灼熱のウズベキスタンを行く(14)

【日本人墓地】

 ホテルウズベキスタンで朝食。バイキング形式で、この国へやってきてから、一番豪勢な朝食である。どうしても、たくさん食べてしまいがちになるので、用心して食べ過ぎないように気をつけねばならない。朝食つきのホテルタシケントやホテルサマルカンドでは、朝食の際に、従業員の態度に不愉快に思ったこともあったが、ここの従業員のサービスは良好であり気持ちもいい。

 同じテーブルで日本人のグループと一緒になった。パッケージツアーの人たちだと思って尋ねてみたら、天山山脈の登山にやってきた山岳会のメンバーであった。自分たちで計画をたてたガイドつきの手配旅行で、こちらにきているとのことだ。入国したのは自分と同じアシアナ航空、帰国も同じアシアナ航空だという。登山中心の日程で、観光はほとんどしないのだが、今日はサマルカンドへ行き観光後一泊し、明日タシケントに戻るらしい。サマルカンドのみどころなどを話す。

 朝食後、タシケントのどこかにある日本人墓地に出かける。第二次大戦終結時に、満州国の戦線などで捕虜となった人たちが、シベリアの各地の収容所に送られて、過酷な作業に就かされたのだが、ウズベキスタンの各地にも収容所があり、日本人捕虜が送られていたのである。そして、ここタシケントにも日本人の収容所があり、そこで亡くなった人たちの墓地があるのだ。

 タシケントに送られた人たちは、主に市内外の建物の建設現場での作業に就かされたという。その人たちが建設した最大の建物は、ホテルタシケントの向かいにあったナヴォイ劇場である。タシケントでは戦後、大地震があり、その地震で市街地が壊滅的な打撃を受けたということだが、そんな中でナヴォイ劇場は無事で、日本人の作った劇場が地震でも壊れなかったと評判になったらしい。

 ところで、ガイドブックでは日本人墓地があるということは書かれているのだが、その位置については書かれていない。ただ市内のどこかであることだけは確かみたいなので、ホテル前に止まっていたタクシーに乗って、日本人墓地と告げた。案の定、英語は通じない。両手を合わせて、頬にあて、眠る格好をしたりして、どうにか意味は通じた。幸い、運転手は日本人墓地を知っていたようで助かった。

 タシケントの市街の南東の方角へ15分くらい走る。トロリーバスも走る大通りを走ったうえで、住宅地の中へ入っていった。市街地の中に墓地があることは予想外であった。横道に入ってすぐに墓地の入口があり車のまま墓地の中に入っていった。現地の人たちの墓が中心の広大な墓地であり、日本人墓地はその一角にあるようだ。運転手も中の位置までは知らなかったみたいで、かなり迷ったうえで日本人墓地に着いた。


 大きな祭壇があり、手を合わせる。その前には、タシケントで亡くなった日本人捕虜79人の墓が整然と並んでいる。墓はきちんと整備がいきとどいていて、つい最近にお参りした人がいるらしくて、花も供えられていた。




 日本人墓地の一角には、ウズベキスタンの各地で亡くなった捕虜の人数が、収容所別に記されている。それによると、ウズベキスタン全体では、亡くなった捕虜は813人、収容所別にみて亡くなった捕虜が一番多いのはコーカンドで240人である。知っている地名では、フェルガナやアングレンの収容所も記されている。





 待っていてもらったタクシーで墓地を後にした。墓地の入口をでたところにスロバキア大使館がある。この大使館のなかに、抑留者に関する展示コーナーがあるという。しかし、訪問したときには、大使館に人の気配がなかった。ブザーを鳴らしたり、玄関や裏口のドアをたたいたりしたが、中に入ることはできなかった。大使館の警備をしていた警官もかけつけてきて、ドアをたたいたりしてくれたのだが、ドアが空くことはなかった。結局、スロバキア大使館での見学はあきらめ、市内中心部に戻り、ミュージアムめぐりをすることにした。


【芸術博物館とナヴォイ劇場】

 日本人墓地で異国の地で亡くなった日本人捕虜の方々の冥福を祈ったあとは、タクシーで市内中心部に戻り、ミュージアム巡りをすることにした。運転手はこのあともタクシーを使って市内観光をしてほしそうであったが、あとは地下鉄・トロリーバスそして徒歩で回り、町の様子をよく見てみたい。安くしておくから、ぜひタクシーを使ってほしいと懇願されたが断り、降りる際に、1500cym(約390円)といわれたのを、2000cym(約600円)渡してあきらめさせた。

 タクシー代などを多めに払うことは滅多にしないが、このときは日本人墓地のなかで、墓探しに協力してもらったことと、ふつうにお金を使っていたのでは両替したウズベキスタン通貨のcym(スム)が、あと2日間で全部使い切るのは難しくなっていたから、ちょっと太っ腹になったのだ。

 ミュージアム巡りの最初は、ウズベキスタン芸術博物館。ウズベキスタンの伝統芸術の展示と現代芸術の展示の双方が見られるミュージアムである。

 ミュージアムの入口でタクシーを降りると、黒山の人だかりとなっている。いったい何があるのだろうかと気になって、しばらく入館しないで入口付近の花壇に腰掛けて待っていた。すると何台ものバスがやってきて、そこから大勢の子どもたちが降りてきた。子どもたちはリュックを背負ったり、大きなバッグを持ったりしていて、キャンプから帰ってきたような雰囲気であった。待っていたのは、その親たちである。バスから降りた子どもたちは、親や友だちと家路についたようだ。

 子どもたちの大半はトロリーバスなどで家に向かったようであるが、乗用車で迎えにきていた親もかなり多い。この国で人気の乗用車は、韓国のテウーのようで、新しい乗用車はかなりがテウー製であった。帰国後のニュースで、テウーがこの国での乗用車の現地生産に力を入れていると知った。日本のメーカーにとっては、この地域に進出するには、リスクが大きすぎるのだろうか。日本車はまったく見かけない。

 さて入館。さきほどの入口付近の混雑とは裏腹に、ミュージアムの中はがらがらであった。開館から1時間以上たっているというのに、自分がこの日最初の入館者であったようだ。受付の人も、チケット代を差し出してから、ようやくチケットの束を取り出してくる始末だった。

 この国の伝統芸術化の展示にはちょっと関心のあったものもあったが、さほど多くのものが展示されているわけではない。そして、かなりのスペースが仕切りで閉ざされてしまっていて、立ち入ることができなくなっている。とくに巨大なじゅうたんの展示があるらしいのだが見ることができなかった。自分にとっては期待はずれのミュージアムであった。

 このあとは、町中を歩いてナヴォイ劇場に向かう。歩いてみてわかったことだが、タシケントの町の中は結構、起伏があって歩くのが疲れる。トリーバスにのってもよかったが、それほどの距離でもないし、思いがけない方向に連れていかれても困る。それで汗だくになって歩いたのである。

 途中、訪問した半年ほど前に爆弾テロがあったといわれる、この国の外務省のビルの前も通る。平穏ではあるが、警官が目を光らせている。警官と目を合わさないように、そのビルにも関心をもっていないようなふりをしながらその前を通り過ぎた。

 やがて、ナヴォイ劇場に到着。内部の見学はできないようなので、外回りを一周。確かに頑丈そうな建造物である。大きな石が基礎に使われていて、これらを運ぶのは大変な仕事であったに違いない。ベンチに腰掛けて、この建物を造り、そして日本には帰れなかった捕虜の人たちやその家族のことを思いながらひとときを過ごした。
 


 ナヴォイ劇場の正面から公園を隔てて、この国に到着した日に宿泊したタシケントホテルがある。劇場の前からタシケントホテルを見ると、かなり大きく、そして歴史を感じさせるような重厚な建物である。内部はかなりくたびれていたが、外から見ても古いことがよくわかる。


【民族歴史博物館と独立広場】

 タシケントホテルのすぐ北側には、ウズベキスタン民族歴史博物館がある。中央アジアでもっとも大きな博物館で、先史時代から現代までのウズベキスタンの歴史が一通りわかるようになっているという。

 ここには、この国の南部のテルメズ近郊の遺跡から出土した仏像をはじめとして、この国が仏教文化圏に属していた当時の遺物がたくさん保存されているらしい。フェルガナから日帰りで遺構だけが見られるクワの仏教遺跡を見学したが、そこの出土品も収蔵されているという。イスラム国になってしまったこの国の仏教について学んでみたい。

 また、現代史の展示では、ロシア革命後にコーカンドであった赤軍による虐殺の展示や、赤軍と反革命ゲリラの争いの展示などを期待していた。旧ソ連時代には、反革命派として敵として扱われてきたグループが現在ではどういう扱いを受けているのか興味があった。ロシア革命は誤りだったという視点に立っているのか、そこまでは踏み込んでいないのか、ぜひ自分の目で確かめて見たかったのである。

 さらに展示の締めくくりとして、カリモフ大統領の巨大な写真と彼に関する展示があるという。これを見て、この国がどのような国であるのか考えてみる材料にしてみたいと思っていた。

 ところが、博物館のまわりの人通りがほとんどない。閉館日は月曜日のはずだし、今日は月曜日ではない。ミュージアムを半周し、玄関のあたりへいくと、休んでいたおじさんが、閉まっているというようなことを教えてくれた。入口のところの張り紙に何か書いてあるが、閉館中とか書いてあるのだろう。一番期待していたミュージアムに入ることができず残念であった。またの機会に訪問することにしよう。

 民族歴史博物館は建物のまわりだけを見て、その北側にある公園を散歩する。独立広場、ムスタキルリック・メイダニである。ここの広場は旧ソ連時代には、レーニン広場と呼ばれ、メーデーの集会をはじめさまざまな催しがおこなわれたらしい。中央には、大きな地球儀のような球状の像がたてられていて、そこにはウズベキスタンの国土の形が彫られている。かつては、レーニン像が鎮座していた台座に、レーニンの代わりに球が置かれているのである。

 催しが行われる独立広場は、太陽をさえぎるものがなく、歩いている人は少ない。しかし、独立広場を取り囲むように樹木が多くあり、遊歩道が縦横に走り、ベンチがたくさんおかれていて、多くの市民でにぎわっている。

 その公園の中を一通り歩いてみたが、公園内の歩き方に失敗し、迷路状の小道を通って、いつのまにか芝生に囲まれた中に入ってしまっていた。広場はすぐそこに見えているのであるが、小道を通って広場に戻るには遠回りをしなければならない。タシケントの町中をあちこち歩き回ってきてかなり疲れてきている。この際、芝生の中を突っ切って広場の方へ戻るのが近道である。

 本当はしてはいけないのだけれども、芝生を突っ切って小走りに、広場へ向かった。もう広場に戻ろうとしたその瞬間。ピッピー、笛を鳴らす音。警官が見ていて、注意の笛を鳴らしたのだった。幸い、警官はかなり遠くにいる。こちらをにらんではいるが、駆け寄ってきたりはしていない。何気なく、走ったりせずに、その場をゆっくりと立ち去った。

 乾燥の激しいこの国の場合、蒸発量が多いので、芝生には水を日本の場合よりたくさん与えなければならない。一方、この国では、水は貴重品である。大切に育てられている芝生の上を通るのは、たいへんな間違いだったとだと反省。ここで罰金をとられても仕方がないことでった。

 かなり歩いてから後ろを確かめた。警官が追いかけてこなくて安心した。警官と顔をあわさないように別の大通りを通って、ブロードウェイへ向かった。昨夜とは別の屋外レストランに入り、シシャリクやブロフなどで昼食をとった。


【ティムール博物館とツムデパート】

 ウズベキスタンホテルが面しているティムール広場には、ティムールの騎馬像があるのだが、ティムールの像と同じ台座にかつてはレーニン像が立てられていたということだ。



 国民統合の象徴が、旧ソ連時代にはレーニンに求められていたが、独立国家ウズベキスタンになってからは、14世紀の大帝国の創始者ティムールに求められるようになったようだ。旧ソ連時代には、チンギス・ハーンと並んで悪者扱いされていたというから、評価の大転換が行われたのである。

 ティムール広場には、ティムール博物館も面している。昼食のあと、ティムール博物館に入館。ここは1995年に開館したもので、建物全体がたいへん新しい。中に入ると、荷物を預けさせられる。この国のミュージアムでははじめてだ。


 展示室は、場所を広々と使ってぜいたくにスペースを使っている。ティムールの一生や業績が細かく説明されている。ウズベク語だけの表示であるが、大体言いたいことは理解できる。

 ティムールはこの国にとっての偉大な英雄として扱われ、その偉業をたたえ、国民の教育のために利用するというのがこの博物館の目的のようである。ティムールの時代にどれだけ文化が発達したか、どれだけ領土が拡大したかがよくわかる構成になっていて、ティムールがいかにすばらしい君主であったのかということが強調されている。ここには、全国各地から、子どもたちなどが、学校などから見学にやってくるのであろう。

 展示品の数自体はさほど多くないのだが、ひとつひとつの展示品を、じっくりと見学していたら、かなりの時間を要した。シャフリサブスで見たアクサライの遺跡も、もともとはどんな建物だったのかよくわかった。ティムールの時代のサマルカンドがどんな状態だったのかも模型でわかりやすく展示されている。

 自分自身、これまでティムール帝国は歴史上それほど重要な存在とは考えなかったのであるが、このミュージアムを見学して、14世紀の同時代に存在したオスマントルコ帝国や明帝国と並んで、その中間にあって交易で繁栄した中央アジアの大帝国とであることを改めて認識したのであった。

 ティムール博物館を見学したあと、再びブロードウェイを散歩しながら、ナヴォイ劇場の近くにあるツムデパートまで歩いてみた。

 ツムデパートはタシケントの老舗のデパートである。大きいことは大きいのであるが、たいへん古いデパートである。フェルガナなどほかの町で見たデパートと同じで、店内は薄くらい。蛍光灯の数が限られているうえ点灯していない蛍光灯もある。

 内壁や天井にも汚れが目立ち、エスカレーターもどうにか動いているという感じであった。そして、ガラスケースの陳列棚の中の商品の数はあまり多くない。

 そして、ひとつひとつの商品が、博物館の展示物のように並べられている。日常の生活で使うような品物であっても、このように陳列されると、貴重品や珍しい品物のように思えてくるから不思議なものである。

 だが、ウズベキスタンらしい売り場もある。花柄の民族衣装やスカーフの売り場、じゅうたんの売り場などである。バザールで買うのとデパートで買うのでは、品質や値段にどのような違いがあるのであろうか。

 それにしても、バザールには多くの品物があふれているというのに、デパートの品物は貧弱な印象を受ける。一体どうしてこのような状況になるんだろうか。

 こうした状況だから、客があまり多くないこともうなずける。このデパートが生き残るためには、品数、内装、サービスいろいろな点を改善しなければならないだろうということも感じた。

                  
【タシケントの地下鉄】

 ツムデパートを見学したあとは、地下鉄を利用してホテルに帰ることにした。もちろん、歩いて帰ってもたいしたことはないが、地下鉄に体験乗車するためである。

 タシケントでは、旧ソ連時代の1970年代に2路線の地下鉄が完成している。その後、新しい路線が工事中といわれてはいるもののなかなか完成しないようである。現在運行されている2路線は、市の中心部に近いところで交差している十文字形の路線になっている。タシケントは、ユーラシア大陸の内陸部にあって唯一の地下鉄のある都市である。

 運賃はたいへん安くて15cym(約18円)。地下鉄駅に降りる階段を下りたあたりのブースでジェトン(自動改札機を通るときに機械に投入するコイン型をしたプラスチック)を売っている。ジェトンは、おもちゃのコインのようである。自動改札機に投入されたジェトンは回収され、何回でも繰り返して使用することができる。また運賃額が表示されていないので、運賃の値上げも容易にできる。運賃はどこまで乗っても同料金。2つの路線の間の乗り換えは自由にできる。一日間有効のフリーチケットとか回数券の類はないようであった。

 モスクワの地下鉄は、かなり深いところにホームがあるところが多く、地上とホームを結ぶエスカレーターは長くて、たいへん早く動く、といったことや、駅構内の天井の高さが高く、天井や壁面には装飾がほどこされていてたいへん立派だということを聞く。旧ソ連では、ほかの都市も同様なのであろうか。ここタシケントの地下鉄も同様であった。深いホーム、長いエスカレーター、高い天井、そして美しい装飾のほどこされた天井、それに豪華なシャンデリア。相当にお金をかけていることが明らかである。

 だが、反面薄くらいのが気になる。外国の地下鉄では、薄くらいほうが普通で、日本のように明るいほうが珍しいのであるが。そして、何より異様に思ったのは、警官の姿がたいへん多かったことである。ひとつの駅のホームに銃をぶらさげた警官や兵隊が数人づつ巡回しているのだ。なるべく目をあわせないようにしていたが、あまりに多く、次から次に出会うのでどうしても見てしまう。

 ウズベキスタンを訪問する半年前に、タシケントでは反体制ゲリラによる爆弾テロが発生している。テロが起こったのは、政府関係のビルと地下鉄駅であった。地下鉄駅での爆発では、一般市民にも死者がでている。そのために、旅行当時、日本の外務省から、タシケントには海外危険情報のレベル1(注意喚起)がでている状態であった。

 地下鉄の列車は、2路線ともに、3両編成であった。時刻表は掲示されていないが、5分おきくらいに運転されていた。昼間の乗車率は、ロングシートの座席がほぼ埋まる程度であった。非冷房であるが、窓から風が入ってきて、地上にいるよりはしのぎやすい。

 日本の地下鉄の場合、たいていの都市では、次の列車がどの駅を出発したか、という電光掲示があって、次の列車の到着を待つことが多い。ヨーロッパの場合、そうした掲示がないことが多いので、日本式に慣れた者にとっては不便に思うこともある。タシケントの地下鉄の場合は、前に出発した列車が出発してから何分何秒経過したかという電光掲示がホームの一番端にあった。この方式は、東欧を旅行した際にブダペストなどで経験していたものであった。おそらく、この方式が旧ソ連や東欧で一般的な方式なのであろうと想像できる。

 途中の乗り換えもうまくでき、ホテルのそばのティムール広場の駅に戻ったあと、昨日と同じく、ブロードウェイで食事や買い物を楽しんでから、ホテルに帰った。ウズベキスタン滞在もいよいよあと一日となったのだが、スム通貨がまだかなり残っていた。何とか使い切ってしまいたいので、ホテル内のバーで飲み物を注文したりして、翌日一日で使い切れる程度の額に減らしたのであった。そして、この2週間のいろいろな出来事を思い出しながら、ウズベキスタン最後の夜を過ごした。