【ウルゲンチのバスターミナルへ】
寝苦しいうえに、腹具合もおかしくなって、さんざんなだった夜が終わる。部屋の窓からは、まだ星空しか見えない。腹の調子はおかしいままだ。さっそく、トイレに向かう。こんなときに、入口のすぐそばで、ほかの客が寝ているのは本当にじゃまだ。ついでに、シャワーで夜中の汗も流してさっぱりする。
指示されていた朝食時間よりも少し早めに食事場所へ行ってみると、すでにグループ客が朝食をとっていた。話し声からして、イタリア人のグループのようだ。
自分は、このグループとは別のテーブルについたのだが、宿の家族であろう人から、グループと同じテーブルを使ってほしいと言われ、席を移動する。通常の時間に食事をとる人たちのための準備の都合であろう。
グループ客のなかにひとり入っていくのは、あまり気分のいいものではないが、隣の席になった人が英語で話しかけてくれて助かった。やはり、イタリアからきているグループだった。
この人たちは、ウズベキスタン内をミニバスを借り切って移動しているとのことだ。タシケントからヒワへは、サマルカンド、ブハラ経由だはなくて、別のルートを通ってきたとのこと。途中に、サマリカンドやブハラみたいに有名なみどころはないが、多少の遺跡を見学し、砂漠の中のドライブを体験してきたらしい。
しかし、エアコンがついていないので、車内の温度は50度以上だったという。それで、この日は、自分と同じでブハラに向かうとのことだが、また50度を越えるだろうとのこと。イタリアも夏は暑いが、ここの暑さはイタリアとは比べ物のならないと、暑さには困りはてている様子だった。
自分はどうするんだ、と聞かれたので、自分もブハラへ行くと答えると、どんな方法で行くんだと聞かれ、バスで行くと答える。ひょっとして、と思ったが、やはり、「一緒に乗って行きな」と言われる。
ありがたい話しなのだが、ミニバスだとかなり窮屈するくらいの人数のグループだ。自分がのったために、さらに窮屈になっては申し訳無いので、丁重に断る。
話しが盛りあがったので、時間を忘れてしまった。また会おうと言われて、イタリア人たちは出発準備のため部屋にひきあげていった。本来ならホテルを車で出発する予定だった6時30分がもうすぐだ。大急ぎで、残りの食事をしてしまい、さらに、もう一度、トイレにもいっておく。今度ばかりは、シャワーを使っている余裕がないのが残念だ。
予定の時間をオーバーして玄関へ行くと、宿の主人の父親らしき人が待っていてくれた。乗る前に、食事代を払う。ここで、もたもたしてしまい、さらに出発が遅れ、7時前になってしまう。バスはウルゲンチのバスターミナルを8時出発で、気が気でない。
ヒワの景色の余韻にひたる間もなく、車はすぐに町の外に出てしまう。時間を気にする必要はまったくなかった。ウルゲンチへの道は、ほとんど車が通っていない。車よりも馬車のほうが目につくくらいだ。こんなところであっても、舗装がきっちりしてあって、一般道路というのに100キロ近いスピードをだして、大丈夫なんだろうかと思ってしまう。
綿花畑の中の道を走ること30分。あっという間に、ウルゲンチに到着。ウルゲンチは人の気配の感じられない町だ。この町の中心にバスターミナルがある。運賃を支払い歩いていこうとすると、切符売り場までついてきてくれ、「ブハラまでひとり」とか言ってくれたのであろう。自分ではお金を払うだけで良かった。
ウルゲンチからブハラまでは、900cym(約280円)だが、荷物料金が50cym(約15円)で、合計950cym(約295円)払う。ウルゲンチからブハラは400キロ強だが、これが300円で乗れるのだ。
それにしても、ヒワからウルゲンチまでの車代が$10(約1200円)だったから、その10倍以上の距離を300円で行けるわけだから、こりゃ安い。
バスを待っていると、イタリア人が話しかけてきた。ホテルの朝食時のイタリア人とはもちろん別の人だ。3人でウズベキスタンへやってきたという。この人たちは、サマルカンドから鉄道でウルゲンチにやってきて、ヒワへは、昨日ウルゲンチからの日帰りで観光にいっていたらしい。
今日は、バスでブハラへ行くということだ。自分も同じだというと、一緒に行こうという話しになる。このイタリア人たちにとっても、ウズベキスタン旅行はかなりハードらしい。言葉が通じないことにくわえ、暑さにな参ってしまうとのこと。とくにウルゲンチへやってきた列車が暑くてたいへんだったらしい。自分もサマルカンドからフェルガナへ列車で移動する計画をたてているので、ひとごとではない。
【熱地獄バスで出発】
切符売場に貼ってある紙を見ると、バスはブハラ行きではなく、シャフリサブス行きであった。バハラを経由して、さらにシャフリサブスまで行くのだ。このほかに、午後にサマルカンド行き、タシケント行きがあり、これらもブハラを通るのだが、時刻から考えて夜から早朝にかけての到着だ。
早朝着の便の存在はガイドブックでわかっていたのだが、砂漠の風景と途中で渡ることになるアムダリア川を見るのは、この便でないとできない。それに、体調が良くないので、夜行では心配だ。昼間の便でも、心配であるのだが。
バスは発車時刻の8時にやってきた。これでは、出発からして遅れるのは必至である。バスの入口がきそうな位置にずっと立っていたので、早い目に乗ることが出来た。本当は先頭だったのだが、荷物を車体側面の下部にある荷物入れに入れようとして断られたりしていたので、少し遅れてしまった。
それでも、最良の場所だと考えていた場所、前から数列目で左側の席は確保できた。ウルゲンチからブハラへは、道路はほぼ西から東に向かっている。従って、太陽はほとんど、右側の席を照らすはずなのだ。イタリア人は自分の横と、自分のすぐ後ろの席にふたり陣取った。
ところが、後ろのイタリア人が何か文句を言われている。どうも席は指定席になっているようなのだ。切符、といっても日本のスーパーのレシートみたいなものだが、をよく見ると、座席番号らしきものが書いてある。そして、窓の上のところには、白マジックで番号が書いてある。
自分の番号はと見ると、なんと今、座っているその場所じゃないか。これで、席を替わらずにすんだが、イタリア人たちは別の席に移動していき話しをすることができなくなってしまった。出発間際になっても、自分の横の席には座る人がなかったので、荷物置きにする。
荷物料金を払ったので、乗車のさいにバスの側面下部の荷物入れに入れようとしたら、中に持ってはいるように言われた。そのほうが、いろいろ都合は良いのだが、その置き場には困ってしまう。それで、横の席に座る人がいないというのは助かる。
さて、このバス、外観は思っていたよりもきれいな感じであったが、中はくたびれていて、清潔とも言いがたい。何年、動き続けているのだろうか。それにもまして、憂鬱な気持ちにさせられたのは窓を見たときだ。
窓ガラスが固定式で空けることは不可能なのだ。外国で乗るバスはたいてい固定式になっているが、例外ではなかった。わずかに、大きな窓の上に、ほんのわずか、高さにして5cmほどの小窓があって、それだけは開けることができる。それから、屋根から空気を取り入れるところが二ヶ所ついているが、そこから入る風にふれることのできない位置に座っている。
自分の前のほうの小窓をなんとか開けようとするが、これがかたくて開きにくい。なんとか、5cmほどだけ開ける。頭上50cmほどのところにある、5cm四方の小窓から入ってくる風が、自分があたることのできる風のすべてである。
さあ、今日この一日、バスの旅はどのようになるであろうか。朝食時に一緒だったイタリア人の言葉、50度以上、というのを覚悟する。風がほとんど入らず、50度を越える車内で、9時間をすごすのだ。
まだ発車していないが、すでに汗がでてくる。自分の座っている席には、太陽が入り込んでいるのだ。カーテンはない。道中、太陽があたりにくいと考えて座った席ではあるが、今は、日光が容赦なくあたる。
8時20分に発車。長距離バスだから、余り止まらないと思っていたのだが、5分とたたないうちに停車。ところどころで、客を拾っていくのである。
ウルゲンチの市街地をでたあとも、小さな集落ごとに停車して、少しずつ客を拾う。その度に乗ってくる客は、ひとりとかふたりとかであるし、なかには短距離の利用ですぐに降りる人もいるのだが、停車する数が多いので、車内は次第に込み合ってくる。
暑い、なんとかしてくれ、早く目的地についてくれ、という思い
をよそに、バスはゆっくりと進むのだった。
【アムダリアを渡り砂漠を行く】
バスは次第に混雑しだし、停留所ごとに人が増えてくる。自分の横の席も、ついには人がきてしまった。荷物を動かすように言っているみたいであるので、足元に置くことにする。このために両足が固定されてしまって、両足はもちろんのこと、身体を動かすことすら難しくなった。
ほかの座席もすべてうまり、立ち客もちらほらだが出ている状態だ。ほかの客も足元に大きな荷物を置き、通路も物置になっているような感じだ。
出発から2時間、綿花畑の中を延々と走り続けてきたバスは、検問所に到着。兵隊がバスの中をのぞいたり、運転手と話したりしているが、乗りこんではこない。ようやくアムダリアを渡るところまでやってきたようだ。しかし、ウルゲンチからここまで100キロも走っていないのだ。先は長い。
アムダリアは、シルダリアと並ぶ、中央アジアの大河である。どちらも、キルギスの山岳地帯に水源を持ち、砂漠の中を流れ、アラル海に注いでいる。「ダリア」とは川という意味がある。そのため、アム川、シル川ということもある。
バスはアムダリアを渡る。アムダリアに作られたダムの上が、道路になっているのだ。窓からは、下流側へ水が水門から流されているのが見える。砂漠の中を流れているにしては、水量は多いし、川幅も相当なものだ。これだけの水量があっても、アラル海に注ぐ量が少なくって、アラル海がどんどん小さくなっているという。
タクシーだったら、両側が見えるし、下車して景色を堪能することもできるのだが、バスなので無理だ。それでも、一度見てみたかったアムダリアをこの目で確認できて満足だ。写真はこっそり写す。ダムが写真撮影禁止になっている可能性もあるので、兵隊に見つからないようにしたのである。
アムダリアを渡るまでは小さな町がたくさんあって、どんどん人が乗ってきたのであるが、アムダリアを渡ったあとは、町はほとんどなく、乗ってくる人もいなくなった。ここからキジルクーム砂漠の中をバスが走って行くのだ。
砂漠とはいっても、多くの日本人が砂漠と聞いてすぐに想像するような砂丘ではない。日本で言う荒地になっているのだ。砂、石、岩が交じり合い、ところどころには雑草が生えているといった感じだ。延々とこうした風景がつづいているのだ。その中をバスは黙々と走って行く。
砂漠地帯に入って、暑さはさらにひどくなり、身体の限界に達してきたようだ。車内の温度は50度を越えていることであろう。水分は腹具合のこともあって、とり過ぎないようにと注意してきたが、どんどんとらないと倒れてしまうかもしれないので、がまんするのはやめることにした。
再び検問所に梺・州の境界にやってきたのだろう。ホラズム州とブハラ州の境界である。兵隊がバスをのぞき込むが、乗りこんではこない。
ここで、行程の5分の2をちょっと超えたくらいだが、4時間かかり、すでに12時30分になっている。ガイドブックの説明通りだと、9時間かかるので、8時に出発したら、17時ごろのブハラ到着と考えていたが、これではとても17時に到着するのは無理だ。暗くなってからの到着も覚悟しだした。
疲れきってしまったので、眠ろうとするが、暑さのためか、身体の動きがとれないためか、眠ることはできない。それでも目を閉じて休もうと心がける。
隣に座ったウズベク人が話しかけてきた。もちろんウズベク語である。英語では話せない。荷物の中からロシア語の会話集をだせれば、ロシア語を見せて何とか意思を通じさせることができたかもしれないが、会話集を出すことすら難しい状態だったのであきらめた。
筆談でなんとか、ウズベク人の名前と住んでいるところはわかった。ブハラの近くに住む青年であった。こちらも、自分の名前と日本人であること、ヒワがすばらしかったこと、これからブハラやサマルカンドへ行くことなどをなんとか伝えられたのだが、それ以上の会話は困難であった。もう少し元気な状態だったら、もっと踏みこんだ話しができたかもしれないが。
【灼熱砂漠のど真中にて】
砂漠の風景は単調だ。何も考える気力も失せ、ただ車窓に目をやる。砂漠の中の何もない道端で、突然バスが停車。何があったのだろうか。何があったのか説明はなし。もっとも、説明してもらったところで何もわからないのであるが。
しばらくすると、客がどんどんバスを降りて行く。どうもバスが故障したようだ。運転手は工具を持って、忙しそうにしている。隣席のウズベク人も降りて行った。だが、すごい日差しだ。降りたところで暑いし、何しろ、荷物のために動くこと自体がたいへんなのでじっと耐える。
10分、20分。なかなか修理が終わらない。砂漠の中では、次のバスはやってこない。時々、乗用車やトラックが追い抜いていくだけだ。中には、ヒッチハイクを申し出るウズベク人もいたが、止まってくれる車はない。乗客全員、バスが修理できるまで待つ以外に方法はない。
30分、40分。ようやく、修理が終わったようだ。降りていた乗客も車内に戻ってくる。運転手も戻り、何の説明もなく、発車。ただでさえ遅れていたバスは遅れに遅れ、もう明るいうちにブハラに到着するのは無理だろう。最悪、バスで一夜を過ごすなんてことも考えたので、遅れるくらいは仕方がない。
走りつづけたバスはやがて、砂漠の中の一軒家の前に停車。ドライブインなのだろうが、とてもそのようには見えない。時刻はすでに16時を回っている。おそらくは、13時ごろにはここに到着して昼食休憩をとる予定であったのであろう。いまさら昼食休憩をとるよりも、早くブハラに着いてほしいのだが、多くの乗客はそんなことを気にもかけていない様子だ。
バスを降りると、猛烈な日差しだ。そして、熱風とともに砂が飛んでくる。一年のうち、どれだけ雨が降るのであろうか。ほんの十数メートル歩くのがつらい。
乗客が一斉に一軒家の中に入っていくので、しばらく待つことにしたら、今朝、バスターミナルで出会ったイタリア人が声をかけてくれた。スイカを食べないかということなので、喜んでいただくことにした。ここではスイカは売っていないので、昨日買って、バスの中に持ちこんでいたのであろう。
ナイフで二つにわけ、スプーンで中身をすくって食べるという豪快な食べ方。日本のスイカほど甘くはないが、水分は豊富だ。冷えてはいないのだが、たいへんおいしく感じた。
自分がイタリアに行ったことがあること、どんな都市に行ったかを伝えると、どこが一番良かったか聞かれた。迷わず、カプリ島のグロッタアッズッラ、それにクールマヨールから登ったモンテビャンコを答えた。フィレンツェやローマを答えなかったからか、驚いていたようであった。
こちらからは、イタリアのどこに住んでいるのか聞いてみた。ヴェローナとボルツァーノの人だった。どちらも行ったことがないので、ぜひ行ってみたいと言うと、いいところだとすすめられた。また、何日間の旅か聞いてみると、ウズベキスタンは一週間だが、その前にタイに行っていて、そちらは三週間滞在したとのこと。タイでは、ほとんどバンコクで過ごしたということだった。
ウズベキスタンの旅はハードですね、と言ってみると、これほど暑いとは思わなかったとのこと。イタリアも夏は暑いし、タイはもっと暑いはずだが、やはりそれ以上の暑さなのだ。それに、タイも英語があまり通じなかったが、ウズベキスタンはそれ以上だとのこと。自分の思っている通りなので、相槌をうつ。
日本へ来たかどうか聞く、日本は行っていないとのこと。ぜひ来て下さいと言うと、物価が高そうだと言われた。それに、地震が多いとも言われた。神戸のことはよく知られているようで、この人たちは、京都や大阪は知らなかったが、神戸だけは知っていた。
そのあと、イタリア人にもファンタを買ってスイカのお礼とした。ウズベキスタンでは、瓶入りジュース類は、コカコーラとファンタがほとんどで、自国ブランドのジュースは人気がなく、なかなか手に入らなかった。
さて、用を足そうとすると、トイレがどこかわからない。他の人はどうしているのだろうか。意を決して、一軒家から十数メートル離れたところに廃墟があって、その裏ですることにした。炎天下のもと、灼熱の砂の上に残しものをしてきたのだ。相変わらず、腹具合はおかしい。よく、今までがまんできたものだ。
やがて、人々がバスに戻り始めた。全員が戻ってくるのを待って再びバスは出発。すでに、本来ならブハラ到着時刻である17時を回っていた。相変わらず日差しは厳しかった。
【遅れに遅れたバス】
遅い昼食休憩の後、バスは再び変化の乏しい砂漠の中をひた走る。この国では、時間通りバスが動くなんて考えるほうが間違っているのかもしれない。ただ時間が過ぎるのに身をまかせ、車窓をながめつづけた。
隣席のウズベク人が、ブハラまで100キロだと教えてくれた。標識があったのだろうが、見落としていた。この国の標識は、たいてい行先が示してあっても、距離までは書いていなかったので、しっかりとは見ていなかったのだ。もう18時前だから、到着は20時近くになるだろう。
やがてバスが停車。みんながぞろぞろ降りだした。また、休憩だろうか。隣席の男が、パスポートだといい、降りるように促しているようだった。どうも、ここは検問所で、今度は客が降りてパスポートを見せなければならないみたいだ。砂漠の中に検問所がぽつんとあり、車は列をなして止まっていた。
しばらく待たされてパスポートチェックが始まった。乗客のほとんどはウズベク人なんだが、全員がパスポートを持っていた。国内移動であっても、パスポートが必要みたいだ。あるいは、別に身分証明書があって、それでもよいのかもしれないが、自分のまわりのウズベク人は皆、パスポートを持っていた。
迷彩服の男がひとりひとり写真を確かめてチェックしていった。緊張の一瞬であったが、何も言われることもなくOKで前に進んだ。その間に、バスっは・の男が乗りこんで車内を調べて回っているし、別の男はバスの荷物入れを開けさせて調べていた。その検査に時間がかかり、しばらく待たされた。さいわい、日が低くなり、暑さをさほど感じなくてまだ良かった。結局、検問所を通過するだけで、20分くらいかかってしまった。
半年ほど前に、タシケントでテロが起こっていた。政府の建物や地下鉄駅で、同時に爆弾テロが発生し、市民も死亡していた。また大統領の暗殺未遂事件も発生していた。その関係なのだろうか、それとも日常的に警戒しているのだろうか。
いずれにしても、砂漠で隔離されたこの国の西部地域から、首都タシケント、第二の都市サマルカンド、そしてブハラといった国の中核地域へテロ集団や武器が入ってくるのを防止するため、厳しい検問が行われているのは間違いないだろう。
再びバスはブハラへ向かってひた走る。ブハラ到着が20時を回ることも覚悟。車内はようやく暑さが和らぎ、それとともに元気も回復してきた。荷物からガイドブックを取りだして、一応考えはしていた今夜泊まるホテルを検討したり、明日の市内見物のコースを考えたりする。
すると、隣席の男が、カルタと言い出す。カルタ?、何のことか
よくわからなかったが、地図のことを言っているらしい。それで、
ガイドブックを見せてあげると、ブハラの地図のある部分を指差し
て、自分の家はこのあたりにあるといったことを言っているみたいだった。そのガイドブックの地図には、キリル文字によるウズベク語表示の道路名や施設名が書いてあったので、男にもよくわかったのだろう。
男はガイドブックのほかのページもめくり、写真を指差してひと
つひとつ何という建物か言っている。きっと、建物の名前を自分に教えてくれているのであろう。男が指差している写真のすぐ下には、日本語でそれが何という建物であるのか書いてあるのであるが、男には、日本語の文字など、単なるデザインにした思えないのかもしれない。自分が、アラビア文字やタイ文字を見て、それが何なのか全く見当がつかないのと同様に。
男にとって、よく知っている建物の写真がのっているのが、余程うれしかったのだろうか。まわりの客にも見せている。男は、ひとりでのっていたようだから、知らない客に「こんなのがのってるぞ」といって見せていたのだろう。たちまち、数人が興味深げにのぞき込む。現地の人たちにとっては、自分の国の文化財の写真を見ることはほとんどないのかもしれない。
【ブハラに到着しホテルへ】
20時前、バスはブハラに到着。案内はなかったのだが、隣席のウズベク人が教えてくれてブハラだということがわかった。すでに日は沈んでいるが、まだ明るい。11時間半かかった。暑く苦しいバス旅もようやく終了。よくも耐えたものだ。
バスが着いたのは、道路沿いの露店が建ち並ぶ前だった。小さなバザールのような感じで、活気がある。しかしここはバスターミナルではない。このバスは、シャフリサブス行きなので、幹線道路の道端に停車し、バスターミナルには立ち寄らないのだ。ガイドブックによれば、バスターミナルは町の中心部から、5km北にあるのだが、降ろされた道端は、さらに1km北のほうだ。
一緒だったイタリア人たちが、また声をかけてくれ、タクシーでホテルまで一緒に行くことにする。自分は、ブハラではザラフシャンホテルに泊まるつもりをしていたのだが、イタリア人たちも、同じホテルを考えていたようで、行先はすぐに決定。この国では、タシケント以外はホテルの数がとても少なく、安めのホテル、なんて条件をつけると泊まるホテルが限れてくるのだ。
町の郊外だけあって、バスの着いたところから少し離れると、人通りも少なくなる。バスターミナルのあたりは、やや賑やかになるが、離れるとまた寂しい感じだ。どこが町の中心部かもわからないまま、ザラフシャンホテルに到着。すでに20時30分。ヒワのホテルを出てから、13時間30分。
大きな建物であるが、人の出入りがない。玄関脇にレストランがあるのだが、閉店のようで真っ暗だ。玄関を入ると、異様に暗くて、閑散としていた。日本の宝くじ売場のボックスのようなものがある。ボックスの中には男が入っている。ここがフロントだ。ようやく営業しているということが判明したが、何か不気味な印象を受けるホテルだ。
イタリア人のひとりが代表して交渉に当たってくれた。そばにいたのだが、まったく英語が通じないので、イタリア人もお手上げの状態だった。そのうちに、筆談が始まった。値段を聞いているのだった。
ひと部屋がシングルで600cym(180円)、ツインで1000cym(300円)。自分もイタリア人もここで2泊するのでこの倍の値段だ。自分はシングルにするか、ツインにするか聞かれた。2泊で360円か600円か。わずかの差なので、多少ともゆったりしていそうなツインにすることにした。
これだけ書くとスムーズに交渉しているようなのだが、実際には言葉が全く通じないので、値段のことを聞き出すだけでも大変だったのだ。これだけの交渉に十分くらいは要した。
イタリア人は、これから部屋を見せてもらってからチェックインするから、ついてくるようにと言う。部屋を点検してから、泊まるかどうか決めるのがよいとは、よく言われることではある。でも実際には、空室があれば、それだけで安心してしまって、点検するということまではなかなかできないことが多い。イタリア人たちは、なかなかしっかりしている。常に点検してから泊まるかどうか決めているのだろう。
3階に行くようにとのことだったが誰もいない。旧ソ連方式だから3階の部屋をしきっているおばさんがいるはずだから、その人の部屋を探す。階段をあがったすぐそばのところに、おばさんの待機する部屋があった。テレビを見て寝転がっていたおばさんに部屋を見せてくれるように頼む。せっかく、テレビを見ていたのに邪魔をされた、といいたげな感じのおばさんは、ゆっくりと立ちあがり部屋に案内してくれた。
廊下にはわずかな裸電球が灯っているだけで、暗い。各部屋の部屋の番号がドアの上のところに書いてあるのだが、読み取れない。たくさんの部屋が並んでいるので、どこが自分の部屋であるか迷いそうである。それに、廊下の天井には、何本ものパイプが走っているのも異様である。
3室を点検。シャワーの湯の出ぐあい、トイレの水の流れ方、ベッドなどを見ていく。どの部屋も、清潔というのにはほど遠い感じがしたが、単に泊まるということに限れば問題はなかった。値段が値段だから仕方がない。再び、玄関のところにもどってチェックインを行う。
各自、料金を払い、パスポートを示して宿泊手続きをしてから、再度3階へ。そして、先ほどのおばさんから鍵をうけとるが、その際にパスポートを預ける。おばさんは、またもやテレビを見ながら寝そべっていたので、パスポートを出すのが逡巡されるような感じあったが仕方がない。もっとも、十分するかしないかのうちにパスポートを部屋まで返しに来てくれた。しかし、レギストラーツィアのほうは、明日渡すとのことだ。このことでひともめすることになるとは、このときにはわからなかった。
【ザラフシャンホテルの夜】
ひとりきりになって部屋を見渡すと、たいへんな部屋であることが次第に判ってきた。壁紙がところどころ破れているし、ベッドは人が寝る位置だけがへこんでいる。寝る姿が固定化されてしまいそうである。
そして何より暑い。とは言うものの、電灯をつけけたまま窓を開ければ、虫が明かりに寄ってくるので開けるのもつらい。足元を見れば黒く動くものもいたが、そんなことで驚いてはいけない。こうしたことも、一泊300円という値段を考えれば、文句を言うことはできないだろう。
シャワーを浴びる用意をしていると、イタリア人がやってきて、これから一緒に食事に行こうと誘ってくれた。しかし、たいへん疲れていて、とても食事どころではない。食べることはもちろんのこと、動くことさえ面倒くさい感じだ。そのため、せっかくだが申し出を丁重に断る。
この日はただバスに乗っていただけの一日であったが、相当疲れてしまった。疲れのあまりほとんど何も口に入らないような状態であったのだ。車内温度が50度を越える中に何時間もいると、たとえ座っているだけであっても相当な疲労になることを身をもって体験できた。
さて、チェックイン前に部屋を点検したときには気づかなかったのだが、トイレに入るとかなり臭いがするのだ。ドアを閉めておかないと寝室の方まで臭くなってしまいそうだ。
プラスチック製の便座も汚れていて、座るのには逡巡する。例によって、持参したトイレットペーパーを敷いて、その上に腰を下ろす。トイレットペーパーを持参したのは、トイレットペーパーが置いてない場合が多いからと聞いたからだったのであるが、結局、トイレと同時にシャワーを浴びることが多かったので、便座に敷くために役だった。ところで、その便座、どうもすわりごこちがよくない。便座が便器本体から離れていたのだ。うまく座らないと、便座が動くのでやっかいだ。
さて、バスに乗っていた間、とくに腹ぐあいが悪いとは思わなかったので、下痢が治ったのではないかと思っていたのだったが、残念ながら、まだ直ってはいなかった。バスに乗っていた間に、トイレにどうしても行きたくなるようなことがなかったのは、幸運であった。
そのあと、すぐにシャワー。汚れた小さな浴層がついていたがとてもそこに腰を下ろす気は起こらなかったので、浴漕の中に立ってシャワーを浴びた。シャワーの噴出し口が固定されていて、それが頭上にあったため、使いづらかった。とはいえ、熱い湯が出るのはうれしい。一日の汗をしっかりと洗い流せて、少しは元気が回復したかのような気もした。
さっぱりしたあと、日本から持参したお菓子を食べて夕食の代りにした。とは言うものの、口にできたのはごくわずか。食べる元気もなく、何か食べなければいけないと思い、無理やり口にしたようなものだ。部屋の中でひとりわびしくお菓子と飲物をとってのであった。もっとも、持参した菓子類を早く始末できたのは、少しでも荷物を減らすという点からは良いことであった。
時間のたつのは早いもので、もう22時。翌日の見学コースについて検討したり、本日使ったお金を計算したりしていたが、睡魔が襲ってきた。あまりの暑さに素っ裸のままであったが、たちまち眠ってしまった。電気もつけっぱなしのままであった。
夜中に眼がさめた。ようやくパンツとシャツを着て電気を消し、窓をあける。さすがに夜中になると涼しくて、日本なみだ。夜中に観光ができるものならしてみたいものだ。星空もきれいだ。窓が小さめであったのが惜しまれた。
いったん眼がさめてしまうと、今度は眠れなくなってしまった。そこで再度、窓を閉め、電気をつけ、ブハラでの行動を検討。ヒワとは違って、今も人々が生活する街中にさまざまな歴史的建造物が並んでいるようなのが楽しみだ。そのうちに眠くなり、また電気をつけたまま寝てしまっていた。