8 サラエボからベオグラードへ
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![]() この事件を契機に第一次世界大戦が勃発。以前はサラエボではプリンツィプに好意的で、現場となった橋は、もともと「ラテン橋」だったのがユーゴスラビア時代から「プリンツィプ橋」とよばれていた。 |
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![]() ボスニア・ヘルツェゴビナは、「スルプスカ共和国」(セルビア人共和国)と「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(ムスリム人とクロチア人の連邦)の二国からなる連邦国家である。2014年はサラエボ事件100周年だが、記念式典は、スルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦で別個に開催された。式典にあわせ、スルプスカ共和国側では、プリンツィプの銅像も建造されたという。 |
![]() 旅行当時はベオグラードに向うバスはパレから出ていた。だからいったんパレに行かねばならないのだが、当時はサラエボとパレを結ぶバスもなかった。それでタクシーで向かうのだが、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の境界でタクシーを乗り換える必要があった。(自分の旅行後まもなく、サラエボからベオグラード行きバスが運行するようになり、こんな面倒な乗換は不要になった。) 画像は乗り換え地点に着いたタクシー内から撮影。ドライバーによると、デイトンカフェというらしい。(1995年に合意されたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の停戦協定であるデイトン協定にちなむ。) |
![]() 面倒な乗換だが、境界線での検問がないのが、むしろ驚きであった。 |
![]() パレ発10時30分のバスに乗車。悪路や一車線しかない箇所があちこちにあり時間がかかった。 |
![]() 1つ目。文字が普通のアルファベットから、キリル文字に変わったこと。バスの切符もキリル文字だ。 2つ目。通貨がドイツマルクからユーゴスラビア・ディナールに変わったこと。タクシーはドイツマルクで払えたし、パレではユーゴスラビア・ディナールへの両替も簡単にできた。(ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦側ではドイツマルクが使われていたので、この旅行ではドイツ・マルクを持参して、ほかの国でもドイツマルクをその国の通貨に両替して旅した。) |
![]() このあと、ボスニア・ヘルツェゴビナとユーゴスラビア(旅行当時は、セルビアとモンテネグロの「新ユーゴスラビア」であった)の国境では、パスポートが回収されて、しばらくバスの中で待機させられた。ボスニア・ヘルツェゴビナ側はセルビア人のスルプスカ共和国だったので、国境管理をしっかりやっているのに逆に驚いた。 |
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![]() このあと、鉄道駅に行き、3日後に乗車するハンガリーのブダペスト行きの切符を購入。夕暮れの街をぶらぶらしたあと、夜行バスに乗車。 |
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