4 日 目 乗継できず帰国遅れる |
いよいよ帰国日。龍門貴賓楼でいただく最後の朝食。メニューが豊富であったので、3日間、なるべく違う品を選んだのだが、まだまだ挑戦できなかったものがあった。もちろん点心もいただいた。下は朝食券。
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食後はいったん部屋に戻って、すぐにチェックアウトできるようにして、最後の街歩きに外出した。中央大街は3日連続して出かけたのだが、哈爾浜にはほかにもロシア建築がいろいろ残されている。それで、哈爾浜のメインストリートとも言える東大直街などに行ってみた。 |
下左 黒龍江郵政博物館。もとは「吉黒郵政管理局」。吉林と黒龍江の郵政の本拠だったってことかな。
下右 玄関から上を見あげると1922とあった。 |
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夜になると電飾がともされてルミナエになるのかな。
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ロシア人のはじめたデパート。瀋陽でも見たのだが、こちらが本店か。中に入ってみる時間はなかった。 |
教会の正面あたりは地下鉄工事をやっていて、歩道がなく、車道を歩かねばならず危ない。そういった中での撮影。地下鉄は東西の大直街を通るようで、哈站や中央大街には行かないようだ。
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下 東大直街。
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ここも地下鉄工事のために行きにくかった。上のプロテスタント教会よりも手前にあるのに、気づかず、プロテスタント教会を越えて先にすすんでしまった。地下鉄工事で教会の周りがトタン板で覆われてほとんど見えなかったためだ。 あとで気づいて、引き返して場所はわかったが、工事のために行き止まりになっている箇所があったりして、教会に達するまでが大変だった。 ちょうど礼拝をやっていたが、中をのぞくと、見るなといわんばかりに扉が閉じられた。 |
哈爾浜駅で銃弾に倒れた伊藤博文は、ここにあった日本領事館に運ばれ手当てを受けたが、亡くなったという。 |
下左 東西の大直街と紅軍街、中山路の交差点はロータリーになっている。かつてこのロータリーにはロシア正教の哈爾浜における拠点であった「サボール」があった。しかし文化大革命で破壊されて今はない。 下右 龍門貴賓楼で飾られていた「サボール」の模型。 |
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下 哈爾浜は地下街が発達している。 |
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左 博物館の前のほうにはソ連兵の慰霊塔があった。 下 雨が降っていたので、博物館のところからわずかの距離だがバスに乗ってホテルに帰った。
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すぐに空港バスの乗場に向かった。乗場まで行ったときにバスが出て行き次は11時40分のバスになったのだが、、 次に乗れるバスは12時20分だという。ガァ〜ン。14時30分発のアシアナ航空に乗るのだが、そのバスだと空港着は出発の1時間前ということになる。何か予期せぬことが起こった場合は対処しにくいので、タクシーに乗ることにした。 |
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一斉に客がなだれ込むのでチェックインカウンターの前にはまたたく間に長い列ができたが、さいわいスターアライアンスゴールドの効果で誰も並んでいないビジネスクラスのカウンターで手続きができた。そのあと、出国手続、保安検査ともあまり並ばすに通過できた。 |
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14時過ぎに搭乗。この日の国際線はこの便が最後。あるいはこの日はこの便が唯一の国際線だったのかもしれない。 下は搭乗機。この時点ではまさか出発が遅れるなんて思いもよらなかった。 |
遅い昼食として機内食をいただく。 |
インチョン空港では名前を書いた紙を持った係員が出迎えていた。関西行き3人、成田行き3人が乗り継ぐようだ。だが言い渡されたのは、乗り継げないということ。しかも他社便も全部出ているので、明日の便に振り替えとなるという。まだ、乗り継ぎ便の出発時刻前だったので、何とかならぬか言ったが、どうにもならない。 |
ミールクーポン1万ウォン分とトランジットホテルが提供された。まずはレストランに行って腹ごしらえ。
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シャワーを使ったりしていたので、眠ったのは3時間弱。電話で起こされて、トランジットホテルをチェックアウト。このホテル、インチョン空港で乗り継ぎのとき使ってもいいなと思った。 |
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![]() 上右 1時40分発の羽田行き。この便は月曜日のみ運航なので、日本国内の移動費用は自分もちで出費がかさんだものの、翌日便で関西へ行くよりも早く帰ることができた。 左 提供された席は、席だけビジネスクラス。それでもアシアナ航空のビジネス席を体験することができてよかった。 |
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![]() 上右 関西近くを通りながら羽田へ。 左 3時30分ごろ羽田着。このあと朝一番の京浜急行で品川へ、そして朝一番の品川発の東海道新幹線で帰宅した。最後の最後に大きなアクシデントがあっての帰国となったが、思い出として残ることになろう。 |