2 日 目 後 半 【 5 美齢宮 】
明孝陵を出たのが13時。次ぐに行く美齢宮へは、乗り換えなしで行けるバスがないと思っていたので、距離はわずかだが、いったん中山陵まで戻り、乗り換えて美齢宮に向かった。実は、乗り換えずに行けるバスがあったことが、美齢宮から次のところに向かうバスを待っていて気付いた。 正式には、「国民政府主席官邸」だが、その主が蒋介石と妻・宋美齢であった期間が長かったためか、美齢宮という通称名がついている。
玄関脇には、宋美齢の使った車が置かれていた。1920年代製のフォードだという。 下は、夫妻が客をもてなした大広間で、凱歌堂という名がついている。
下は、宋美齢の寝室で、画像の左手にベッドがあった。宋美齢の使った鏡などが保存されている。
バスルーム。
宋美齢重要年表、日本語にしてみました。 1897年3月 上海で出生。 1907年7月 上海を出発し米国に留学。 1917年春まで。 1927年12月1日 蒋介石と上海で結婚。 1931年 美齢宮建設。蒋介石とここに滞在。 1936年12月 西安事件発生。西安に赴き平和的に解決。 1943年 重慶から米国に赴く。米国の援助を得る。 1943年 蒋介石とともにカイロ会談参加。
1949年 南京を離れ台湾に移る。 1974年 国民党が中山勲章を授与。 1975年4月 蒋介石が台湾で死亡。米国に移る。 1997年3月 ニューヨークで100歳の誕生日を祝う。2003年10月24日 ニューヨークで死亡。 宋美齢が西安事件で果たした役割や米国の援助をとりつけたことを、現在の中国でも重要視していることがわかる。 左は100歳のとき祝電を見る宋美齢。
【 6 南京博物院 】 る美齢宮についで向かうのは南京博物院。路線バスに乗って、中山門で降りるとすぐだ。ここは1933年に開館したのだが、当時は中国の中央博物館的な性質の博物館だったのだ。当時は首都。そこを代表する博物館だったから。 しかし、革命直前、収蔵品の多くが台湾に運ばれ、今は台北の故宮博物院にある。それでも、館の名称は、博物館じゃなく博物院で、ほかの博物館とは少し違うんだよって、主張しているような印象を受けた。 院の敷地に入ると、正面奥に古い宮殿風の建物、左手に宮殿風だが新しい建物があった。古いほうが本館で、新しいほうは特別展でもやっている新館だと思い、奥の古い建物に向かった。 、 ところが入ろうとすると、雰囲気がちょっと違う。おかしいなと思いながら入ろうとしたら「遊客止歩」の表示があり、警備員に、あちらへ(ということだと思う)と新しいほうを指差された。それで、新しいほうの建物に向かった。
館内もとても新しく、博物院という古めかしい名前に似つかわしくない。予想外にも、最新式の博物館であることに驚いた。それもそのはず、1999年の完成だ。 ただ、台湾の故宮博物院への収蔵品移転のため、多くがその後に発掘されたものだという。とはいえ、自分にはその違いはわからない。磁器、木工品、書、、と分野別に展示室が分かれているのは、台北の故宮博物院と同じだ。
展示方法にも工夫がしてあって、館の真中に吹き抜けコーナーがあって、館内は明るい。左は、磁器コーナーだが、窯も展示されていた。また、吹き抜けには中国風の庭園も造られていた。 名前を忘れてしまったが、織物のコーナーには、巨大な織機があって驚いた。その実演をやって、できた手織り製品をその場で販売していた。
【 7 総統府 】 再び、路線バスにて、総統府へ。わずか3kmの距離を30分ほどかかる渋滞だった。バスで通った中山東路は地下鉄2号線が予定されているが、現在のところ、工事は始まっていな かった。 総統府で下車して、少々歩くと、総統府の入口があった。この入口には見覚えがあった。台北のどこかの展示で見ていたからだ。 中華民国の首都が南京に置かれていた時期、その政治の中心がここであった。
入口を入るとまず、古風な建築物があって、びっくり。入口とは対照的だ。 実は、ここは、清末におこった太平天国の乱のさいに、天王府が置かれたところでもあるのだ。そこが後日、総統府になったわけだ。
古風な建物群をいくつか抜けると、突然、コンクリート製のビルが出現。1927年以後の南京国民政府の中枢部である。右は、外国賓客の応接室。
左は、蒋介石の弁公室(執務室)などがある建物。
右は、蒋介石の弁公室(執務室)。肖像画など、昔のまま保存。意外と小さく質素であった。ここは、すごい人気で、入口から中をのぞくことが、なかなかできなかった。
左は、会議室。中心の席が蒋介石の席。
右は、行政院。内部は、中華民国時代の行政機構などについての展示。
左は、辛亥革命後、孫文が臨時大総統に就任したとき、孫文の弁公室(執務室)が置かれた建物。 総統府にやってきたのは15時30分。閉館の17時までに見られると思っていたが、予想外に敷地が広い上に、展示がたくさんあった。17時になっても追い出されず、17時30分まで見学できたのだが、ついに孫文の弁公室(執務室)は、時間切れで入れずじまい。
煦園(くえん)は、明代から南京を代表する庭園であった。この庭園も、総統府の中に組み込まれている。 このほか、太平天国の指導者である洪秀全の紀念館、孫文の寝室、蒋介石時代の防空壕などもあった。展示を含めて、きっちりと、見ていくなら2時間30分から3時間かかりそうな充実した内容であった。 入場料は40元(約600円)の価値が十分にあった。 【 8 明故宮 】
すでに薄暗くなってきていたが、明故宮に向かった。夜でも入場できるからだ。 明代は、永楽帝の治世の途中まで南京が都、途中から北京が都になる。北京の故宮は現存するが、南京の故宮は礎石や午朝門が残っているだけで建物自体は残っていない。 故宮の遺跡は、公園の部分が中心であるが、市街地になっている部分にも広がっている。
入場料は1元と安く、地元向けの休息場所といった感じの利用者が多かった。 見るべきものはなかったが、安かったので、がっかり感はなかった。
館のひとつ 者で、当時、国立中央研究院院長 多くのバス停は、幅が狭くて、細長かった。しかも、系統ごとにどの場所に止まるかは決まっておらず、どこに止まるかわからないので、バスが止まるごとに、人々が移動する。これは、中国では他の都市でも普通だそうだ。
バス停の系統案内板は大きくて、夜は明るくて見やすかった。上海で見た案内板は、小さくて、夜は見にくいにもので、この点については南京のほうが進んでいる。 この日、回ったみどころは、広大なところが多くて、見学時間が予想外にかかり、8時から18時30分まで歩き回った。しかも、昼食を食べている余裕もなかった。気付いてみれば、空腹であった。 夕食は、新街口の餃子屋でとることにした。いろいるな店を回って、結局、昨日と同じ店に入った。注文したのは、餃子2種類、小籠包、草鶏湯(チキンスープ)。
食後、新街口の繁華街を散歩。路上の噴水などもあって、楽しかった。 このあと、ホテルに戻り、翌日のために、バスの系統の研究に没頭。めて
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