灼熱のウズベキスタンを行く(3)

【ヒワの夜明けとバザール】

 朝5時。まだ、真っ暗である。トイレならびにシャワー、すっか
りこの2つを同時にするようになってきた。この時間でもお湯が出る。夜中の汗を流して、気持ち良く朝を迎えられた。

 別棟の屋上に向かう。いったん、自分の部屋のある棟の外に出る。外にでたところに、日本でいう縁台のようなものがある。日本と違うのは、ゴザではなく、じゅうたんが敷いてあることと、畳でいうと十畳分くらいある大きな縁台であることだ。ここでは何人か客が寝ている。ここだと部屋よりは気持ち良く眠れそうだ。

 屋上からは満天の星空を眺める。見ることのできる星の数はかなり多い。星を見ながら、屋上で寝転ぶ。ここでも何人かの客がすでに寝ていて、彼らを起こさないように気をつけて自分の場所を確保するのはなかなかたいへん。

 日の出までのしばらくの間、星空の下で眠る。何と気持ちのいいことか。夜明け前で一番気温の低い時間だ。でも、部屋の中にいれば、これほどの爽快さはなかったことだろう。どのくらいたったのだろうか、目がさめたときにはすでに東の空から太陽が昇りかけていた。じっくりと日の出を眺める。

 太陽が昇るにつれ、ヒワの歴史的建造物の姿が明らかになる。目の前に、モスク、マドラサ、宮殿、ミナレット(尖塔)がたくさん建っている。

 すっかり明るくなってから、屋上から降りる。屋上のある棟から出て縁台のところへ行くと、そのそばで宿の主人の父親らしき人がすわってパスポートの山をいらっている。近寄ってみると、丁度、自分のパスポートを見ているところだった。パスポートを見て、名前などをレギストラーツィアの用紙に記入しているのだった。

 自分に気づいたようで、隣にすわるように言われる。すぐに、パスポートとともに、レギストラーツィアを渡される。そして、チャ
イをすすめられる。 この日は一日中ヒワをみて回る予定だと伝える。今日は、日本人が自分のほかに泊まっているのかと聞くと、もうひとり泊まっているとのこと。また、日本人はよく泊まるのかと聞くと、たいてい毎日ひとりかふたり泊まっているということだ。

 そして、明日はブハラへバスで行くが、ウルゲンチ発は8時かと聞くとその通りだという。昨日のタクシーの運転手の言った通りだ。明日のタクシーの確保を頼むと、ホテルの車を使って$10とのこと。朝食は8時からだというので不要だというと、他にイタリア人のグループが早く出発するので、6時30分から食べられるとのこと。これで、明日の朝の足も手配できた。

 そうこうするうち、かなり明るくなって、朝の散歩に出かけることにする。ホテルから3、4分歩けば、歴史地区の真っ只中である。早朝に歩く人はほとんどいない。わすかに、バザールへ向かう地元の人たちが歩いているだけだ。

 10分も歩けば、東門に到着。東門を抜けたところが、バザールの入口だ。東門を抜けた途端、人々の熱気が伝わってくる。バザールへ行こうとする人たち、すでに買い物をすませた人たちでごったがえしている。



 女性は、赤や緑、紫など派手な花柄の民族衣装に身をつつんでいる人が多い。男性はシャツ姿が多く地味な服装だ。買った物を籠に入れて、頭の上にのせて片手で支えている女性も大勢みられる。遠方からの人もいるようで、入口のところで待っていた自動車や馬車に載せて家路に向かう人もいる。



 バザールの中は、人、人、人……。ヒワのどこにこれだけの人々がいたのかと思うような人の数である。さまざまなものを売っていて、売っている品物別に売り場が別れている。

 果物、野菜、ナン、米、肉、香辛料、飲料水、衣類、履物、文具、本、雑貨……。どこでとれたのか魚も。日常生活に必要なものはたいていバザールで手に入りそうだ。立ち止まって品物を見ると、たちまち売り子から声をかけられる。だが、今日は、どんな品物が売られているか見るだけである。



 バザールをひととおり見てまわると、朝食時間寸前。東門からイチャンカラ(内城)に入り、また人の気配が少ない歴史地区を通って、ホテルに戻る。


【ヒワのイチャンカラ1】

 ホテルに戻り、朝食をとったあと、ヒワの歴史地区の見学にでかける。まずは、西門のところでチケットを購入。この日、チケットを最初に求めたのが自分だったようだ。

 イチャンカラ(内城)の主な建造物の共通入場券になっていて、300cym(約90円)である。ただし、カメラ代が別に必要で、これが300cym。あわせて600cym(約180円)払う。これだけの金額で、イチャンカラの主なみどころはすべて入れるので、安いものだ。

 係の人は、ザラ半紙の入場券に、年月日、払った金額などをいちいち記入していく。記入式の入場券は、ヒワに限らず、多くのところで使われていた。記入する手間がかかるので、たくさんの人が並んだときなど、なかなかさばけないだろうと思う。

 天気は快晴。雲一つない空だ。空は真っ青。こうした天気が来る日も、来る日も続いているのだろう。天気が良いのは喜ばしいことではあるが、今日も一日暑さに悩まされることだろう。

 ヒワに歴史的建造物がなぜ多く残されているのか。それは、ヒワがヒワ・ハーン国の都であったからだ。ヒワ・ハーン国は、ティムール帝国が滅んだあと、1512年に建国され、1920年ま
で続いた。もっとも、1873年以降はロシアの保護国にされていた。ロシア革命のあと、この地でもハーン(王)が倒され、ソヴィエト政権が生まれたのである。

 現在のウズベキスタンは、14世紀にはティムールがその全域を勢力下においていた。その都がサマルカンドであった。ティムールが死んだ後、帝国は分裂。ヒワを都とする、ヒワ・ハーン国、ブハラを都とする、ブハラ・ハーン国、コーカンドを都とする、コーカンド・ハーン国に分かれたのだ。

 従って、歴史的建造物を見学するには、サマルカンド、ヒワ、ブハラ、コーカンドなどを旅するのが良いのだ。タシケントはというと、19世紀中頃以降にロシアがこの地域に進出するのだが、そのときロシアが支配の拠点にした町である。だから、タシケントにはシルクロードの町という雰囲気は少なく、ロシア人の割合が高いということもあって、ロシアの地方都市にやってきたような印象を受けるのである。

 さて、最初に見学したのは、西門を入ったところにあるムハンマド・アミン・ハーンのマドラサだ。1851年の建築である。ここは、現在はホテルになっているのだが、改修工事が行われている。中に入ると、工事の真っ只中という感じだ。中庭には、工事関係の資材が置かれ、古いベッドや浴漕が出されている。壁の装飾の手入れといった細かい作業も行われている。



 見学できる雰囲気じゃなかったので、入ってはいけないのかなと思い、出て行こうとしたのだが、手招きされた。入れ、といわれているみたいだ。そちらへいくと、工事中の新しいホテルの部屋のモデルルームであった。外観から想像できないような、きれいな部屋で、ベッド、浴漕、トイレ、テレビなどが入っていて、日本のビジネスホテルのような感じだ。これが完成すると、ヒワでもかなり快適なホテルになるであろう。



 このマドラサの前にある塔が、カルタ・ミナル(未完成のミナレット)である。一見すると、日本の高層住宅群のなかにあるような給水塔のようだ。給水塔の表面を青色のタイルでおおったような感じだ。高さは26mなのだが、計画では100mを越えるものだったという。ところが工事が始まってまもなく、工事を命じたハーン(王)が死んだので、途中で工事が中断したらしい。それで、カルタ・ミナルと呼ばれているのだ。



 続いて、カルタ・ミナルとは道路を隔てたところにある、コフナ・アルク(古い宮殿)を見学。これは17世紀に建てられ、ハーンの住居であったものである。このなかには、いろいろな部屋がある。なかでもキルニッシュハナ(王の応接間)が美しい。劇場の舞台のようなところで、壁面は青のタイルが覆い、柱や扉には細かい彫刻が施されている。このほか、いくつかの部分が見学できる。



 なかでも、見ものといえるのは、アク・シェイフ・ババの高台といわれる建物である。この建物の上部からは、イチャンカラ全体がよく見渡せる。イチャンカラ全体を高いところから見たいなら、ここから見るのが、最もよく見えて良い。また、目を城壁の外側にやると、現在のヒワの町の様子もわかる。結構たくさんの家屋があって、バザールがにぎわうだけの人口はありそうである。


(ムハンマド・ラヒム・ハーンのマドラサ)

 イチャンカラの中心のあたりに、ジャーメ・マスジディ(金曜モスク)がある。ここの特徴は、彫刻の施された木柱が多いことだ。建物の中に入ると、柱、柱、柱……。入口が1ヶ所しかなく上からの明かり取りの光に頼っているので、薄くらい感じだ。このモスクの内部から、ミナレットにあがれるのだが、かなり暑くなってきており、あがる気力がなくなっていた。



【ヒワのイチャンカラ2】

 ヒワには、たくさんミナレット(尖塔)が残っているのだが、その中でも、一番高いのが、イスラム・ホジャのマドラサに付属しているミナレットだ。高さは44m。高いだけでなく、美しさも兼ね備えている。壁面は、青と緑のタイルで模様が描かれている。


 登ってみようと思い、ミナレットの下までやってきたのだが、すでに、かなり暑くなっていて歩くのがやっとという状態で、そのうえ、ガイドブックに、眺めがあまりよくないと書いてあったので登るのをやめてしまった。きっと格子が視界を妨げているのであろう。

 一方、マドラサの方は、中を見学する。イスラム・ホジャという人が、ヒワ・ハーン国最後のハーンとなったアスフェンディアル・ハーンのもとで宰相を務めた人物だという。このマドラサでは、ヒワで最初のロシア語の学校を開いた。このマドラサはかなり新しくて、1908年の完成である。

 続いて、パフラヴァーン・マフムード廟。マフムードは14世紀に生きた力持ちの毛皮職人らしいのだが、その後、ヒワを守護する聖者とみなされるようになったという。それで、巡礼者を集めているということだ。

 ちょうど、この廟を訪れたとき、たいへんな人だかりだった。結婚式を終えた男女がこの廟を訪れ、その付き添いの人たちであったのだ。最初、男女を見たとき、ここの建物で結婚式をあげるのかなと思ったのであるが、中心にある建物のなかに入ってほんのわずかで、建物からでてきたので、お参りにきたのだとわかった。



 結婚した男女の服装は、西洋風のスーツとウェディングドレスであった。民族衣装よりも、西洋風のほうが人気があるのかなとか思う。

 男女が立ち去るとともに、付き添いの人たちも移動。急に、しずまりかえった。おかげで、ゆっくりと見学ができた。ここには、19世紀の3人のハーンの墓もある。これらのハーンは、死後も聖者のそばに墓をおき、聖者の力を借りようとしたみたいだ。

 中庭に井戸があったのだが、ここの水がたいへん冷たく、すでに汗だくになっていた顔や手を水で流す。たいへん爽快であった。

 道路を隔てて、廟と向かい合っているのが、シールガーズィ・ハーンのマドラサ。18世紀に建設されたものだ。このハーンは戦争の捕虜にマドラサを建設させたのだが、建設作業を見にきた際に、捕虜によって殺されたという。

 たいていのマドラサの内部は博物館のようになっていて、さまざまなものが展示されている。民族衣装あり、遺跡からの発掘物あり、ハーンの宝物あり、と雑多で、あまり手入れが行われていない。

 このマドラサも、内部で展示が行われていたのだが、なぜか、シャム双生児(胴体がひとつで、頭部がふたつの奇形児)のホルマリン漬けがおかれていた。英語の説明もなく、どういう意図で展示がされていたのかよくわからなかったが、突然、場違いのように置かれていたのでびっくりした。まさか、ヒワにきてシャム双生児の死体を見るとは思いもよらなかった。タイのバンコクのある病院内に、死体の博物館があって、度胆をぬかれたことがあったのだが、そのときのことを思い出してしまった。

 イスラーム・ホジャのマドラサ、パジュラヴァーン・マフムード廟、シーリガーズィ・ハーンのマドラサ、こういった建築物群は、イチャンカラのメインストリート(ガイドブックではカール・マルクス通りなのだが、実際に現在もその名前が使われているのかどうかはわからなかった)から、少し南へ入ったところにあるので、再度、メインストリートに戻る。

 あまりに暑いので、適当な場所を見つけて座り込む。一度、座り込むとなかなか立てない。しばらく、座りながら行き交う観光客の姿を眺める。日本人はいないなとか思ってみていたら、一昨日、タシケント行きの航空機で一緒になり、昨日は、ウルゲンチ行きの航空機で一緒になった人たちがやってきた。どう工夫してみても、同じような観光コースになるんだなと思う。

 座っていた場所のそばには、何も建物が建っていない空間があった。100m四方あるくらいだ。イチャンカラのど真中で、空間があるのは、ずっと昔からかもしれないが、1970年代にイチャンカラの中心部の民家が立ち退きをさせられたので、かつて民家が集中していた一帯の跡かもしれない。


【ヒワのイチャンカラ3】

 うだるような暑さの中、タシュ・ハウリ(石の庭)宮殿を見る。ここも共通入場券で入れるのだが、どういうわけか入口で名前、国籍を尋ねられる。そしてそれらがノートに記録される。自分の名前がキリル文字で書かれるので、何度か聞き返される。キリル文字で書かれた名前を見ても、それが自分の名前なのだという感じはしない。

 ハーンは季節によって宮殿をかえていたらしく、ここは冬の宮殿で、先ほど見学したクフナ・アルクは夏の宮殿らしい。タシュ・ハウリは高い壁に囲まれていて、その中には多数の部屋がある。ハーンの接見の間、4人の正妻のための間、多数の女性を収容したハレム、アルズ・ハウリと呼ばれる裁判所などがある。

 タシュ・ハウリの向かいには、19世紀前半につくられたアッラークリ・ハーンのキャラバン・サライ(隊商宿)、サライ・バザール(屋内市場)、マドラサが並んでいて、外から見るとひとつの巨大な建造物のように見える。

 このうち、まず真中にあるサライ・バザールに入ってみる。ここは円屋根におおわれた通路のようになっていて、通路の両側にアーチ型の凹みがいくつも壁につくられている。凹みの一つ一つに店があったという。今は、凹みだけが残されていて、利用されていない。ここで売られていたのは、織物であったという。

 サライ・バザールの通路の中に少し広くなっているところがあり、そこからキャラバン・サライ(隊商宿)に入れるようになっている。キャラバン・サライという名はよく聞くのだが、実物を見るのは初めてだ。

 キャラバン・サライの中は、空洞になっていて、そこは方形をしたかなり広い広場がある。ただし、建物の中であるから屋根つきの広場である。その広場を二階建ての客室が取り囲んでいる。二階が寝室、一階が荷物置き場だ。一方、方形をした広場は、らくだが休む場所だったという。今は、広場がバザールの一部みたいなっていて、衣類や雑貨が販売されている。



 この建物は19世紀の中頃にできたというから、今から150年ばかり前、この地域ではらくだで物資を輸送する交易がさかんに行われていたことになる。周辺のさまざまな国の商人が、らくだの背にさまざまな物資を運んでヒワ・ハーン国の都ヒワにやってきて、バザールで売っていたのだろう。

 サライ・バザールに接して、その南側に、マドラサがあるのだが開いていなかった。その南側に東門がある。早朝にバザールを往復した際にも通ったのだが、もう一度のぞいてみる。ここは、門といっても、その中は長さ50mくらいの通路になっていて、その両側の壁にアーチ型の凹みがいくつもある。凹みは店に利用されていたとのことで、サライ・バザールと同じだ。ここの店では、奴隷が売られていたという。

 凹みのなかに奴隷がつながれていたのだろうか。ヒワ・ハーン国では、かなり遅くまで奴隷制度が残っていた。19世紀中頃に、ロシアの勢力が拡大し、1873年にはロシアの保護国になるのだが、その口実に、ロシア人が奴隷になっているということが使われた。

 一通り、ヒワのイチャンカラを見て回った。いろいろな建造物の中で、とりわけマドラサ(神学校)がたくさんあったのが驚きであった。そう広くない町のあちこちに、マドラサが多数ある。かつては、ヒワ・ハーン国の都であったこの地に、あちこちから学生が集まってきていたのだろう。

 昼食時間が近づいてきたので、ホテルへ戻ることにする。それにしても、この暑さは何だ。半端ではない暑さ。顔や首からは、とどまることなく、汗が噴き出してくる。水分を補給しても、飲んだ瞬間に汗となって出てくるような感じだ。

 常時、汗を拭きづめで、ハンカチも汗を吸い取れないような状態になっている。乾燥のたいへん激しい地域なので、旅行前は、暑いことは暑いが、汗をあまりかかないのでは、と考えていたのだが、そんなことはない。たいした運動もしないのに、これほどの汗が出るのは、滅多にあることではない。


【ヒワのデシャンカラ】

 昼食のためにホテルに戻る途中、らくだがつながれていた。観光客に写真をとらせるためである。らくだと記念写真を撮っている人もいるが、いくらするのだろうか。ガイドブックにらくだの写真がのっているが、このらくだであろう。

 昼食は、夕食、朝食と同じく、調理したての地元料理を味わえた。たいへん暑いので、しばらく部屋で休憩することにする。休まないことには、身体がもたないように思えたから。扇風機は生暖かい風を送るだけで、部屋の室温も相当なものであったろうが、横になるだけでかなり違う。

 16時ごろに、再度、見学に出かける。イチャンカラは午前中にほとんど見たので、主にデシャンカラ(外城)を歩きに行く。城壁の外へ出る前に、イチャンカラの北の端にあることになっているヘイヴァクの井戸を見ていくことにする。

 イチャンカラには、民家はほとんどないと思っていたのだが、それは、メインストリートの近辺だけで、中心部から離れたところに民家がある。雰囲気からかなり貧しそうな印象を受けた。ヒワにあっても、観光収入の恩恵に浴さない人たちは相当数いるようだ。

 ところで、ヘイヴァクの井戸とは、ずっと昔からあった井戸で、ヒワの語源にもなったというのだが、ガイドブックによると民家の庭にあるらしい。地図に従って、井戸のあるらしい一角を見て回ったが、由緒のある井戸らしいものはなかった。しかし、水が涌き出ている個所はあったので、それなのだろうか。それにしては、何の変哲もなく、水が涌き出ていただけなんだが。

 井戸をはっきりと確かめないまま、北門から城壁の外側に出てみる。トロリーバスが停車している。ウルゲンチからやってくるトロリーバスは、このあたりが終点らしい。

 北門の近くには、サイイド・ムハンマド・ハーンのマドラサ、ヌルッラー・バイ宮殿があるのだが、どちらも中に入ることはできなかった。北門と、そのマドラサ、宮殿の中間に、噴水のついている池があった。そこでしばらく腰を下ろし休憩する。子どもたちは、プールがわりに水遊びしている。

 デシャンカラの中心部へも行ってみるつもりであったが、暑さのために断念。中心部にはこれといったみどころはないのだが、町の様子を見たかったのだが、行く元気がない。まだ、旅は始まったばかりなので、無理はしないでおく。

 そこで、城壁の外側の道路に沿って歩くことにする。しばらく歩き、城壁の北東の端あたりまでやってくると、道端にスイカやウリを山積みにして売っている人が並んでいる。



 日中は歩く人が少なくってあまり商売にはならないのだろうか、売っている人たちも手持ちぶさたのようである。スイカの外観は日本のと同じだが、日本では小さめといえるものが多い。割って中が見えるようにしたものを、スイカの山の一番上に置いてあるところもある。

 味のほうは、ホテルの食事のさいに出ているもので確認済みで、日本のスイカに比べると甘味が少ない感じだが、水分を補給するために食べると考えれば、丁度よい程度の甘さなのかもしれない。

 スイカやウリの中を歩くようにしてしばらく行くと、バザールの北の端にたどりつく。今朝、バザールを訪れたときとは、まったく違っていて、ほとんどの店は片付けられていて、買物客もほとんどいない。活気みなぎるバザールを見ようとすれば、早朝にやってこないとならないようだ。

 バザールの中を抜けると東門だ。早朝、昼と東門を通っているが、今回は東門には入らず、城壁の南東の方へと向かう。このあたりには民家が密集しているのだが、粗末な家が多い。

 子どもが多い。ウズベキスタンは、世界の中でも未成年者の割合が特に高い国だ。あちこちで子どもたちが遊んでいるのだが、いつも「ハロー」と声をかけてくる。その都度「ハロー」と返すのだが、次第に面倒くさくなってくる。

 城壁の外側を南門までやってくる。城壁には、東西南北の4つの門があるのだが、南門の保存状態がよくない。補修がしっかりと行われていなくて、あちこちが壊れている。南門からイチャンカラに入った。南門から入ったあたりの民家も粗末なものが多い。同じイチャンカラであっても、整備されたメインストリート周辺の歴史地区がすぐ近くにあるとは思えない感じがする。



【ヒワでの第二夜】

 ホテルに戻ると、夕食までまだ時間がある。さっそく、荷物を置いて、トイレとシャワーへ。すっかり、トイレとシャワーを同時にすませるのが常態になった。紙でふくのよりも、ずっと気持ち良く、水をかけて洗う地域の人たちのやり方が理にかなっていると実感。ただし、洗う必要のある部分だけを左手で洗うのには慣れが必要で、シャワーを同時にしないと洗えない。日本にいても、このようにできたらいいものだ。

 さらに少し休んでから、食事場所にいってみると、すでに食べはじめている人もいる。空いている席について、食事しはじめると、昨日と同じく、小さな女の子ができたての料理を運んできてくれる。羊肉の団子のスープ、野菜の煮物。それに、トマトサラダ、ナン、チャイ、果物など。あすからは、これほどしっかりと食事できるかどうかわからないので、きっちり食べておく。

 自分より遅れ日本人男性が食事場所へやってきた。今朝、自分以外にもうひとり日本人が泊まっていると、ホテルの人から聞いていたのだが、この人のことなのであろうか。たまたま、自分の隣の席は空いていて、その人がやってきた。さっそく話しかけてみた。

 その人も自分と同じく、昨日ここへやってきて、今日が二日目とのこと。自分と同じで、アシアナ航空でやってきたとのことだ。違うのは、ウズベキスタン国内の回り方で、タシケントから、タクシーを使って、サマルカンド、ブハラをへて、ヒワにやってきたとのこと。明日はウルゲンチに行き、あさって飛行機でタシケントに戻るという。

 長距離タクシーの価格が安いとのこと。ブハラからヒワまで、約450kmだが、$50だったという。所要時間は6時間。これならタクシー利用でもいいじゃないかと思う。ウルゲンチとヒワは40kmで、$10なので、かなり割安感がある。

 日本では450kmというと横浜・京都間に相当する距離だが、これをタクシーに乗るなんて、考えただけでも恐ろしい。所要時間も結構短いので、かなりスピードを出している。ただ、タクシーといえどもエアコンはついていないので、砂漠の中での暑さには耐えがたいものがあったという。

 この話しを聞いて、タクシーも積極的に利用して行くことにする。とはいっても、ヒワは田舎町で、明日のタクシーを頼むのは無理そうな感じがするので、明日はウルゲンチからブハラまで予定通り路線バスで移動し、ブハラから先の移動のさい、タクシーも利用してみるということにする。

 また、国内線の航空券がかなり安いことや、買い求めるのが一日がかりであったということなどの情報も得た。さらに、さまざまな話しで盛りあがったのだが、この国へやってきてから、日本人と話すのは初めてだったので、漠然と持っていた不安感をぬぐうことができて良かった。

 気がつくと、22時ごろで、回りの客もすっかり部屋に帰ってしまい、自分たちだけが残されていた。明日の出発も早いので、部屋に戻ることにする。

 部屋の前まで行くと、なんと数人の客が、入口のところに寝そべっているではないか。部屋の前はベランダ状になっているので、暑さに耐えかねた大部屋の客の何人かが、風通しの良さそうなところを求めてやてきたみたいだ。意を決して、寝そべっている人たちの間を歩いて、部屋に急いで入る。

 荷物の整理をし、明日の計画を検討したりしていたのだが、どうも腹具合がおかしい。さっそく、部屋の前で寝ている客をまたいで、トイレとシャワーへ急行する。ついにやってきてしまった。旅行前から下痢には注意しなくてはと考えていたのだが、やはり下痢がはじまってしまった。

 さあ、困った。明日はバスでブハラへ移動だ。ガイドブックによれば、8時間かかるという。バスに乗っている間、大丈夫だろうかという不安にかられる。なんとか、明朝までにおさまってくれれば良いのだが。

 薬を飲んで、眠りにつく。暑さのためか、夜中に目がさめて、再度、トイレとシャワー。やはり、直っていない。こういう場合を考えると、部屋にトイレ・シャワーがないのは考え物だ。多少の値段の差より、こうした場合のことを考えなくては。

 原因は水分の取りすぎであろう。とくに、冷たい水分の取りすぎだろう。日中、水分を相当とった。暑さに耐えかね、ミネラルとコーラを飲みすぎたのだ。明日からは、水分はほどほどに取っていかねば。