part1 - 1日目前半     

  

関西空港より日本アジア航空で台北へ。機内食は牛肉のソテー オイスターソース添えをチョイス。結構、上出来だった。数日前、ソウル行ったときには機内食がまったくでなかったので、なぜか感激。

4年ぶりの台湾、中正機場(空港)。中正とは蒋介石のことである。1970年代まで台湾は蒋介石そのものといった感じだったが、その死後の1990年代、民主化とともに、228事件など蒋介石時代の暗部が明らかになった。しかし、彼の時代が否定されるにはいたらず、中正紀念堂といった巨大施設 をはじめとして、中正の名前がついたものが今でも多く残されている。

中正機場から台北市内への空港バスはいくつかのバス会社が運行しているが、台北車站(国鉄駅)行きは、国光客運が運行している。バス会社は、○○客運を名乗っている。面白かったのは、大都会客運という会社。日本でいえば、大都会バスというネーミングだ。

空港から淡水河を渡り台北市内に入るまで30分ほどだったが、その後、台北車站までが時間を要し、結局、空港から60分ほどかかった。

下車後、台北站構内を横切り、宿泊先の華華大飯店に向かった。立地のよさと価格の安さからこのホテルを選んだ。外観は古い感じがぬぐえないが、部屋はリフォームされ満足のいくものだった。

短い日程の旅であるので、到着日もできるだけ歩き回りたいので、荷物を置いてすぐに外出。14時にこの日の街歩きスタート。

最初に、228和平公園へ。もともと日本統治時代につくられた公園(日本統治時代のことを、 中華民国の立場では「日拠時代」と言っていたが、近年、独立派は、「日治時代」という言い方をはじめ、228紀念館でも「日治時代」という言い方をしていた。このほか、「日本時代」という言い方もよくなされているという。ちなみに、韓国では 「日帝時代」と言っている。) で、かつては台北新公園という名であったが、民進党から総統に当選した陳水扁が台北市長であった1997年に、228事件を記念する公園につくりかえられた。上の画像は、228記念碑。   

228事件

1947年2月28日、台湾が日本から国民党政府の支配に成り代わってまだ間もない時期であった時期に、国民党政府の腐敗や抑圧政策に抗議した人たちのデモに対して発砲した事件である。

当時は、国民党政府が、南京にあり、また国共内戦では、国民党が持ちこたえていた時期であった。国民党政府は、この事件を、台湾が独立が企てているものとみなして、応援部隊を大陸から派遣し、台湾に戒厳令を敷いた。そして、多くの人を処刑、投獄した。

その後、1949年に国民党政府は、共産党に追われて台北に移転したが、国民党政府は、反政府派・独立派に対する弾圧を続けた。(戒厳令がとかれたのは、40年後、蒋経国時代の末期、1987年。228事件を糾弾する集会がはじめて開催されたのも1987年で、それまではこの事件にふれることは台湾ではタブーであった。なお、国民党以外の政党が認められ民進党ができたのは1986年。)

公園内には、228紀念館がある。228事件の詳細について展示しており、台北のどこで何があったのか、日本語の解説はないが、かなり理解することができる。

また、ここでは、台湾が中国とは別の独立した存在であることを主張した展示をしている。弾圧した側である国民党が主張してきた「台湾は中国の一部」を否定している。

また、日本統治時代を肯定的にとらえているように思った。(中正紀念堂や国父紀念館などの展示では、展示物が少ないが、日本統治は否定的にとらえているように思えた。ただし、韓国の一部の博物館や中国でみられる、極端な誇張などは感じなかった。)国民党時代を否定するためには、日本統治時代を肯定的にとらえる必要があるのだろうが、こうした展示はほかの国ではみかけないもので興味深かった。

たまたま、今回の訪台の初日、大陸中国で60年ぶりの国共トップ会談や国民党創始者孫文が眠る南京の中山陵訪問を果たした国民党主席の連戦が台湾に戻り大歓迎されているのをこの夜のテレビで見た。同時に訪問に反発する集会も報じられていた。出発時には、空港で両派の乱闘もあった。228紀念館とそれに反対する立場の中正紀念堂が並存する現状が当分続くだろうと思った。

228紀念公園から中正紀念堂に向かったが、途中、今は野党になった国民党の本部ビルがあった。ビルの正面に掲げられている青地に白い太陽は、国民党のシンボルである青天白日旗である。中華民国の国旗は、この国民党のシンボルを左上に配して、残りを赤地とした、青天白日満地紅旗であるが、一般には、こちらが青天白日旗と呼ばれる。ビルの屋上には、青天白日旗と 青天白日満地紅旗がたくさん掲げられていた。

 

台湾の旗

ところで、独立派はこの国旗に拒絶反応を持っている。国民党のシンボルを国旗に配している点と、この国旗のもとで大陸からの外来政権である国民党政府が台湾を占領してきたという考えからであろう。一方、国民党の側は、辛亥革命以来の伝統ある旗として尊重している。

 
青天白日満地紅旗(通称「青天白日旗」)=中華民国国旗   青天白日旗=中国国民党旗

以前、自分は、台湾の旗が上左の旗と考えていた時期があった。また、日本ではそのように思っている人も多いのが現実である。しかし、厳密に言うなら、「かつては中国全土を統治したが、今は台湾だけを統治している中華民国の国旗」であって、台湾の旗ではない。独立派は、集会などで下のような「台湾旗」を用いているという。今回の旅では見かけなかったが、、

台湾旗(独立派が使用し、将来の国旗を目指している)

陳水扁政権では、中国の反発を避けて、国旗や国名の変更はしないとしているが、現在の国旗や国名を良くは思っていないようである。自国民のパスポートの国名をTAIWANとしたというので、次は外国人の出入国のスタンプを現在の ROC(Republic of China)からTaiwanに変更するかもしれない。

公的機関や国営企業の名称も、以前は、中国○○○○や中華○○○○が原則だったが、最近は、台湾○○○○という名称が認められているようだ。4年前、台北の書店で見た地図では、首都は南京になっていたが(ちなみに北京ではない。また、北京は北平と表記されていた。)、最近は台北を正式な首都として扱っているそうだ。こうしたことを通して、次第に、台湾の脱中華民国は進んでいる 。

 

続いて、中正紀念堂にやってきた。蒋介石を記念したもので、上は門。この門を入り300mほど歩いたところに巨大な紀念堂がある。

階段は89段で、89歳まで生きた蒋介石の年齢にあわせてある。巨大な紀念堂には、蒋介石の坐像がおかれていて、それを衛兵が警護している。

1時間ごとに警護の兵士の交代があり、それにあわせて交代の儀式も見学した。警護は陸軍、海軍、空軍でかわるとのことだ。白い制服だったので海軍だろう。そういえば翌日行った忠烈祠は空軍だった。国父紀念館の儀式は見られなかったが、陸軍だったのかな。

さらに、蒋介石が乗った車も展示されている。こうしたことから蒋介石は独裁者であり、死後もその権威を誇示しているような印象を受ける。しかし、一方で228紀念館という彼に反対する立場のものも存在しているのが興味深い。

蒋介石の執務室の復元も展示されている。そこには人形の蒋介石もいる。この人形や、蒋介石の活躍を示す写真パネルを見て思ったのは、ほとんど中山服(大陸で言う人民服)を着ているというなぁということ。

人民服は何となく大陸中国で毛沢東の指示で広まったような印象があるが、中山服とも呼ばれるように(中山は孫文のこと)、孫文が考案したもので、孫文の後継者を自認する蒋介石も、中山服を着ていたのだろう。彼の着ていた中山服の実物も展示されている。

続いて、国父紀念館。孫文は、蒋介石よりも一段上の存在だと考えられてきた。それで、台北には、孫文にかかわる記念館も巨大なものがある。MTRでここに行くと、裏口から入ることになる。ここに着いたのが閉館まぎわ。

そのため、巨大な孫文像やそれを警護する衛兵を見ることができなかった。それでも、内部の孫文に関する展示を見た。

なぜ、国父なのか。台湾は中華民国。中華民国の創始者は孫文だからだ。孫文は存命中に2回、台湾に来ているだけで台湾とのかかわりは大きくない。しかし、蒋介石の国民党政府にとっては、その正当性をアピールするためには、孫文を国父として奉り、その正当な後継者が蒋介石だといういうことにしなければならなかった。

ところで、独立派にとっては孫文はどんな存在か。国民党政府は、外来の好ましからざる政権であったので、その創始者である孫文も国父でないとされる。

しかし、多くの町では、道路の名称で、中山路は中正路とともに一般的に見られるし、台北では、大通りに、民権路、民生路、民族路がある。 いうまでもなく、孫文の主張した三民主義=民権主義、民生主義、民族主義からとられた道路名である。そのほかいろいろなものに中山の名称は中正とともになづけられている。

 

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