2 日 目 前 半  

  

  今回、ホテル料金には朝食は含まれていなかった。料金によって、含まれていたり、いなかったりするようだ。せっかくだから、ホテル外の屋台で朝食をとることにした。

  ホテルのすぐ近くに、3、4軒、屋台が出ていた。クレープ状のものに、卵をひろげ、さらに漬物風のもの、野菜、香辛料をおき、最後に油條を2本載せて、巻いたもの。何という料理名なのだろうか。あちこちで、この屋台はあった。2元(約30円)だ。

 

 

 

 

 

  左は、食べる前で、右は食べている途中に撮ったもの。香辛料がきいて、食がすすんだ。 分量も結構、多かった。

  新街口のバス停から、路線バスで中山陵に向かった。南京の路線バスは、運賃が1元のバスと2元のバスがあった。この旅行では、何度も路線バスに乗ったのだが、最初のころは、入口のところに、運賃が書いてあるので、わずかな時間に運賃を読み取り、運賃を運賃箱に入れていた。

  何度か乗るうちに、空調なしが1元、ありが2元とわかった。これは、言い換えると、古いバスが1元、新しいバスが2元ということだった。この日の午後には、車体を見ただけで、運賃がいくらか判断できるようになっていた。

  南京っ子はどうしているかというと、10人中、8、9人までは、現金ではなく、カードを読み取り機にあてて乗車していた。これが、電子マネーなのかプリペイドカードなのかはっきりしなかったが、カードの場合は、割引があるのだろうと思う。

  南京で乗車した路線バスは、全部がワンマンカーであった。前のり先払い方式だった。中国語でワンマンカーのことを、無人售票車ということもわかった。

  さて、中山陵まで行くこのバスは2元。中山陵まで30分ほどかかった。画像では、立っている人はほとんどないが、このあと少しずつ増えていって、結局、中山陵まで立ちっぱなしであった。

【 1 中山陵 】

  中山陵で下車、土産物店街を歩き、チケット売場へ。紫金山周辺には、明孝陵、中山陵、霊谷寺の景区があり、3つの景区の入場料は計105元なのだが、「連票」としてまとめて買うと、80元(約1200円)だった。ここだけではなく、中国では、交通費や食費に比べてみて、観光地の入場料などが相対的にきわけて高い感じがする。下の「連票」は1枚のもので、原寸大である。

 

孫文について

  中山陵は、清朝を倒した辛亥革命の指導者である孫文(字は中山)の墓である。 孫文は、1866年に広東省の現在の中山市に生まれ(中山市の名は孫文にちなんだ地名)に生まれ、ハワイで西洋思想を学んだ。その後、香港で医学を学び、マカオで開業した。

  その後、革命を目的として、1894年にハワイで興中会をつくり、翌年、広州で蜂起するが失敗し、イギリスに渡った。1905年に、他の革命団体と合流し、中国同盟会をつくって活動した。1911年、辛亥革命がはじまると、米国にいた孫文はすぐに帰国。1912年、中華民国が南京を首都として建国され、孫文は臨時大総統となるが、すぐに、宣統帝の退位とひきかえに、清朝の実力者、袁世凱 に総統の座を譲った。

  袁世凱 は、独裁をすすめ、孫文は日本に亡命した。1914年に日本で中華革命党を結成ののち、中国に戻り、1917年に広州に政権をおき、北京の北洋軍閥政府(袁世凱 の流れをくむ軍閥の実力者による政権)と対立した。この後、1928年に国民革命軍によって統一されるまで、中華民国政府は、広州政府と北京政府が存在していた。(現在、大陸でも台湾でも、北京政府は不法なものとして取り扱われている。)

  また、1919年には、五四運動を背景として、中国国民党を結成した。さらに、軍閥に対抗するために、蒋介石を校長とする軍官学校を創設した。1924年、中国共産党と協力して軍閥の割拠していた中国の統一をはかろうとした(第1次国共合作)が、1925年に死去した。広州の軍官学校、第1次国共合作のさいの国民党大会の会場などは、こちら

  孫文の死後、1925年に広州政府は広東国民政府となり、1926年に軍閥との北伐戦争がはじまった。北伐進行により、1926年に武漢国民政府、1927年に南京国民政府が成立した。このときに南京が首都になった。北伐戦争で国民党軍を指揮したのが蒋介石であるが、1927年、蒋介石は共産党を弾圧した。1928年、国民党軍は軍閥のなかで最後まで残った張作霖をやぶり、張作霖は満州に逃れようとしたが、その途上、日本軍によって列車を爆破され死亡。その子、張学良は蒋介石に従ったので、中国は一応、統一され、南京国民政府の主席に蒋介石がついた。

 

  中山陵は、孫文の死去の翌年1926年から29年にかけて建設された。左は牌坊。このあと長い参道が続く。

 

 

 

 

 

 

  参道を進むと、国民党葬が行われたとの碑があった。中華民国18年とあるが、1912年を元年としたもので、18年はすなわち1929年のことである。陵が完成したとき、葬儀が行われ、この碑が作られたのであろう。

  この碑堂の先に、大階段があり、上りきったところに、祭堂があり、その奥に墓室がある。

  青い瓦屋根がとても美しい。祭堂の正面上部の額の中には「天地正気」と書かれている。その下の、祭堂入口の上には、「民権」「民生」「民族」と書かれている。

  祭堂の中には、大理石でできた孫文像がある。この像の後ろが墓室になっている。

  

  祭堂の天井には、青天白日旗が描かれている。

  

 

 

 

  祭堂からの眺めは良いらしいが、自分の行った日は、南京市街がかすんでいて残念だった。

  墓室後方では、陵の建設当時の資料の展示が行われていた。左側に移っているドーム上のものが、墓室の外側。

  参道を戻る途中、修学旅行だろうか。上海の中学生の一団に出会った。

  

  

 

 

 

  【 2 孫中山記念館 】

   中山陵を出た後、静かな森の中を歩いて、霊谷寺景区に向かったが、その途中、脇道に入ったところに孫中山記念館がある。孫文についての資料が多く展示されていた。入場料10元。

 

【 3 霊谷寺景区 】

  さらに森の中を歩いて霊谷寺景区に入場。霊谷寺以外にもいろいろあって、まず霊谷塔に行った。

  霊谷塔は、中国古来の塔の形をしているが、そばまでくるとコンクリート製であることがわかる。実は、1933年にできたものだ。

  南京国民政府によって、北伐戦争と1931年から始まっていた抗日戦争(日本では満州事変)の戦死者のために建てられたものだ。正式な名も、「国民革命軍陳亡将士紀念塔」という。

  塔の上に上ってみたい気もしたが、かなりつらそうに思ったのと、眺めは中山陵からのものと変わらないだろうと思ったため、上らなかった。

  続いて、霊谷寺へ。ここは、景区の入場料とは別に、寺独自の入場料2元が必要。

  寺の境内に入ってみると、予想以上に賑やかであった。そして本殿の入口には、人が集まっていた。

  何事かと思って近づいてみると、たくさんのお坊さんが集まって、何かの儀式が行われていた。

  続いて、無梁殿へ。ここは、もともとは明代の14世紀の建物で、木の梁が使われず、レンガ造りだったため名づけられた。

  1933年、南京国民政府によって改修され、1926年からの北伐戦争と、1931年からの抗日戦争(日本では満州事変と呼ばれる)の戦死者3万3千人を祀った。中に入ると、巨大な位牌が置かれていた。

  

  無梁殿は、本殿にいってから参道を歩き、牌坊から敷地外に出た。牌坊の上部には、国民党のマークが鮮やかに入っている。

 

 

 

 

 

 

  

【 4 明孝陵 】

  次に、霊谷寺公園のバス停から明孝陵に向かった。

  明孝陵は、明の太祖 洪武帝、朱元璋の墓だ。南京で唯一の世界遺産である。

  ここも巨大で、景区の入口から、陵の参道の入口まで500mくらい、参道を歩いて、中心になる建物である方城まで500mくらいであった。

 

  方城は、名前のとおり方形をしている建築物だが、中には何も無く、拍子抜けであった。 屋上に上れるので、上ってみたが、単なる屋上でしかなかった。

  方城の背後にある、宝頂という丘の地下には、朱元璋の葬られた地下宮殿である玄宮があるといわれているが、まだ発掘されていない。

  

 

 

 

 

 

上左は、参道の最後の部分から方城を撮影したもの、上右は宝頂から方城を撮影したものである。 宝頂は、木や草の生い茂る単なる丘でしかなかった。

  このあと、洪武帝の次の皇帝、孝康皇帝の墓である東陵に向かったが、道を間違えてしまって、ずいぶん時間をロスしてしまった。そして、行ってみれば、広場があって、ところどころに礎石がある遺跡公園になっていた。わざわざ行くほどのことはなかった。もともと、中山陵や霊谷寺景区が予想以上に広くて、予定時間をずいぶんオーバーしていたのだが、ますます時間を食ってしまった。

 

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