灼熱のウズベキスタンを行く(2)

【ウズベキスタン最初の朝】

 ウズベキスタン最初の朝を迎える。昨夜に比べるとかなり涼しい。早朝に限れば、日本よりもしのぎやすそうだ。窓から見えるのは、ホチルの中庭と裏門のみ。ホテルの従業員が出勤してきたり、荷物を運ぶ車が入って来たりするのが見えるが、立木のために、市内の風景を眺めることはできない。路面電車の通る軽快な音が響いているが、その姿も見えない。

 朝食は8時からというので、8時にレストランへ行ってみたら、すでにたくさんの人が食事をしていた。昨夜は閑散としたホテルだと思っていたのだが、これだけの人たちが泊まっていたとは。入り口で朝食券を渡そうとすると、席で渡すようにというようなことを言われたようだ。なにしろ、何を言われているのかさっぱりわからないので。

 ところが、待っても待っても、自分のところには皿が運ばれてくる気配がない。斜め前のテーブルに座っている、自分よりも後からやってきたロシア人の観光客らしいグループにはどんどん料理が運ばれているのに。わざと後回しにされているのではないだろうか。相席のロシア人も食事が終わって出ていったのだが、その後片付けはしているのである。

 レストランに入って30分、朝食券を渡して15分くらいたって、イライラしていたところ、ようやく皿が運ばれてきた。そのころ後からやってきたロシア人のグループは食事が終わりかけている。ナン、チーズ・ハム、目玉焼き、ジュース、チャイ程度のごく簡単なものであるのになぜこれほど時間がかかるのか。

 食事自体もおいしいとは思えなかった。チーズは羊のものであろうが味がほとんどない。一切れ食べただけで、あとは食べ残す。ナンもたいへん堅く自分の口にはあわない。ただ良かったのは、チャイが日本の番茶のようなものだったことだ。ほとんど日本で飲むお茶と変わりがない。その後、いろいろなところで出されるチャイはいずれも日本を思い出させるものであった。飲み方も日本と同じで、何も入れないで飲むようだ。

 レストラン内を見渡すと客の多くはロシア系と思われる白人が多い。一見して西欧系であるとわかる白人もいるが、日本人は他にはいない。ずっと以前は、日本のパッケージツアーでも使われていたらしいのだが、現在では使われていないのだろう。部屋といい、レストランのサービスといい、パッケージツアーで使えば、不満続出間違いなしであろう。

 わずかな食事に40分かけ、悲しい思いをつのらせてから、ホテルをチェックアウトする。3階のサービスカウンターのようなところのおばさんに鍵を返すのだろう。鍵を持っていくと、ちょっと待つようにといわれた(言葉はわからないが、そのようにいわれた感じ)。おばさんは、どこかに電話をしている。部屋で電話を使っていないかとかを調べているのだろう。OKということで、ホテルを出る。フロントに寄る必要はない。

 今日は、ウズベキスタン航空の国内線に乗って、ウルゲンチに向かい、そこからタクシーでヒワへ行く予定だ。国内線の出発時刻は、12時40分で、ガイドから11時30分までに空港に着くようにと言われている。まだ、9時過ぎなので、1キロほど歩いて市内バスのりばまで行き、路線バスで空港に向かうつもりだ。十分に時間はある。

 ホテルの玄関を出ると、たちまちタクシーの声がかかるが無視する。その瞬間、車が当たりかけて怖い思いをする。玄関の前はホテルの敷地だと思っていたのだが、道路であったのだ。


【市内バス乗車を断念】

 どこの国へ行っても、できるだけ公共交通機関を利用するように心がけている。それは、その国の人々の生活に少しでも触れたいため、また、町のようすを身をもってわかるようにしたいためだ。

 公共交通機関といっても、鉄道(地下鉄含む)は乗りやすい。駅の位置はわかりやすいし、切符売り場もすぐにわかる。時刻表も日本で慣れていたら、外国もほぼ同様の感覚だ。しかし、バスは鉄道に比べて難しい。乗り場自体がわかりにくいし、切符はどこで買うのかとかどうやって乗るのかもわかりにくい。

 さて、今日は11時30分までに空港に行けばよい。まだ2時間程度余裕がある。空港行きの市内バスは、ウズベキスタンホテルの近くから出ているとガイドブックに書いてあるので、そのバス乗り場まで歩いていく。

 タシケントホテルのすぐ近くには、ナヴォイ劇場、民族歴史博物館がある。今日はその位置を確認するだけで、観光は旅の終盤に再度この町にくるのでその時にまわす。

 さらに、サイルカーフ通り、通称ブロードウェイと呼ばれる通りを歩いて、ウズベキスタンホテルに向かう。この通りは屋外レストランが軒を連ねる通りで、繁華街のほとんどないタシケントで、最もたくさんの客が集まる通りで、歩行者天国になっている。だが、午前中はまだ営業していない店が大半である。

 ブロードウェイを東端まで行くとウズベキスタンホテルがある。ホテルの近くまで行くと、ソウルでみかけた日本人団体旅行客に出会う。やはり日本の団体客はこのホテルに泊まっているようだ。ひょっとして、今日は同じ飛行機に乗るのかも。

 このホテルの近くには、市内バスの多くの系統が起終点になっているバス停がある。バス停自体はすぐにわかった。小規模なバスターミナルになっている。でも切符はどうするのだろう。切符があるのだろうか。お金を降りるときに払うのだろうか。それで、売店で尋ねてみた。

 一般の地元の人と話すのはこの旅はじめてだ。英語はまったく通じない。たちまち人だかりがして、自分と売店の売り子とのやり取りを見ている。その見物客のなかにも英語がわかる者はいないようであった。

 そこで、ロシア語の会話集を取り出して、印をつけて売り子に見せたのだ。印をつけた例文は「切符売り場はどこですか」というもの。市内バスの切符はどこで買うのかということである。売り子はそのロシア語を声を出して読んでいる。自分としては、「ここで売ってるよ」という答えがかえってくると期待していたのだ。

 ところがこの会話集、運悪く、そのすぐ下に、「ヒワ行きのバス乗り場はどこですか」という例文がのっていたのだった。売り子はそれも声を出して読んでいる。まさか、ロシア語の会話集の例に、ヒワというロシア以外のそれもずいぶんローカルな地名、しかも本当に飛行機に乗って行こうとしている地名が載っているとは思ってもいなかった。

 しかし、この場では、ヒワへ行こうとしているのではなく、空港へ行くのだということをわかってもらわないといけない。ニェットヒワ、アエロポルト、と繰り返す。

 わかってもらえたのか、自分の渡した紙に売り子は図を書き出した。書いたあと、説明もしてくれたが、何もわからない。

 書いてもらったあと、その図を頼りに、バス停の外に出る。しばらく歩いてみるが一向に切符売り場はみあたらない。どうみてもありそうにない。すでに、かなり暑くなっていて、荷物をかついだ身にはこたえる。

 5分くらい歩いただろうか。その時に気づいた。売り子は長距離バスのターミナルの位置を示したのだ。ガイドブックの地図をみると、長距離バスのターミナルの位置は、売り子が書いてくれた図と類似している。売り子は、自分が印をつけた例文の下の例文に書いてあった「ヒワ」という地名を見て、そんな遠くへ行く切符なら長距離バスのターミナルしかないと思って、それを教えてくれたに違いない。

 さて、自分が長距離バスターミナルに行きたいとして、売り子の書いてくれた図で行けるかというと、それは不可能である。目標物や地名などいっさい書かれていないからだ。自分のいるところから、長距離バスターミナルまで10キロは離れているのである。

 きっと、市内バスはお金を乗るときか、降りるときに払うのだろう。売り子は、市内バスに切符などないから、切符のある長距離バスの切符売り場つまりターミナルを教えたのだろう。(きちんと教えたことにはなっていないけど)

 そういうことがわかった途端、汗が吹き出てきて、市内バスで空港へ行く気力も、さきほどのバス停に歩いて戻る気力もなくなってしまった。その場で流しのタクシーを待ったのだった。


【タシケント空港

 ほどなくタクシーを拾うことができ、空港に向かう。道路幅は広く、街路樹が多い。車はそこそこ走ってはいるのだが、歩いている人はあまり見かけない。昼間から閑散とした感じ町である。人口200万人以上というが、どこにそれだけの人々が住んでいるのだろうか。午前中なのに、かなり暑いので、歩く人が少ないのかもしれない。

 空港の少し手前で、鉄道の線路を高架橋でまたぐ。貨物の操車場のようで、かなり大きい。駅らしきものも見えるが、案外と小さい。鉄道は貨物輸送が主体となっていて、旅客輸送はバスが主に担っているのだろうか。

 5キロほどの道のりがあるが、10分あまりでタシケント空港。400cym(約120円)を手渡す。運転手はにっこりとしている。相場より多かったのだろうか。それでも、このくらいでタクシーに乗れるのなら、もう市内バスにわざわざ乗ることもないのではと思えてきた。

 国内線のターミナルは、たいへん新しくれきれいだ。ガイドブックに1998年に新ターミナル完成と書いてあるのは、この国内線ターミナルのことである。昨夜到着した国際線ターミナルとは200mくらいはなれている。

 このターミナルは、内部が小部屋に細かくわけられていないのが特徴だ。巨大な体育館のような空間のなかに、2つの待合室エリアすなわち、チェックイン前の客の待合室と、搭乗前の客の待合室があって、その2つのエリアを分離させる形で、機内持ち込み荷物のX線検査などの関所が設置されている。でも、2つのエリアの間に壁はないので、両方のエリアとも、もう一方のエリアの中を見ることができるのだ。開放的な感じで気持ちいいし、冷房もしっかりはいっている。

 少し早く着きすぎたみたいで、自分が乗るウルゲンチ行きのチェックインはまだ始まっていない。チェックイン手続きをしている便は電光掲示板に表示され、その便の客だけが手続きできるようになっているのだ。

 やがて、昨日、往路のソウル金浦空港でであった日本人団体の人たちがやってきた。今朝、ウズベキスタンホテルの付近で出会った人もいる。ウズベキスタン旅行の主なコースは、誰が考えても、タシケント、ヒワ、ブハラ、サマルカンド、タシケントか、またはこの逆になりやすい。しかも、週1往復のアシアナ航空利用の場合などは、1週間後の便で帰国することが多いので、一度であった人たちとは、その後も出会う可能性が高いのである。

 出発時刻の30分前になって、ようやく手続きが始まる。ところが、あるカウンターで手続きをしようとすると、あっちのカウンターに行けと言われた。よく見ると、インツーリストと表示されたカウンターが、カウンターの列の一番右端にある。外国人はここで手続きをせよということだろうか。

 確かに、このカウンターの人は英語が通用する。例によって、荷物は機内持ちこみにしたかったのであるが、預けないといけないといわれる。搭乗してみたら、確かに、荷物を置く場所に困るような飛行機であった。座席番号を手書きした搭乗券と、荷物の番号を書いた紙をくれる。

 チェックインしたら、機内持ちこみのX線検査だが、このときに搭乗券と航空券を見せなければならない。航空券には、ハンコが押される。航空券にハンコを押す国はあまりないのではないだろうか。それとも、旧ソ連方式なのだろうか。

 搭乗客用の待合室に腰をおろし出発を待つ。日本人は、団体客が一組いる以外は自分だけのようだ。ほとんどは、ウズベク人である。いよいよローカルな場所に足を踏み入れていくんだという感じがしてきた。


【快適機がトラブル、灼熱機に代替】

 タシケント発ウルゲンチ行きのウズベキスタン航空183便は12時40分発で、目的地には14時15分に到着予定だ。

 出発の10分くらい前になってようやくゲートが開けられ、連絡バスに乗車する。ターミナルをでた途端、暑さがおそってくる。これから何日もこの暑さに耐えていかなければならないのだ。

 搭乗機に着くまでの間、たくさんのウズベキスタン航空機が目に入る。ほとんどの機体には、TU154、YAK40という機種記号が書かれている。いずれも旧ソ連製。TU(ツポレフ)154はかなり大きくて国際線や国内幹線に使われるのだろう。YAK(ヤコブレフ)40は小さく国内ローカル線用だろう。

 やがて、これから乗る航空機のところに到着。TU154でもYAK40でもなく、RJ85という機種であった。大きさは、TU154とYAK40の中間であったが、かなり新しい感じである。実際、この3種の航空機には全部、搭乗することになるのだが、RJ85は内部も新しく、乗り心地なども快適であった。しかし、ウズベキスタン航空はこの機種をあまり保有していないようだ。

 搭乗が終わると、飲物が配られ、飲み終わらないうちにすぐに出発とあわただしい。定刻より10分くらいの遅れだ。空から見ると、タシケント市街は相当に広いことがわかる。水平飛行にうつると間もなく、軽食が配られる。ミートパイとクリームケーキで、なかなかおいしいものだ。

 窓からは、砂漠や塩湖なども見えるが、残念ながら窓側ではないので、はっきりと見ることができない。しばらく眠ろうと眼を閉じていたのだが、そのとき機長がアナウンスしている。英語でも言っている。タシケントが何とかいっているようだ。しかし眠りかけいたためか聞き落としてしまった。

 自分の座っているすぐ前のほうには、日本人団体客がのっているのだが、このツアー団体には、現地旅行社のガイドがずっと付き添っていた。この団体のガイドが添乗員に何か話しをしている。その話しが終わるや、添乗員は団体客に「この飛行機にはトラブルが見つかったのでタシケントに引き返します」と言ってまわっている。

 トラブルが発生と聞くとやはり心配だ。眠気はいっぺんに覚めてしまった。タシケント空港に着陸したときにはホッとした。13時50分に戻り、またまた先ほどの待合室で時間をつぶすことになる。

 15時30分ごろようやく連絡バスがやってきて代替機まで運ばれた。今度の機種は、TU154であった。今度は座席の指定がされなかったので、窓側の席を確保するため、タラップの下に陣取っておく。

 窓側の席に座ることができたことはできたのだが、暑い。どうしようもなく暑いのだ。どうも非冷房なのだ。非冷房じゃなかったとしても、冷房はほとんどきいていなかった。しかも、代替機として飛行の準備をしていた間、ずっと日がさしこんでいたので、機内は40度は越えていそうだった。先ほどのRJ85は快適だったのだが、こんどのTU154には苦行を強いられる。

 バスやホテルが暑いだろうとは、覚悟できていたが、まさか飛行機が暑くてたまらないなどとはまったく予想外であった。乗った飛行機がたまたま暑かったのか、それとも、TU154の全機で冷房がきかないのかはよくわからない。

 おかげで、乗ったとたん、汗がでてくる。すぐに飲物サービスがあったのだが、水分をとると、その瞬間に汗が吹き出てくるありさまだ。機内はサウナ状態。


【熱地獄機、ウルゲンチに到着

 代替機は、16時にタシケントを離陸。ふたたび、軽食が配られる。先ほどと同じく、ミートパイとクリームケーキの軽食(さすがに少し違った種類ではあったが)が配られたのだが、きれいに食べてしまった。サウナのようななかでも、食欲だけは衰えていない。元気な証拠か。

 今度は、窓側の席を確保しているので、地上の様子が手にとるようによくわかる。砂漠を上空から見るのは初めての体験。砂漠といっても、砂の平原が続いているわけではない。砂の山地といったほうが適当だ。砂の山地にも、尾根、谷がある。むしろ、樹木がないぶん、尾根、谷がはっきりとわかるのだ。

 この砂漠はキジルクーム砂漠で、カザフスタン南部からウズベキスタンにかけて広がっている。さらに砂漠はアムダリア川を越えて、トルクメニスタン側にも広がっているのだが、そちらはカラクーム砂漠という。

 ワジと呼ばれる、雨がふったあとだけ水が流れる川もはっきりわかる。水はもちろんない。川の形があるだけだ。砂漠の中のか細い一本道も見える。2日後には、砂漠の中をバスで横断するのだが、考えてみれば恐ろしいものだ。砂漠のど真中でバスが故障して動かなくなったらどうしようもないではないか。

 ウルゲンチは、ホラズム州の中心都市である。ホラズム州はアムダリア川の南側で、本来トルクメニスタン領であっても不思議ではないのだが、ウズベキスタン領になっている。アムダリア川はかなりの部分で、ウズベキスタンとトルクメニスタンの国境になっているので、アムダリア川の南側は、ホラズム州より上流はトルクメニスタン領なのだ。



 アムダリア川のすぐ南側を鉄道が走っている。タシケントから鉄道でウルゲンチに向かう場合、いったんトルクメニスタン領である。アムダリア川の南側を列車は走る。それが、ウルゲンチの手前で再びウズベキスタン領に戻るのだ。したがって、タシケントからウルゲンチへ鉄道で行こうとすれば、ビザが必要になるのだ。でも、ガイドブックによれば、この列車では国境通過時の検査があまりないとのことだ。

 やがて、アムダリア川上空を通る。砂漠地帯を横ぎって流れる水量豊かな大河だ。この川の周辺には緑の耕地も多い。もっとも、アムダリア川の水を灌漑用水として使った結果、砂漠が耕地化された反面、下流に流される水量が減ってしまって、アムダリア川が注いでいるアラル海が年々小さくなり、またアラル海の塩分濃度が高くなりすぎて魚の住めない湖になってしまった。(かつては、世界第2位の面積だったアラル海は、いまや4位。)



 アムダリア川を越えると、すぐにウルゲンチ到着である。時刻は18時。結局、4時間近く遅れてしまった。 18時とはいえ、まだまだ暑いのではあるが、サウナのような飛行機から降りてきた身には、心地よく感じる。

 タラップを降りると、乗客は滑走路などを歩いて空港の外に出る。ターミナルには入らず、ターミナル横の通用門のようなところから外に出るのである。田舎の空港といった感じで、ターミナルといってもごく小さなもので、滑走路がなかったら空港とはわからないであろう。

 通用門を出ると出迎えの人々に混じって、タクシー、タクシーと呼びこみをしている人々がいる。ヒワまでは40キロほどあるのだが、タクシーで行くことにする。

 その中のひとりと交渉。交渉といっても、「ヒワ、$10」と声を
かけてくるから、こちらは$5とか$8とか言うだけである。しか
し、外国人の場合、$10というのが白タク連中の協定料金みたいになっていて、$10というのはかわらなかった。

 今日は、ホテルアルカンチという民宿風のホテルが予約されているのだが、運転手のほうから、アルカンチ? と聞いてくる。こちらから宿を言う必要もなかった。

 大部分の乗客は、迎えの人が来ていたし、日本人団体客はツアーバスに乗車した。そのため、白タク連中の大部分は、客にありつけなかったみたいだ。

 そうこうしているうちに、預けた荷物が運び出されてきた。ターンテーブルなどは当然なく、軽トラックで運んでいる。自分の荷物を降ろしてもらい、預かり証と交換する。そのまま、タクシーに乗りこむ。あとは今日の宿に向かうだけだ。


【ウルゲンチからヒワへ】

 乗ったタクシー(白タク)、日の当たるところに止めてあったので暑い。自分の座った座席はまともに太陽が当たっていたようで、尻からその熱さが伝わってくる。しかも夕方だというのに、窓から入ってくる風が熱風なのだ。窓を開けても、密室状態よりはマシといった程度だ。

 運転手に、ウルゲンチのバスターミナルに立ち寄るように求める。英語は通じない。バスターミナルがわかっていないようである。ロシア語では、アフタヴァグザル。これは通じたが、どうも、どこへいくのかと聞いているようだ。

 こちらとしては明後日に、バスでブハラへ行くのでその時刻を確かめるためにバスターミナルに寄ってほしいのである。ブハラといえば今ブハラに行くと思われかねない。

 車を止めさせ、紙に書いて説明。今はヒワへ行き、別の日にブハラへ行くことをわからせる。しかし、ブハラ行きのバスが何時に出るのか不明なのでその時刻を調べたい、ということがうまく伝わらない。時計を見せて頭をかしげたりして何とかわからせようとしたのだが。

 何とか言いたいことが伝わったのか、運転手は、8時と書いてくれる。そして、バスターミナルに行く必要はないといっているようだ。うまく通じたのかよくわからないが、8時にバスがあるというのを信じることにする。

 ウルゲンチは、ホラズム州の州都で、人口は13万ということだが、車窓から見る限りそんなに人口がありそうに思えない。空港からヒワへ行くためには、ウルゲンチの中心部を通らなければならないのだが、どこが中心部かもわからないままにウルゲンチの町を抜けてしまったようである。

 車は、綿花畑の中の一直線の道路を走る。不毛の地であった土地が緑野に変化。ソ連時代に、アムダリア、シルダリア川流域の各地で、灌漑工事がおこなわれ、砂漠がどんどん耕地になった。そして中央アジアは、世界的な綿花の産地になっていった。主作物が綿花であるというのは、今もソ連時代と変わらない。水を使いすぎてアラル海に注ぐ量が減って湖が縮小するという犠牲をはらって。

 ここの路線バスは、トロリーバスだ。トロリーバスといえば、都市の中を走るものと思いがちだが、ウルゲンチとヒワという40キロもある区間にも走っているのだ。走る車の少ない道路の上には架線がはられている。

 やがてトロリーバスが前方を走っているのが見え、あっという間に追いぬく。トロリーバスは、たいへんゆっくりしたスピードなので、タクシーじゃなくトロリーバスに乗ったりしていたら、たいへんな時間がかかっていたことであろう。

 30分くらいでヒワの新市街地に入り、旧市街地の回りを取り囲む城壁が見えてきた。ヒワの城壁は東西南北に門がある。これはどの門だろうか。城壁の外側を車はどんどん走る。乾燥が激しいために、城壁が風化しているような個所も見られる。城壁の外側の住居は粗末なものが多い。

 結局、城壁の外側を4分の3周して、西門の南側の車を入れるためのような出入り口(門ではなく、城壁の一部を壊したような感じだ)から城壁内に入る。入ってすぐのところに、ホテルアルカンチがある。



 ヒワの城壁内で泊まることができるのは、このホテルアルカンチとホテルマドラサの2箇所しかない。どちらも、そう収容人数が多いとはいえない。設備面でも不充分なところがあって、パッケージツアーの場合は、ウルゲンチに泊まって、日帰りでヒワの見学に来るというのが通例である。自分の場合は、個人旅行であるので、ヒワに泊まることができる。多くの歴史的な建物のそばで泊まれるのでおおいに期待している。

 ところで、2つのホテルのうち、ホテルマドラサは、かつてのマドラサをそのままホテルに利用しているのである。マドラサとは、イスラム教の神学校のことだ。中庭を取り囲む2、3階建ての建物であることが多い。ここでは、宗教だけでなく、天文学や数学などさまざまな学問が行われていたという。中央アジアでは、各地で王などが、自分の名前を冠したマドラサを建設して、人材の育成をはかったという。

 イスラム建築というとモスクが連想されるが、ウズベキスタンの場合、モスクより大きく、すばらしい装飾を施されたマドラサが見られるのだ。当初は、ホテルマドラサのほうに予約がはいっていて、昔の神学生の気分も味わえるかと思っていたのであるが、自分の行く一月前から、改造工事が始まったとかで、ホテルアルカンチのほうに泊まることになったのだ。

 ホテルアルカンチのほうは、この地域の民家を改造したような感じで、民宿風だ。ここで2泊することになる。



【ホテルアルカンチ】

 宿の主人がやってきて宿泊費などを申し渡される。自分の場合は、旅行社を通じて予約してあり、お金も渡したと言う。よかった。予約済みで、お金も入っているらしい。昨夜、タシケントでガイドがこのホテルのクーポンを渡してくれなかったので、大変心配していたが、杞憂であった。

 ただ、入金されているお金には朝食は含まれているが、夕食と昼食が含まれていないとのこと。ガイドブックによると、ヒワでは、まともなレストランはないということなので、夕食と昼食も頼むことにした。各食事とも、一食$4とのことで、夕食2回、昼食1回も注文する。

 自分がいくら払っていることになっているのか知ることができなかったのだが、ガイドブックによると、宿泊は個室$30、大部屋$20とのこと。この時点では、まだ自分が個室なのか大部屋なのかわからなかった。

 なお、ホテルアルカンチは、外国人観光客を専門に泊める宿なので、高級ホテル並みに英語が通用した。

 このホテル(というより民宿といったほうがいいかもしれないが)は家族経営みたいで、主人の父親らしき人がやってきて、パスポートを渡すようにいわれる。レギストラーツィアのためである。

 建物の入り口のところには、日本のムシロのように、地面にじゅうたんが敷いてあって、その手前で靴を脱いで上にあがるようになっていた。日本式の住居に似ている。客のほぼ全員が欧米人であるので、こうした風習にはなれないだろう。

 しばらく待たされたあと、主人が部屋へ案内してくれる。2階にある個室である。部屋に入ると、暑い。外にいるときは心地よかったのであるが、やはり部屋の中は暑い。風の通りが悪そうな部屋なのだ。2人室でベッドが2つ置いてあるが、ベッドが部屋のスペースのほとんどを占めていて、たいへん狭い。扇風機が置いてあるのだが、温風が送られる。

 夕食は20時からとのことなので、それまでにシャワーを浴びておくことにする。トイレ、シャワーは共同である。この日はまだ誰もシャワーを使っていない感じだった。ついでに、トイレも済ませたのだが、ここにはトイレットペーパーがおいていない。一応、トイレットペーパーも持ってきたのだが、使うのはやめた。

 トイレとシャワーを同時に済ませることにしたのだ。トイレに入るたびに、シャワーも浴びる。これで、トイレットペーパーは不要だ。それに気持ちいいやり方である。お湯もちゃんと出て、飛行機のなかでの汗などを流し、サッパリとする。

 シャワーを浴びてからも夕食までしばらく時間がある。そこでちょっと外出してみる。このホテルは西門の近くなので、西門の外まで行ってみた。

 西門は、ほとんどの観光客はこの門から入場する重要な門で、城壁に4つあいている門のなかでも、正門と言っても良い門である。この門は、ソ連時代の初期にいったん取り壊されたのことだ。城壁のなかに自動車が入れないからというのが理由。しかし70年代に再建された。

 歩いている人は門の外、中を問わずに少ない。レストランらしき建物もあるが、人の気配がない。3食ともホテルに頼んで正解であった。ホテル以外で食事をする場所はなさそうだ。

 子どもたちが集まっているところに行くと、ハロー、ハローの連呼で迎えられる。このあと、ブハラやサマルカンドへ行っても子どもからはハローと言われることが多かったのだが、ここが最初だった。ひとりづつハローでこたえておく。

 門の内側は、さまざまな建築物がずらり並んでいるのだが、夜間はもちろん無人だ。それで、歴史的建造物が不気味に、舞台のセットのように置かれているようなのだ。城壁の内側の中心部は、すべてが歴史的建造物なので、死んだ町のようになっている。

 ブハラやサマルカンドの場合は、歴史的建造物が、現在も人が住んでいたり、使っていたりする建物とまじりあって建っているのだが、ヒワでは、歴史的建造物が城壁内の一角にかたまっている。まさに、博物館都市といってもよい。しかし、それは死んだ町なのだ。人々の生きる息吹は感じられない。

 翌朝、ヒワのバザールに行ったりして、ヒワに生きる人々の生き生きした姿も見たのであるが、こと城壁内の歴史地区に関しては、保存するためだけの都市なのだ。


【ヒワの夜】

 20時より夕食。通路が広まって広間のようになっている一部分にテーブルが置かれて食堂になっている。日本の昔ながらの家でもありそうな構造だ。

 この国の大きな民家に共通するのかどうかわからないが、靴を玄関でぬぐということといい、家の構造といい日本とよく似ている。違うのは、もちろん畳がなくて、かわりに木の床にじゅうたんが一面敷き詰めてあるということだ。家の中を裸足で歩けるというのは気分がいい。

 さて、席に着いた者から自由に食べ始めるようだが、なかなか皆が集まってこない。自分が一番に席に着くと、続いてヨーロッパ系の母娘と思われる女性二人づれがそばに座る。

 母娘は互いに写真を撮ろうとしたので、一緒に撮ってあげたら、それをきっかけに話しがはずみ楽しい食事となる。やはり、母と娘で旅行しているというドイツ人であった。ハンブルクに住んでいるのだが、毎年、母と娘で旅行するのを楽しみにしているとのこと。「お父さんはこないの?」と尋ねたら、離婚したとのこと。余計な事を聞いたかと思ったが、向こうからいろいろ話してくれてほっとする。

 娘の小さい頃に離婚して以来、母の手ひとつで、一人娘を育ててきたという。毎年一回はふたりで旅行するとのことだが、娘の結婚が決まっており、今年が最後の母娘旅行だという。 遺跡めぐりが好きだということで、ギリシア、トルコ、シリア、エジプトなどへ行ったという。日本へは来たことがないとのこと。ドイツでも、中央アジアへ旅行する人が増えているとのことで、ウズベキスタンに行きたくなったらしい。

 自分と同じく、タシケントからヒワへ飛行機で飛んで、あとタクシーで、ブハラ、サマルカンドを経てタシケントに戻るという、お決まりコースだ。あす、ブハラに向かうとのことで、タクシーは来た日にこのホテルを通じて申し込んであるとのこと。

 一方、自分がドイツへ旅したときの話しもする。ハンブルクも行ったが、港で遊覧船にのっただけ。すぐにリューベックに行って散歩したというと、リューベックはドイツのなかで一番美しい町であると言われた。また、自分がドイツで行った町を、ドイツ旅行したさいのコース順に、フランクフルトから始まって十数ヶ所の町を列挙すると、たくさん行っていると驚かれてしまった。

 さて料理の方だが、なかなか良かった。テーブルに着いたときには、トマトとタマネギのサラダ、ナン、飲物(ミネラルウォーター、地元産ワイン)、果物(スイカ、ブドウ、リンゴなど)が置かれたいただけだったが、ころあいを見計らって、野菜をうす味で煮たもの、ラグマン(うどんのようなもので羊肉入りである)それにチャイがあとで運ばれてくる。

 運んできてくれるのは小学生高学年程度の女の子。家族総出で仕事をやっているようだ。野菜の煮物、ラグマンとも、結構ボリュームがあって、味付けは日本人の口に合いそうなあっさり味だ。それに、出来たてだということもありたいそうおしかったのだが、暑い中で熱いものを食べたものだから汗だくになってしまった。チャイも熱々で口をつけられないくらい。でも、日本のお茶と似ているのはありがたい。

 話しがはすんだので、後から食堂にやってきた人たちも皆去ってしまい、一番最後まで食堂に粘ってしまった。22時前になっていて、そろそろ部屋に引き上げようかと、旅の安全を互いに祈って母娘づれと別れる。

 部屋に引き上げると、さっそくもう一度、共同シャワーへ。さい
わい、開いていた。シャワー後、部屋に戻ると、食堂よりかなり暑い。扇風機を使っても、生暖かい風しかやってこない。窓をあければよいのだが、そうすると虫が入ってくるに違いない。

 そのため、短時間だけ明日の予定を検討したあと、明かりを消してしまい、窓を全開にする。それでも、風通しが悪く、夜でも暑い。そして、虫が入ってきたようで、身体中いろいろなところを蚊に刺されてしまった。

 窓から外を見ると、星空がきれいだ。日本で見るよりたくさんの星が見えるように思う。同じホテルの別棟の屋上に展望台のようなものが設けてあるのが見える。明朝、日の出を見るために、上がってそこからの景色を楽しむことにする。