7 サ ラ エ ボ
|
![]() 1時間くらい待って、やってきたバスに別に運賃を払って乗車した。同じバス会社の後続のバスなら追加料金なしなのか、待つ人もいたが、サラエボはこの日1泊だけなので先を急いだ。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() 内戦時に標的となって、火災もおこり、ひどい状態になったツインタワー。サラエボにおける内戦のシンボルのような建物である。まだまだ修復は十分じゃなく、窓が板張りになっているところが多かった。それでも、入居している部屋もそこそこあった。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() 旧市街の商業地区で、イスラム圏の雰囲気が漂っている。観光客もわずかだがやってきていた。 |
![]() |
![]() |
![]() セルビア人勢力は訪問時にはサラエボ郊外からは撤退し、この地区もほかのサラエボの地区と何の変わりもなかった。 |
![]() しかし、1992年から約3年間のセルビア人勢力によるサラエボ包囲のとき、この通りは、セルビア人勢力が占拠する地区に近く、ビルから無差別射撃が行われ、動くものすべてが射撃されたという。 |
![]() ここも、窓ガラスがなくなりビニールで覆われている。内部では、少しだけ商店が営業していたが、客は少なく閑散としていた。 |
![]() |
![]() 1984年の冬季オリンピックはの開会式はテレビで見た覚えがある。細かいことは覚えていないが、周辺が雪に覆われていた。オリンピックの終了後、数年で内戦がおこるとは全く予想できなかった。誰しもがそうであっただろう。 |
![]() スタジアムの周りは、内戦で亡くなった人々の墓地になっていた。訪問時はとても撮影する気にならず、写真はとっていないのだが、記録のために撮影しておくべきだったと悔やまれる。 |
![]() 夜は、当時、おこなっていたnifty-serveで知り合った方でサラエボに滞在されていた方とお会いして、食事を一緒にしていただいた。 |
6へ 旧ユーゴスラビアのトップ ユーラシア紀行のトップ 8へ |