日 目  後 半  

 

  2日目の午後は旅順に向かう。旅順は、現在では大連市のなかの旅順口区になっている。旅順は、日露戦争の激戦地であり、戦跡がいろいろと残る。また、日本統治時代の建築物も市街地に多く残るという。

  旅順は軍港であり、旧市街地にも軍関係の建物が多く、外国人には未開放地域になっている。1996年から、旧市街地周辺をのぞき、外国人に開放されるようになり、旧市街地から北に離れている203高地、水師営、東鶏冠山の訪問が可能になっている。

  とはいえ、さまざまな史跡の宝庫である旧市街地は依然、未開放である。ただ、特別許可をとることによって、旧市街地の訪問も可能ではあるようだ。旅順の旅行記の中には、日露監獄(ハルピンで伊藤博文を暗殺した安重根の死刑が行われたところである)や旅順博物館を訪問しているもの、あるいは大連から鉄道に乗車し旅順駅に降り立つといったもあるのだが、訪問するためには、旅行前に煩雑な手続きと高額の手数料が必要と思われ、個人で気ままに旅するには向いていない。

  外国人の訪問が自由な203高地、水師営、東鶏冠山への行き方であるが、バスで旅順に向かい、下車後すぐにタクシーに乗り換える方法がガイドブックには書いてある。もちろん、大連からタクシーで行くなら個人で回るのも可能である。

  だが、前者は、タクシーに乗り換えるときに、何らかのトラブルがあっては困ると思ったし(なぜならバスを下車したところは未開放地域のなかだから)、後者は、400元(プラス入場料)程度必要なようで、やや高いなと思った。(ホテルで中国人向けの旅順ツアーの斡旋をしていたが、外国人は利用できない。なお、中国人向けの旅順ツアーでは、203高地は入っているが、水師営と東鶏冠山は立ち寄らずに代わりに、白玉塔などに行くようだ。)

  それで、今回、利用したのが、JHCでホテルを予約した場合にサービスされる観光バスである。JHCでは、大連のホテルを予約した場合に、日本語ガイドつきの観光バスが利用できるサービスを行っている。旅順の3ポイントの訪問コースは175元(または2500円)で、1万円近い他社の日本語観光バスにくらべて格安である。また、大連市内の4ポイントを訪問するコースもあり、こちらは無料だ。3日目には、大連市内のコースも使ったのだ。

  そんなわけで、今回の旅では、JHCでホテルを予約した。最初は、大連賓館をあたってみたが、とれなかったのでほかのホテルにした。

  なお、今回の旅に出る直前に、旅順全体が外国人に開放されるという報道があった。旅順の旧市街地の史跡や近代建築物を見に行けるというのは、とてもうれしい知らせだ。いづれかの機会にまた訪問してみることにしたい。

  JHCの旅順観光の集合は、13時30分に大連駅前のラマダホテルでであった。少し前にホテルに行くと、すでに車(マイクロバス)が止まっていて、ガイドとドライバーが待っていた。何と、この日の参加者は自分ひとりだという。

  ガイドの呂さん(仮名)は、まだガイドになりたてで、日本語をようやく話せているという状態だったが、一生懸命に案内してくれるので気持ちいい。車は、路面電車の終点の横を通り、旅順に入っていった。予想外に、山がちのところである。

  最初に訪問したのは、東鶏冠山である。ここは、ロシア軍の堡塁である。堡塁とは、土を固めたり、コンクリートで作った陣地で、敵の攻撃を防ぐためのものだ。

  旅順の攻防戦では、高地の周辺にいくつかあったロシア軍の堡塁を日本軍が攻撃し、最終的に203高地を日本軍が奪った。しかし、日本側には、6000人の戦死者が出て、これはロシア軍の戦死者を上回るものであった。

  車を下車した目の前の入口にあたる広場。この広場の中央の黒いところに立って手をたたいてみるととてもよく響く。まわりのレンガの部分では全く響かないのに、なぜ? 真中の赤・黒・白の部分は、大理石でできているからだそうだ。

  堡塁のさまざまな場所を見ていった。堡塁の中央部である。左は、崩れかけている入口。

 

 

 

 

 

  右は、中央部と周囲にある側防窖室をつなぐ地下通路の部分。

 

 

 

 

 

 

  こちらは、側防窖室。

 

 

 

 

 

 

 

  ロシアの司令官ステッセルの部下であったコンドラチェンコは、人望のある指揮官であったが、陣地に命中した榴弾砲によって戦死した。

  戦争後、戦死した場所に、日本側が彼の武勲をたたえて碑をつくった。その後、破壊されたが、近年、新しいものが作られたとのことだ。しかし、ロシトラテンコと読めるが、、

 

 

 

 

 

 

  左は、堡塁の内部。もともとは2階建てであったが、2階部分の床はなくなっている。

  以前は、この内部を歩くことができていたのだが、訪問したときには、入口のところに柵があって、眺めることしかできなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

  右は、堡塁の中央の丘の上に日本が建てた記念碑。その下の碑文を見ると、大正7年に満州戦績保存会が建てたものということだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  右は、記念碑のちかくにあった。ロシア軍が土のうを積んでつくった砲撃用の陣地の模型。

 

 

  右は、側防窖室と、そこに残る日本軍の爆破口。

  下は、銃弾のあと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  右は、砲弾型をしたゴミ箱。左が一般ゴミ、右が資源ゴミ。

  このあと、日露戦争陳列館を見学して、東鶏冠山の見学はおわり。

 

 

 

 

 

 

 

  このあと、水師営会見所へ。水師営は、旅順郊外の小さな街である。この街中に、203高地の陥落をうけて、乃木将軍とステッセル中将が、会見して、ロシアが降伏した会見所がある。

 

  この建物は、1996年に再建されたものである。中庭の真中の部分には、少し古い旅行記の写真を見ると、「水師営会見所」という石碑が建っていたのだが、今は、その土台の部分だけは残っているものの、石碑はなぜかなくなっている。

  右は、中庭の隅にあるナツメの木。ステッセルが会見所に乗ってきた馬がナツメの木につながれ、乃木将軍に贈られた。この木は3代目の木だが、木の場所は同じである。

 

 

 

 

 

 

  会見所の中は、入口の左右に部屋があり、右手が日本側、左手がロシア側の部屋。会見は、ロシア側の部屋で行われた。

  ロシア側の部屋に残された机。この机の板は、会見のときの模様が記録されている。

 

 

 

 

  ロシア側の部屋には、乃木とステッセルら両国代表の集合写真、日本側の部屋には、戦争当時いろいろな写真などが展示されていた。

  続いて203高地に向かった。いったん、旅順の旧市街を通るので、間近に、港や白玉塔それに日本統治時代の建築物が目に入る。写真撮影は禁止なので、しっかりと見ておいた。  

 

 

 

  203高地へは駐車場から十数分、坂道をあがらなければならない。そのため、車を降りると、待ち構えていた駕篭かきが駆け寄ってきて、籠をすすめられたが、無視。しかし、ひつこくついてくる。なかには、坂道を少し歩いて、籠に乗る人もいるのだろう。

  それほどきつい坂道ではないが、すでに気温が高くなっている時期なので、ふーふー言いながら頂上に到着。ガイドの呂さんも、いつもここは大変だ、とのこと。

  日露戦争で日本海軍によるロシア旅順艦隊の攻略ができず、陸地から旅順艦隊の攻撃をするために、日本陸軍がロシアの旅順要塞をまず攻撃することになった。

  1904年秋から、旅順周辺のロシアの要塞に対する日本側の攻撃がはじまったが、日本、ロシアともに多数の犠牲をだすさまじい戦闘になった。

 

 

 

  結局、乃木将軍率いる日本陸軍が、203高地を占領し、ここからロシア旅順艦隊を攻撃し、ロシア艦隊は壊滅した。残ったロシアの要塞も弱体化し、ロシア軍司令官ステッセルは、兵力をかなり残したまま降伏した。

  その後、ロシアの租借地であった旅順・大連は日本の租借地となったのである。

  203高地の名は、高さが203mであることからつけられたものである。戦後、乃木将軍は、高地に散乱していた砲弾を集めて、それを利用して銃弾の形をした記念碑を建て、戦死者の霊を弔った。

  爾霊山の字は乃木将軍が書いたもので、203の音に近いことに、戦死者を弔うという意味をこめて爾霊山とされたようである。右の拡大図を見ると、ロシア文字が見えるが、何なのだろうか。

 

 

 

  203高地を訪問した日はきれいに晴れていて、旅順港がきれいに見渡せた。写真の右のほうに島のようなものが見えるが、これは半島である。この半島によって、旅順は入口の狭い湾になっている。そのために、旅順口といわれるようだ。日本軍は、旅順港の入口に廃船を沈めて、湾内にいたロシア艦隊が外にでれれないようにして、攻撃をおこなったのだが、外と出入する口はたいへん狭いことがよくわかる。

 

 

 

  左は、上の画像の左端あたりを拡大したもの。

  山頂に塔がみえるが、これが白玉塔。この塔も、戦後に戦死者の追悼のために、乃木、東郷将軍が建てた塔で、こちらは高さ66mもある。

  旅順市内を車で通過したときに、市街地のすぐ上にこの塔が見えた。

 

 

 

 

 

  右は、旅順港の部分を拡大したもの。船も見えるが、軍の船なのかよくわからない。

  旅順市街を見ると、あまり大きな街ではないことがよくわかる。

  

 

 

 

 

 

 

 

  203高地にあった日本軍の榴弾砲。このすぐそばには、今は使われていない展望台があった。

  駐車場のそばには203高地陳列館があった。日露戦争では、日本軍とロシア軍によって、中国人の虐殺があったという展示などがあった。

 

 

 

 

  203高地の見学を終え、16時30分に車は大連に向かう帰路についた。

  この車中で、この日のツアーに満足した自分は、JHCでホテルを予約した場合の大連市内の無料ツアー、翌日のものはOKか聞いてみた。

  呂さんは、すぐにどこかに連絡をとってくれて、いけることになった。翌朝8時35分にシャングリラホテルに集合ということになった。

 

  1時間弱で(25)大連駅(大連駅)の近くまで戻った。大連駅は、上野駅に似ていると言われる。1937年竣工当時のまま、現在でも活躍している。

  下車した客は1階から外に出て、乗車する客は2階から中に入る仕組みになっているのが、当時としては斬新であったらしい。

 

 

 

 

 

 

  大連駅の横の地下道を通って、駅の裏側に行ってみた。暗い地下道であったが、さまざまなものが路上販売されていた。

 

 

 

 

 

 

 

  駅の裏手にはバスターミナルがあった。ちょうど、南京行きの寝台バスが発車するところであった。 

  経済開発区などに向かう快速電車の駅があった。この電車で経済開発区まで行って折り返し戻ってこようかな、と思って、切符を買いかけた。

 

 

 

 

  この快速電車、大連の始発が6時、終発が20時。この列車の終端駅である金石灘の始発は6時、そして終発は何と18時30分だという。

  すでに、18時前なので、経済開発区まで行って、逆向きの最終電車で戻れるかなと不安になり、乗車は断念。でも、翌日に乗るならいい方法が思い浮かんだ。その方法とは、、

 

  

  中山広場まで戻ると、旧横浜正金銀行がライトアップされていて美しい。

  薄暗くなっていたが、広場で遊ぶ人の数も昼間よりも多いようだ。

 

 

 

 

 

 

 

  この日の夕食も前日と同じく天天漁港に行ってみた。昨日に比べて、ずいぶんとすいていた。ビールは、青島牌酒の純生を注文。15元(約225円)。

  料理のほうは、まず何かの水産物らしきものの皮をゼラチンで固めた冷菜。12元(約180円)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

  そして、海産物ときのこ類を炒めたもの。48元(約720円)。

  満腹になり、ホテルに帰った。翌日は、無料ツアーを使うことにしたので、特に、コースを考える必要はない。ツアーの前にチェックアウトしてしまうので、荷物の整理をして、休んだ。

 

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