日 目  前 半  

 

  2日目の早朝。朝食時間までの間に中山広場まで行ってみた。広場のあちこちで、いろいなグループが太極拳をやっていて、広場の中を歩くのに苦労するくらいだ。

  大連賓館の前でも、1グループが稽古中。大連賓館の前には、新婚祝いのビニールゲート。大連賓館でも結婚披露宴が2組開かれるのだろう。ほかのホテルでも、この日はこのゲートが多く設置されており、結婚披露宴の多い 日だなと思った。

 

 

 

  ホテルにもどり朝食。中華風のバイキング形式だったが、前日の残り物なのだろうか、冷え冷えとしていたものが多く、まったく美味しくはない代物で参った。おまけに、この朝食では飲み物がなかったのだ。さらに、粥を食べるというのに、レンゲが出ておらず、箸で食べさされた。

  そのうえ、朝食場所ではあとで結婚披露宴が開かれるようなのだが、その用意が多少してあって、その上をビニールで覆っての食事で、雰囲気もあったものじゃない。

 

 

 

 

  8時にこの日の行動、本格的に開始。最初に訪問したのは友好広場(西広場)。広場といっても、ロータリーの真中の球のあるところにわたることはできない。

  球はガラスでできていて、夜になると光り輝くらしいのだが、夜に行く機会はなかった。  球の下には、5本の支え台があるのだが、これは5大陸との友好を表しているらしい。

 

 

 

 

  次に、繁華街を通って労働公園に向かった。その途中に、(21)秋林女店(三越)があった。女性服専門店のようで派手な塗色になっているが、建物自体はかつての三越のままである。

 

 

 

  秋林女店のある角から労働公園までの間は、大連で最大の繁華街のような感じで、歩行者天国になっていた。まだ朝が早いので、出店準備がおこなわれていて、客もまだ多くはなかった。

 

 

 

 

  労働公園(西公園)に到着。大連の中心部で最大の公園である。ここにやってきたのは、賞槐会つまりアカシア祭りの会場が 今年はここだからである。

  入口を見ると、ここが有料の公園のようにも見えるが、無料である。入場口のようなものがあるのは、2004年初までは、 入場料5元が必要だったからだ。入場券販売所も残っていて、特別なイベントの時などに臨時券売場になるという説明が書いてあった。

 

 

 

  公園はとても広いので、最初はアカシアを見つけられなかったが、5分も探すと、アカシアの木が一面に生育しているエリアにやってきた。

  今までからもどこかでアカシアは見ていたのかもしれないけれども、特別に意識してみていたわけでないから、見過ごしていたと思う。というのは、木全体を見ると、よく注意しないと、アカシアの花の特徴であるぶどうの房のような形をした花のかたまりに気付きにくいからだ。 

 

  

  

 

   

   花の部分だけを大きく撮影したものが右の画像。たいていのアカシアの木では、この程度の拡大が限界だ。

 

 

 

  画像も、木全体を撮影しているのでは、どんな形状をしているのかわかりづらい。だから、接写して大きく撮影しようとしたのだが、いかんせん、ほとんどの花は頭上高くに咲いていて、手持ちのデジカメのズームを最大に使っても、花の様子の撮影はなかなか難しい。それで、しばらく撮影しやすい花探しをした。

  ようやく、自分の背丈より少し高いところで咲いているものを見つけて、実物大に撮影したものが右のもの。

 

 

 

  さて、公園内でアカシアについての特別な展示をしているのかなとか思っていたが、そういうものはなかった。アカシア祭りとは、アカシアの咲く時期にあわせて、さまざまなイベントが行われるというものだ。

  公園内では、お年寄りのダンス大会はじめいろいろな催事をやっていた。これらの催事の集大成がアカシア祭りであって、直接にアカシアに関係している何かをやっているというわけではなかった。

 

 

 

 

 

  労働公園から人民広場へ路線バスで移動。バス停でバスを撮影したら、たまたま新しいバスがやってきたが、同じ系統でも新しいバスと古いバスが混じっていて、この後、自分が乗ったのは、すべて古いバスだった。新旧の別は、エアコンの有無でもあるのだが、大連の場合は、どのバスも1元(約15円)だった。

 

 

  人民広場(関東州庁前広場)はとても大きく、大連では星海広場 につぐ大きさの広場だ。広場の正面にたっているのが、(22)大連市人民政府(関東州庁)である。

  関東州とは、1905年、日露戦争後、旅順・大連と南満州鉄道の付属地の租借権が、ロシアから日本に移されたあと、この地域の呼び名となったものである。なお、形式的ではあるが、 満州国成立後は満州国から租借するという形をとり、南満州鉄道の付属地の租借権は1937年に満州国に返還している。 しかし、1945年に旅順・大連の租借権を中華民国に返還している。

   関東州の行政機関として、最初に設置されたのは、関東都督府で、1919年に関東庁、1934年に関東州庁と改称された。 その庁舎は旅順に置かれた。庁舎が大連に移転したのは1937年である。だから、この旧関東州庁も1937年以降使用されたものである。

   また、この地域と満鉄付属地の守備隊が関東軍であった。なお、関東といっても日本の関東地方とは関係がなく、万里の長城の東端である山海関の東という意味である。

  大連市人民政府に向かって、左手にあるのが(23)大連市司法局(関東州高等法院)である。

 

 

 

 

 

  大連市人民政府に向かって、右手にあるのが(24)大連市公安局(警察訓練所)である。

 

 

 

 

  このあと、再び路線バスで、日本統治時代の満鉄社宅群が残るという地区に向かった。ほとんど古い住宅は残っていなかったが、古い長屋風の建物を発見。だが、高級な社宅とは思えない。たぶん、新中国成立後の建物だろう。

  実は、この日の午後、旅順に行った帰り、左の写真を撮影したところから500mも離れていない高爾基路をバスで通過し、そのときにかつての高級社宅らしき建物群を発見したのだが、撮影はできずじまいだった。

 

  再び、路線バスに乗って、やや郊外の海岸である星海公園(星ケ浦公園)に向かった。星海公園は砂浜海岸になっていて、夏は海水浴場になっている。

  星海公園からは路面電車で、日本統治時代の高級住宅地が近くにある会展中心に向かった。

  中国で路面電車が現存するのは、大連のほかには、長春と鞍山だけであるので、貴重な存在だ。

  このとき乗った路面電車は最新式のもので、エアコンもついていた。運賃は1元(約15円)であった。次から次に運転されているにもかかわらず、満員に近い状態であった。

 

 

 

 

  この系統だけではなく、大連の路面電車には車掌が乗っていた。女性車掌であったが、制服を着ておらず、一瞬、車掌とはわからなかった。2両編成で、前の車両の車掌は運賃が箱に入れられるのを確認するのが主な仕事だ。

 

 

 

 

 

  会展中心で途中下車して、かつての高級住宅を何軒か見て回った。

 

 

 

 

  再び路面電車で、乗り換え地点の興工街へ。市街地中心部のなかでは、西端の繁華街といった感じのところだ。

 

 

 

 

 

 

  またまた、古いスタイルの路面電車だが、前日に乗ったような木製のものではない。大連の路面電車は、ほぼ1本のルートで、それを3区間に分けて運転しているのだが、3つの系統の車両が、違っていてなかなか楽しい。

  

 

 

  結局、大連に残る路面電車の3系統、全部に乗れた。

  昼食にはガイドブックに載っている餃子店に行くことして、店に近い北京路まで路面電車に乗車した。

 

 

 

 

 

  店に行く途中、いずれは取り壊されるであろう長屋風の住宅街を通った。路地裏の雰囲気の残るこの一帯はいつまで残るのだろうか。

 

 

 

 

 

 

  めざす劉家餃子館に到着。右は、牛肉芹菜蒸餃(7元)、下は、猪肉[虫下]仁水餃(9元)。

 

 

 

 

 

  餃子1個1個がとても大きい。そして、皮が分厚いのだ。だから、合計16元(約240円)で満腹になった。

  このあと、旅順へ行くため、待ち合わせ場所になっている、大連駅近くのラマダホテルへ路線バスに乗って向かった。

 

 

1日目へ   大連のトップへ   全体のトップへ   2日目後半へ