7 サ ラ エ ボ
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モスタル発9時のサラエボ行きのバスに乗車。ところが、途中でバスが故障し、動かなくなった。 1時間くらい待って、やってきたバスに別に運賃を払って乗車した。同じバス会社の後続のバスなら追加料金なしなのか、待つ人もいたが、サラエボはこの日1泊だけなので先を急いだ。 |
橋の真ん中が破壊された橋だが、応急修理されて通れるようになっていた。 |
この橋は一車線になっていていて、しかもゆっくりと通過しなければならず、渋滞もあって、この橋を渡るのにも少し時間を要した。 |
本来なら2時間ほどで着くはずが、4時間かかってサラエボのバスターミナルに到着。バスターミナルに隣接して、鉄道駅がある。 |
泊まるホテルに向かう前に、バスターミナルから近いエリアを回っておこうと、ツインタワーに向った。 内戦時に標的となって、火災もおこり、ひどい状態になったツインタワー。サラエボにおける内戦のシンボルのような建物である。まだまだ修復は十分じゃなく、窓が板張りになっているところが多かった。それでも、入居している部屋もそこそこあった。 |
ツインタワーの下部。窓が板張りんあったり、ビニール張りになっている箇所が目立つが、修復も進んでいることもみてとれる。 |
ツインタワーの下部だが、右上の画像の裏側の部分。窓ガラスが割れた状態のまま放置されていた。 |
ボスニア・ヘルツェゴビナ国会議事堂。内戦で標的となり、炎上したあとが残っままであるが、国会議事堂として使われていた。 |
路面電車でいったん市街中心部のホテルに行ったあと、再び街歩き。バシチャルシャに向った。 旧市街の商業地区で、イスラム圏の雰囲気が漂っている。観光客もわずかだがやってきていた。 |
歴史を感じさせるモスクもあった。 |
国立図書館。1992年、セルビア人勢力がサラエボを包囲したとき、攻撃を受け炎上。多数の蔵書が焼失した。外観はかなり修復されているようだが、この時は閉鎖中。屋上を見ると工事中のようだ。2014年にようやく再開された。 |
サラエボをセルビア人勢力が包囲したとき、かなり市街地に近い、低い地点まで占拠していた地区が市街地の南部にあった。セルビア人勢力の支配下にあった地区に行ってみた。 セルビア人勢力は訪問時にはサラエボ郊外からは撤退し、この地区もほかのサラエボの地区と何の変わりもなかった。 |
かつて「スナイパー通り」と称せられた通り。サラエボの南部の、訪問時には何の変哲もないただの大通りだった。 しかし、1992年から約3年間のセルビア人勢力によるサラエボ包囲のとき、この通りは、セルビア人勢力が占拠する地区に近く、ビルから無差別射撃が行われ、動くものすべてが射撃されたという。 |
1984年、社会主義国としては初の冬季オリンピックがサラエボで開催された。そのフィギュアスケートと閉会式が行われた会場がここだ。 ここも、窓ガラスがなくなりビニールで覆われている。内部では、少しだけ商店が営業していたが、客は少なく閑散としていた。 |
30分ほど歩いて、さらに開会式が開かれたスタジアムに向った。その途中で見かけた、オリンピックの会場案内板。オリンピックから14年、しかし内戦を考えると、オリンピックの痕跡が残っていることに感動した。旅行記を書いているのは、さらに16年後。どうなっているのだろうか。 |
開会式が開かれたスタジアム。スタンドは跡形もなくなっていたが、グランドで、ここが開会式会場の跡だということがわかった。 1984年の冬季オリンピックはの開会式はテレビで見た覚えがある。細かいことは覚えていないが、周辺が雪に覆われていた。オリンピックの終了後、数年で内戦がおこるとは全く予想できなかった。誰しもがそうであっただろう。 |
スタジアムの屋根はなくなり、鉄骨だけが残されていたが、修復工事も行われていた。 スタジアムの周りは、内戦で亡くなった人々の墓地になっていた。訪問時はとても撮影する気にならず、写真はとっていないのだが、記録のために撮影しておくべきだったと悔やまれる。 |
泊まったのはホテル・ボスニア。そのすぐ近くの建物もよく見ると、銃弾の跡が残っていた。戦闘が行われた、その3,4年後に自分が同じ場所にいるというのが不思議であった。 夜は、当時、おこなっていたnifty-serveで知り合った方でサラエボに滞在されていた方とお会いして、食事を一緒にしていただいた。 |
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