生き残った数少ない歴史的な建造物なので、どうしても見学してみたい。たぶん駄目であろうが、土が掘り返されて歩きにくいところを、工事のじゃまにならないようにしながら宮殿の正門までなんとかたどりついた。幸い、宮殿の見学は可能であった。周辺の工事のために、見学にやってくる人はほとんどなくて、自分以外にはほんのわずかの客がきていただけであった。





 ただ、宮殿の内部も工事をおこなっていて、実際に見学ができたところはそう多くはなかった。工事はしていないが、手持ち無沙汰の宮殿の係員が休憩する場所と化していたために入りづらく入れなかったところもあった。

 そんななかで、ハーンの寝室を見たのであったが、思っていたよりも質素な感じであった。ハーン国の末期の宮殿であるので、すでにハーンの権力も大きくはなかったためであろうか。当時の家具などが展示してあったが、華やかさは感じられなかった。

 一部の部屋は、歴史博物館になっていたのだが、ハーン国の末期の様子を伝える展示では、すでに写真が利用されていて、当時のコーカンドの町並みや人々の生活ぶりを知ることができてたいへん興味深かった。また、ピアノが残されていたりして、ハーン国がヨーロッパ文化をとりいれようとしていたこともよくわかった。



 売店では、ほとんどやってこない客がやってきたためか、いろいろなみやげをすすめられた。結局、簡単には手にはいらないであろうこの地域の地図を買ったのだが、これが日本に帰ってから、日本人誘拐事件のニュースで報じられる地名を調べたり、その場所の様子を想像するのに大いに役立ったのであった。


【迷子になる】

 フダヤル・ハーンの宮殿を見学したあと、ナルブタ・ベイのマドラサ、マーダリ・ハーン廟などを見に行くことにした。これらは、フダヤル・ハーンの宮殿からみて真東の方角にある。ただし、一本の大通りを歩いていって、行きつくことはできないのだ。曲がりくねった道を歩く必要がある。はじめての町で、複雑な下町を歩くのは迷う可能性がある。場合によっては、危険な個所に出てしまうかもしれない。





 そこで、大通りを遠回りする方法をとろうかな、とも思った。バスターミナルに着いて、タクシーでホテルまでやってきたが、タクシーで通った道である。こちらなら、絶対に道を間違えることはあり得ないであろう。しかし、この大通りルートをとると、1kmほどたくさん歩かなければならない。つまり、正方形の一辺を通るか、三辺を通るかの選択であったのだ。

 気温は40度ほど。雲ひとつない青空に輝く太陽。したたり落ちる滝のような汗。満員のバスに揺られてきたわが身。これらが、判断を誤らせてしまったのだ。たとえ、遠回りであったとしても、確実なルートをとったほうがよかったのに、早く目的地に着きたいからと、複雑な短絡ルートを選んでしまったのだ。

 宮殿のある公園の目の前には警察署があることがガイドブックに書いてある。どんなところなのかとじっと見ていたのが良くなかったのかもしれない。いつの間にか、2人の男がそばにいた。まずは、握手。この国では、握手があいさつがわりのようである。そしてポケットから身分証明書をとり出して見せられた。男たちはシャツ姿だったが写真は制服姿。警官であったのだ。

 パスポートを見せるように要求され、すぐに見せる。顔写真とビザのところを念入りに見て、笑顔で返してくれた。外国人がさほど訪問しない町なのに、警察署のなかを見ていたので不審がられたのだろう。でも、ニセ警官でも、悪徳警官でもなくて良かった。

 その警察署のところから、短絡ルートは始まるのだが、人がほとんど歩いていない。それに建物のつくりも、大通りに面している建物に比べてみて、ずっと小さく、貧しそうである。そのうちに道路は細くなり、カーブの繰り返しで、自分が地図上のどの位置にいるのかがわからなくなってしまった。それでも、太陽の位置などから方角を判断して、行くべき方向を考えて歩いていった。

 そのうちに、道が何本にもわかれているところや行き止まりにになっているところなども出てきた。正方形の一辺にあたる距離はすでに歩いているはずだ。しかし行きつけない。迷ってしまったのだ。さいわい、車がとまっていて、地元の男が何人かいたので、ガイドブックの地図を見せて、聞いてみた。ウズベク語の表記もあったのだが、男たちには地図がわからなかったようだ。



 しかたがないのでやってきた道を引き返すことにした。だが、引き返すだけでも一苦労だ。カーブや折れ曲がりの多い道を歩いてきたので、途中で、こんなところは通っていないと気がついて引き返したりもした。不安に思う中、ようやく警察署のところまでもどってくることができた。ああ、助かったと一安心。この間、30分。やはり、多少遠回りであっても、知らない町では確実な道を通ることが結局は早くなることが多いのだ。

 このあと、大通りを歩いていく。迷子の心配はなくなったが、建物には珍しいものがなく、楽しみには欠ける。途中でジュースを買ったりして、目的地のマドラサと廟に到着。

 マドラサをつくったナルブタ・ベイは、フェルガナ盆地を統一した人物なのだが、その死後、ロシアの進出が強まっていく。比較的歴史が浅いのか、あまり印象には残らなかった。

 マーダリ・ハーンはコーカンド・ハーン国が最盛期であったころのハーンである。廟の屋根は、青のドームになっていてサマルカンドで見た建築物群を思い出した。だが、サマルカンドのものに比べると、すっと規模が小さい。


【コーカンドの夜】

 コーカンドのみどころとしては、地元の詩人であるハムザという人の博物館があるが、マドラサからの帰り道その前を通っても人の気配が全くせず、特別に見たいとう気持ちもなかったので、ホテルに戻ることにした。もう迷いたくないので、再び遠回りだが間違えようのない道を選ぶ。

 ホテルに戻って、しばらく昼寝をすることにした。だが道に迷ったため疲れがひどかったためか、かなりの時間、熟睡してしまった。目覚めたときには、すでにあたりは薄暗くなっていた。夕食のために出かけるのも面倒に思ったのだが、もうこの国に滞在できるのもわずかの日数ということを考えると、やはりこの国の食事を味わっておきたい。

 ホテルのすぐ前の広場に面して屋外レストランがあって、ガイドブックにも紹介されているのだが、まだ誰も客がきていなくて入りづらかった。それで、フダヤル・ハーンの宮殿の近くまで歩いていったのだが、レストランらしきものは見当たらなかった。バスターミナルのあたりに行けば、たくさんあるのであろうが、もうこれ以上歩きたくはないし、わざわざタクシーに乗ってまでという気もおこらない。

 やはり、ホテルのすぐ前の屋外レストランで食事をすることにした。戻ってみると、すでに何人か先客があって入りやすくなっていた。とはいえ、ほとんど空席ばかりであったので、一番外側の公園の噴水の水がす・禽くまで飛んできている席に座った。

 何人かいる従業員のうち、注文をとりにきたのは朝鮮系の若い女性。ウズベク語で話しかけられたがよくわからない。メニューも置いていないようだ。そのため、どの店でも必ず置いてあるものを頼むことにした。シシャリク、サラダ、コーラ。

 なぜか、噴水の水の出が急に激しくなって、わずかではあるが水が飛んでくるようになった。ほかの席もかなり埋まってきていて、今から席を替わると、店の奥の方になってしまう。多少の水しぶきなら、かかってもかまわないし、その方が涼しくてよい。屋外のテーブルには、日よけのパラソルが立ててあったのだが、それを立ててもらって、水がかからないようにしてもらうことにした。

 この店では、英語はまったく通じずウォーターやパラソルもわかってもらえなかった。それで、水がかかることと、パラソルを開いて欲しいことを身振り、手振りで伝える。根気よくやればなんとか通じるものである。パラソルを開いてもらって、少なくとも料理に水がかかることは防げた。それを見ていた近くのテーブルの客は、自分でパラソルを開けていた。

 水が飛び散っているため、かなり涼しく感じた。この国に来てずっと夜でも暑さには閉口してきたのであるが、このレストランはたいへん気持ちがいい。ゆっくりとシシャリクを味わい、食べてしまうと追加注文をする。そして食後にはアイスクリームも頼んで、ゆっくりと食事をした。

 レストランを出たあと、その目の前の噴水のそばのベンチに腰掛ける。風の影響だったのか、レストランの方向に水が飛ばされているようで、噴水のそばでも、レストランとは逆の位置にあるベンチには水がほとんどかかっていないようだった。

 コーカンドの市民のなかにもこの噴水を夕涼みの場所にしている人がたくさんいて、かなりの人が集まっていた。アベックもいるが、家族連れ、老人のグループもいる。子どもたちは、噴水の回りではしゃいでいる。夜の楽しみには乏しいため、噴水で涼みながら時間つぶししているのだろう。

 急に風向きが変わったのだろうか。自分が座っているベンチへも水がかかるようになった。しばらくは水にかかって気持ち良くしていたのだが、次第にシャワーのようになってきて立ち去ることにした。すぐそばのホテルに戻り、シャワーを浴びて、明日の予定を検討し、この日を終えた。