1 日 目  

 

  出発の2週間ほど前に、急に2泊3日の旅に出ることが可能になった。マイレージ無料航空券がとれることを条件として、ねらいを中国にし、何箇所か検討してみた。ちょうどアカシア祭りが開催されている大連を第一候補として、無料航空券を問い合わせてみると、運良くゲットできて、旅が決まった。

  中国の東北地方は、以前から行きたいと思っていたが、中国では江南により関心が深く、4回連続で、江南に旅した。だが、主な重要観光都市は訪問したので、別の地域にも目を向けることにして、大連を選んだのだ。

 

 

  関西空港から搭乗した全日空便は瀋陽行き。無料航空券が簡単にとれたので、すいているのではないかと思っていたが、満席に近い状態。

  飛行コースは、ソウル上空を通過するもので、ソウルから大連までは45分程度と、コースの3分の2あたりがソウルだ。大連はかなり近いのだ。飛行時間をみても、台北よりは短く、石垣なみの時間でいける。

  水平飛行に入ると、すぐに機内食。質、量ともにまずまずといったところだ。

 

 

  定刻に、大連、周水子空港に到着。瀋陽行きの乗客が先に降り、入国手続きを大連でするようだ。

  大連は、空港と市内を結ぶリムジンバスがないので、タクシーを使うことになる。幸い、空港は市内に比較的近い。ホテルまで、15km、28.5元(約428円)とそう負担にならない。所要時間も20分ほどであった。

  今回、ホテル予約会社JHCを利用してホテルを予約した。今回の大連旅行では、特にJHCを利用することに留意したのだが、その理由は、旅順の項で書くことにする。

  ホテルで1時間ほど休憩したあと、13時にホテルを出発。まずは、中山広場に向かった。中山広場は、大連のヘソともいえる街の中心にある円形の広場だ。この円形の広場の周囲は、ロータリーになっていて、車は反時計回りに回っている。ロータリーの外側には、広場に面して、日本統治時代に建設された近代建築物が並んでいる。

 

  以下、中山広場(大広場)を取り囲む10の建築物を全部、見ていく。番号は、訪問した近代建築物に通しでつけた番号。赤字は、建築物 や地名の日本統治時代当時の名称である。

(1)中国交通銀行(東洋拓殖大連支店) 1936年に建てられたもの→

 

 

 

 

 

 

←(2)中信実業銀行(中国銀行) 1909年に建てられたもの

 

 

 

人民文化クラブ  大きなコンサートなどの開かれる劇場である 1951年の竣工で日本の建物ではない 日本時代にはここにも中国銀行があった→

 

 

 

 

←(3)中国銀行(横浜正金銀行) 1907年に建設されたもの 横浜正金銀行は今は三菱銀行と合併した東京銀行の前身

 

 

 

 

 

(4)郵政局(関東逓信局) 1925年の竣工→

 

 

 

 

 

←(5)中国人民銀行(朝鮮銀行) 1922年 竣工

 

 

 

 

(6)遼寧省対外貿易経済合作庁(大連民政署) 1908年竣工→

 

 

 

 

 

←大連金融大厦 これは最近の建築 日本統治時代には英国領事館があった

 

 

 

 

(7)大連賓館(ヤマトホテル) 1914年竣工→

 

 

 

 

 

←(8)中国工商銀行(大連市役所) 1917年竣工

 

 

 

 

  大連賓館は中に入らせてもらった。右は玄関下のゲート。消えかかっているがよく見ると、Since1909と書いてある。1909年というのは起工で、竣工は1914年である。

  ヤマトホテル(大和旅館)は、満鉄(南満州鉄道株式会社)が経営したホテルで、奉天(瀋陽)、新京(長春)、旅順、大連郊外の星ケ浦(星海公園)にもあった。

 

 

 

 

  ロビーには豪華なシャンデリアがあり、往時の華やかさを伝えている。少し廊下を歩いてみた。天井が高い。空いていた部屋も高い天井になっている。

 

 

 

 

  

 

  ロビーには小さな噴水があった。上の写真を撮影する自分の背後に右の噴水がある。

 

 

 

  左の画像の旧大連市役所の玄関のひさしは日本風の形をしている。また、建物の上部の塔(上のほうの画像を参照)は、祇園祭の山鉾をイメージしたものらしい。

  中山広場のロータリーには、10本の道路が集まっている。1898年に大連はロシアの租借地となり、一寒村にすぎなかったこの地が大都市化しはじめる。この地はダーリニーと名づけられたが、ダーリニーの都市計画はヨーロッパ風のものが採用されたのだ。街の中心に位置したのが、ニコライフスカヤ広場で、これが今の中山広場である。

  街の骨格はロシア統治時代にできあがったが、1905年に日露戦争の結果、日本の租借地に変わり、その後が40年間、日本統治時代となる。大広場の周囲の10の街区には近代建築物が建設された。このうち8つが現存しているのだ。

 

 

 

  中山広場周辺には30分ほど滞在。

  その後、ロシア街に向かった。そのとき通ったのが、上海街(大山通)なのだが、その途中に交差する天津街(浪速町)が、中山広場近くでは最大の繁華街のようだった。

  天津街のすぐ手前に、(9)大連飯店( 遼東ホテル)があったので撮影。

 

 

  ロシア街の入口に、鉄道線路をまたいで架かるのが勝利橋(日本橋)である。

 

 

 

 

 

 

  上の日本橋を撮影する自分の背後にあるのが、右の(10)郵政局(中央郵便局)であった。

  ロシア街に入ると、ロシア統治時代の建物が現存している。最初に目に入るのが、下の(11)東方歴史芸術博物館( ロシア時代は東清鉄道汽船本社、日本時代は大連クラブ、のち日本橋図書館)である。






  東清鉄道とは、満州里と綏芬河 を結ぶ鉄道で、ロシアが建設した。途中のハルピンから旅順に向かう南満州支線があったが、日露戦争後、こちらは日本に譲渡された。

  逆にいうと、東清鉄道の本線は、日露戦争後もロシア(ロシア革命後はソ連) が経営した。しかし、1932年に満州国ができると、満ソ合弁となり、さらに1934年には満州国有鉄道となり、実質は満鉄の路線になった。

  ところで、この建物と同じものが、北九州市の門司港につくられているそうだ。

 

 

 

  ロシア街は、ロシア統治時代にロシア人が多く住んだのだが、今は、新しく作られたロシア風の建物が大通りに並ぶ土産物街になっている。

  実は、横の路地を入ると、かつてロシア人が住み、今は中国人の住居になっている、とても古いロシア風の民家がたくさんあるのだが、このときは気付かなかった。3日目にそのことを知り、古い住居も見に行った。詳しくは、3日目の項で書く。

 

 

 

 

  左は典型的な土産物屋。ロシア文字の表示もあるが、売っている商品は、ロシアのものは多くはなさそうで、韓国製または中国製のものが多そうである。

 

 

 

  

  それでも、どこで作られたものかわからないが、ロシアの人形、マトリョースカがあちこちで売られていた。

 

 

 

 

   ロシア街の一番奥にあるのが、(12)大連自然博物館の跡地(ロシア時代はダーリニー市役所、日本時代は一時、満鉄本社、ヤマトホテルになったあと、満蒙資源館)である。

  1998年に自然博物館が星海公園に移転してからは、放置されていて、かなり荒れてきている。

 

 

 

  

勝利橋まで戻り、レトロな路面電車で三八広場(朝日広場)まで移動、その後は徒歩で大連港に向かった。

 

 

 

  

  路面電車は1元(約15円)。座席や窓枠は木製であった。

 

 

 

 

  1kmほど歩いて大連港エリアに到着。

  まず目に入る大きな建物が、(13)大連港務局(満鉄大連埠頭事務所)である。1926年竣工で、当時は大連で一番高い建築物。

  ここの屋上は観光客に開放されているとのことだが、中に入ろうとすると、何か言われ、よくわからなかったが、屋上に上がるのはやめたのが、少し残念。(案外、どうぞ、、なんて意味だったのかもしれないが、、)

 

 

 

  埠頭事務所と道路を隔てて建っているのが、(14)大連港候船庁(大連第二埠頭船客待合所)である。1924年竣工で、海側に向かってとても長く伸びた待合所だ。 ただし、玄関の建物は、1987年にかつての丸いものから改築された新しいものである。

  かつて、満州にやってきた日本人は、ここに大陸の第一歩を記したのだと思うと感慨深い。

 

 

 

  

  ここからの出発は、煙台行きが中心。待合所の手前に、仁川など国際線の切符売場、待合所があった。

  待合室の内部。映画、ラストエンペラーのロケにも使われたらしいが、そういう場面があったのかどうか思い出せない。

 

 

 

  入口から一番奥まで歩いたが、500mくらいはあった。

  歩きつかれたので、大連港の様子を見ながら、20分ほど休憩した。売店で大連の地図を見つけ、翌日のバス乗車のために、飲み物とともに購入。

 

 

 

 

  大連港からは、市内に点在する日本統治時代の建築物を見ながら徒歩で散策した。

  まず(15)遼寧省軽工業品進出口公司(大連税関)へ。人民路(山県通)に面している。

 

 

 

  続いて(16)大連鉄道有限責任公司(満鉄本社)へ。左の建物の両翼にも建物があった。下の画像は、両翼の建物。その間の奥まったところに左の建物がある。

 

 

 

 

 

  満鉄本社近くにも日本統治時代の建築物がいくつか残っている。(17)大連図書館分館(満鉄図書館)

 

 

 

 

 

  左は(18)大連日報社(満州日報)

 

 

 

 

 

  続いて(19)大連大学付属中山医院(満鉄大連医院)。とても広い敷地の病院であった。

  

 

 

 

  ここからは、少し離れた旧東本願寺へ向かった。途中、日本統治時代の高級住宅街の地区があり、日本風情街と呼ばれているが、純日本風の住宅はなく、現在の日本風の住宅が並んでいた。

 

 

 

 

  さらに、大連外語学院の前を通ったが、ここは、かつて大連神社だったところだ。

  そして、坂道をのぼり、ようやく(20)大連京劇団(東本願寺)に到着。突然、純日本風の建物が出現してびっくりした。毎週、土曜日の2時から公演をしている。

  あたりは暗くなりはじめていて、夕食のために、天天漁港という海鮮料理店に向かった。この店は、大連市内のいろいろなところに出店していたが、8店舗あるらしい。ホテルにも近い中山広場 そばの本店に行った。

  大連は三方を海に囲まれていて、魚類は豊富にとれる。店に入ると、大きな水槽にヒラメ、アワビ、うになどが入っている。客は自分の好みの魚を選び、それを調理してもらうシステムだ。ヒラメなら、一匹選ぶと、刺身、煮付け、骨のフライなど3〜4人分になる。

  とはいえ、グループではないので、どうなるものか心配しながらの入店だった。でも、その心配は不要だった。魚を選ぶ方法以外に、メニューのサンプルも置いてあって、メニューを選ぶこともできるのだ。これなら安心だが、ただ量は多い。一皿4人分程度ある。

  結局、サンプルを指差しして、2品注文した。左下が、香辣酥海[虫下](エビのぴりから揚げ)、右下が、海鮮小炒(エビ、イカ、タコ、貝の炒め物)。とても美味しかった 。でも、全部は食べ切れなかった。それでも満腹になって、いい気分だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   この店に限らず、中国料理で困るのは、一皿のボリュームが多くて、1人の場合は、2〜3皿程度しか注文できないこと。天天漁港は特に量が多くて、2皿制覇も難しかった。2皿で76元(約1140円)。大衆食堂に比べるととても高いのだが、日本で食べることを考えるととても安い。サンプルを見ていて、ほかにも食べたい料理があったので、翌日もやってこようと思った。

  ホテルに帰り、地図を見て、翌日の作戦を練った。この日は、大連中心部の徒歩で回れる範囲を歩き回ったが、翌日の午前中は、やや遠いバスで回るような地域に行ってみたいので、バスの系統を研究したのだ。そして、シャワーを浴びて1日を終えた。

 

大連のトップへ   全体のトップへ   2日目前半へ