3 イースター島(島中部の遺跡)
 
 パペーテ0時30分発のラン航空サンチャゴ行きに搭乗する。この便は、イースター島(スペイン語ではイスラ・デ・パスクア)経由で週2便運航されていて、南米からのタヒチへの観光客輸送、タヒチ経由で日本などからのイースター島への観光客輸送、チリ国内客やチリ経由での各地からのイースター島への観光客輸送の3つの役割をかねている。

 チケットはJALに電話して、パペーテまでと一緒に調達した。ラン航空の正規割引運賃的なもののようだ。ワンワールド同士のメリットはチケット購入などの際にも発揮される。
 搭乗して拍子ぬけだったのは、座席の半分程度の乗客だったこと。週2便というから、チケットを取りにくいと思っていたが、そんなことはない。それは、8月は冬なので、イースター島はシーズンオフだからだ。だが、日本人はこの時期に行く人は多いので、日本人はかなり目立つ。

 水平飛行に移ってすぐにクロワッサンと飲み物が出され、イースター島に着く1時間ほど前に機内食が出された。

 
 タヒチからイースター島は2641マイルなのだが、これは関空・バンコクとほぼ同じだ。

 出発がやや遅れたが、余裕時分がみてあり、到着は定刻の9時45分。所要時間は5時間15分なのだが、時差が4時間あるためこうなる。日本とは15時間遅れ。19時間が15時間になって、何が何やらよくわからない。

 この空港、スペースシャトルの緊急着陸に利用されるとかで、長大な滑走路がある。でも、まだ緊急着陸で使われたことは一度もないらしい。
 着陸寸前にスコールがあったとかで路面がぬれていたが、ターミナルまで歩くときにはあがっていてよかった。

 このあと3日間、断続的に小雨に見舞われることになった。でも、スコールはなくて幸いだった。

 入国審査で少し並ばされたが、税関は通過だけだ。すぐに手配を依頼していた旅行社(アンデス日本ツーリスト)のガイドに出会い、すぐにミニバンに乗り込む。だが、ほかの客の荷物がなかなか出てこず、待った。
 上は、ターミナル。左手が到着の際に出てくるところ。標識の右手が出発の際に入るところ。

 空港からホテルを回りながら、宿泊するホテルへ。空港はホテルから歩ける距離にあり、すぐに到着。11時前にホテルに到着。

 左は、宿泊したホテルマナバイ。ゲストハウス的なホテルだ。手配の際、一番安く予約できるホテルということで、ここを手配してもらったのだ。もっと安そうなところもあったが、旅行社では取り扱っていないようだった。
 上に犬が写っているが、犬が島のあちこちにいて、とても多い。でも、吠えることはほとんどなく、相手にならなければ安全だ。

 右は、部屋の中。まずは、シャワーに浴びて、一休み。

 この日のツアーは15時に出発する。それまでの間に、キャッシングまたは両替、昼食、村の散策をすませたい。ここは街ではなく、ハンガロア村という村だ。人口は4000人ほどらしい。 

 12時過ぎにホテルをスタート。まず行ったのが銀行。最近はATMがあれば両替しないでキャシングをするが、どういうわけかこの日はATMを避けた。それで、店内で両替をしようとした。ところが、両替は専用の窓口でやっているのではなくて、ほかの業務もしている窓口が兼ねていた。そこに現地の人の長蛇の列。

 レートを確かめておいて、一般の商店で両替をした。銀行よりはレートが若干悪かったが、仕方がない。並ぶことを考えると。100ドルが約5万ペソになる。3日間をこれだけで過ごそう。(ホテル代、ツアー代は支払済みなので、食事代などだけに使う。)なお、ドル払いもできるのだが、どんぶり勘定になりがちなので、現地通貨を手に入れておきたかったのだ。

 次に昼食。「ティア・ベルタ」というエンパナーダが人気の店へ。飲み物は、エスクード500ペソ(約330円)。
 料理はもちろんエンパナーダ。ツナのと、シーフードのを注文。シーフードはえびやタコが入っていた。1つ2000ペソ(約440円)。

 ロシアのピロシキのような感じで、揚げパンの中に具が入っているものだ。チリ本土では中に肉を入れるのだが、イースター島では、肉を入れたもののほか、ツナやシーフードのものもあるのだ。

 予想外に大きくて2つ食べるのは、やっとだった。周りを見ると、みな1人で1つだ。
 左上、昼食をとった店。

 上 村のメインストリート、、、っていうにはあまりにも寂しいのだが。

 左 カトリック教会の中。

 イースター島らしいのは、祭壇の向かって左手にモアイ風の木彫りが置かれていることだ。
 右は、カトリック教会から西方向を見たおの。海が道を下って行った先に見えているのがわかるだろうか。

 ツアー出発までまだ1時間あったのだが、散策はこのくらいでやめ、ホテルに戻って一休みすることにした。

 15時前からホテルの入口近くのロビーでバンがくるのを待ったが、いくつかのホテルを回ってくるため、しばらく待たされた。
 今回、イースター島の観光は現地の混載ツアーを旅行社で予約しておいた。そのさい、日本語ツアーを避け、英語ツアーにした。日本語ツアーは値段が高いことと、なるべく日本人と一緒になりたくなかったから。

 英語ツアーにも日本人は何人か参加していたが、少数派であった。ただ残念だったのは、英語ガイドはスペイン語ガイドも兼ねていて、ますスペイン語、ついで英語だったこと。十分見学できない場合があり、どうしたって完全には理解できない説明は聞かずに、いきなり見学や撮影したことも多々あった。
(1)アフ・アキビ

 
最初に、7体のモアイが海に向かって立っているアフ・アキビ。ほかのところのモアイはすべて海を背に立っている。右の画像で、左の真ん中に少し海が見えるのがわかるかな。

 どうして、海の方を向いているか、最初にこの島に渡ったホツマツア王の王子たちが故郷の方角を見ているという考え方や春分・秋分の日に太陽が沈む方角を見ているという考え方があるが、はっきりしないという。
 この島に最初に人が渡ったのは、5、6世紀ころらしい。伝説では、最初に渡ってきたのがホツマツア王。

 モアイは8世紀から作られ始めた。モアイは村の守り神であったから、アフ(祭壇)の上に立てられていて、アフ・アキビ以外は、海を背にして、陸の村を見ている。眼からの眼力が村を守ると考えられたらしい。

 しだいに人口が増えて行き、18世紀に食糧難が襲った。そして、村同士の争いがおこり、モアイを倒しあった。これが、モアイ倒し戦争だ。
 その後、19世紀には、スペイン人が来航するようになり、キリスト教が強制され、島独自の文字であったロンゴロンゴが書かれた木片などは焼却された。このころ、奴隷狩りも行われ、大部分の島民が奴隷として連れ去られ、また、外から入り込んだ病気のために一時は島の人口は111人になった。

 モアイの修復が行われはじめたのは20世紀に入ってから。とくに盛んになったのは、20世紀末の世界遺産登録の前後からだ。
 (2)アナ・テ・パフ

 
アナとは洞窟のこと。イースター島には洞窟がたくさんある。その中で、一番大きいのが、ここだという。

 一見、野原に見えるところに、穴に下るところがある。時々、小雨が降るような日だったので、滑りやすくて怖かった。

 下まで降りると横穴があった。その穴の入口、画像では右下の右手(画像はなし)にかまどの跡があった。
 戦いのときなどの避難所として使われたところだという。

 横穴を抜けきると、左の画像のようなところに出る。この先にさらに洞窟の入口があるのが見える。

 左の画像には植物が写っているが、こうした、上空が空いているいところでは農作物の栽培が行われたという。実際、バナナの木が残っていた。
(3)プナ・パウ

 ここは、小高い丘。丘のあちこちに、赤い石の塊がごろごろしている。右の画像の石は、人の背くらいの高さがある。

 これは、プカオを作りかけて、そのまま放置されたものだ。プカオは、モアイの上に帽子のように載せられる大きな石のこと。帽子じゃなく、髪を結っているとの考えもある。

 どちらにせよ、色は赤と決まっている。それで、赤い石のとれるプナ・パウでプカオが作られたのだ。 
 草の生えていないところを見ると地面も赤っぽい色をしていた。

 右上の画像で、丘の頂上が見えるがそこまで上った。

 頂上からの眺めが右の画像。海が写ったいるのだが、空と見分けられないのが残念。海岸近くがハンガロア村。ここから見ると家が密集していなくて、パラパラと建っていることがわかる。
 (4)アフ・ピナプ

 左の画像にモアイがあるのがわかるだろうか。5体写っているのだが。そう、うつぶせに倒されたままになっているのだ。手前が頭で、顔が地面にくっついた形になている。

 これらもアフの上に立っていたのだが、モアイ倒し戦争で倒されたままになっているのだ。

 この向こうに海があるのがわずかにわかる。ここも海を背にしていたのだ。
 海岸側に出てアフを見ると、一部にインカの石組を連想させる石組が残っている。

 イースター島の人たちが南米から来たという説もあり、その理由としてこの石組みが使われるそうだ。

 ただ、DNA鑑定の結果、やはり島の人はポリネシア系だというのが定説になり、今では、インカの影響を受けて作られたとされている。
 ホテルに戻ると18時過ぎ。夕食に出るまで一休み。

 20時に外出。この日の夕食は、ホテル近くの「メラヒ・ラア」でとった。

 今度のビールは「クリスタル」。このビールと昼のものが一般的なようだ。

 昼食に食べたエンパナーダがまだ胃に残っているようで、やや食欲がなかった。それで、セビーチェを注文。6000ペソ(約1320円)。 
 マグロを角きりにして、少しの野菜と和えたものだ。

 セビーチェはペルーでも食べたことがあるが、ペルーのときと比べて、魚の割合が多いことと、辛くないことが違っていた。

 ホテルに戻り、シャワーを浴びて休もうと思ったころ、量が少なかったのか空腹に思えきた。それで、持参した菓子でしのいだ。
 

2へ  タヒチ&イースター島のトップ  ユーラシア紀行のトップ  4へ