特8 大仏跡、豊国廟、東西本願寺
大仏跡、豊国神社、妙法院、智積院、豊国廟
 かつて京都にも大仏があった。

 秀吉が1582年、本能寺の変のあと、全国制覇をすすめ、残るは薩摩島津氏や小田原北条氏だけになった1586年に大仏建造の命を出す。

 1593年に完成。ところが1596年、地震で破損。徳川の世になり、1612年に秀頼により、再建されたが、間もなく豊臣は滅亡。このとき大仏は生き残ったが、1662年の地震で破損。新たに木造の大仏が造られた。

 1798年、落雷で焼失。その後、上半身のみの小さな大仏が造られたが、1973(昭和48)年の火事でまたも焼失し、そのまま現在に至る。

 この日は、大仏跡などを訪問しようと、京阪七条駅からスタート。

 
 七条通りを東に進む。京都国立博物館の敷地の西南の角に「大仏前交番」がある。大仏は1973年まであったが、交番はそれ以前からあったので”大仏前”だ。

 赤レンガが見えるが、京都国立博物館の壁。もう少し進むと、京博の入口がある。また、この写真の右側には三十三間堂がある。この日は、交番のところを左折する。
 
 左折すると、間もなく、通常は閉鎖されている京博の西入口があり、そこから、方広寺の石塁がはじまる。

 大仏殿があったのは方広寺。現在の方広寺、豊国神社、そして京博の大部分が方広寺の敷地だった。方広寺は、鐘の「国家安康」の銘の事件のあと、縮小された。それでも、大仏が存続したの不思議だが。明治になり、豊国神社と京博ができた。
 
 京都大仏前郵便局。この郵便局も1973年以前からあったので"京都大仏前"を名乗っているのだろう。
 耳塚(鼻塚)。

 1592〜98年の文禄・慶長の役(朝鮮出兵)のさいに、戦功の証拠として持ち帰った武人の耳や鼻を供養するために建てられたもの。

 下左   塔の型は独特の"串おでん型"で、梵字が彫られている。

 下右   明治天皇もここへ行幸したようだ。
 
 
 耳塚の前の道。
 
 写真では見にくいが、車の後が行き止まりになり鳥居がある。豊国神社だが、これは明治になってできたもので、秀吉時代には大仏殿のある方広寺があった。だから大仏の参拝路として大きな道が造られたと思われる。
 
 豊国神社の鳥居。
 
 唐門。国宝で、もともとは伏見城にあったが、廃城後に二条城にうつされ、さらに南禅寺へ。明治になって豊国神社が再建されるさいに、ここに移された。

 門の中にある本殿には行けない。
 
 絵馬はひょうたん形。
 
 宝物館に入った。

 大仏殿が描かれている。大勢の人々も描かれているので、落慶法要の模様かな。

 1598年に落慶法要があったが、その2年前に地震で大仏が破損。代わりに長野善光寺から仏像が呼ばれたが、秀吉の病は仏像を呼んだ祟りだと言われ、善光寺に戻され、落慶法要は本尊なしで行われた。秀吉は法要の前日に死去したが、死を隠して、法要が行われた。
 
 馬塚(五輪塔)。宝物館の裏手にひっそりたっている"串おでん型"の塔。

 馬を供養する塔だとばかり思っていたのだが、説明を読んで間違ってそう思っていたことがわかった。

 豊国神社が廃されあと、この塔が拝まれていたとのこと。秀吉の名が彫られているわけではなく、梵字と秀吉の命日が彫られている。

 この場所の近くの地名に「馬町」がある関係で「馬塚」と呼ばれているようだ。
 豊国神社の参道。撮影している背後に唐門がある。この写真の右に向かうと、方広寺になる。

 豊国神社の敷地も、秀吉時代には方広寺だったが、豊臣滅亡後、方広寺は縮小された。

 豊国神社は秀頼時代に、ここより東にあったが、豊臣滅亡後に破壊され、明治になってからここに場所をかえて再建された。
 
 
 上左   方広寺の境内。

 上右   見たいのは鐘だけなので鐘を探した。

 左   「国家安康」の文字が彫られた鐘。

 豊臣氏は滅ぼされたけど、鐘は残ったのが不思議。
 
 豊臣に対して言いがかりをつけた箇所「国家安康」「君臣豊楽」の箇所は目立つように白く塗られていた。
 
 大仏殿の跡地に行ってみた。「大仏殿跡緑地」になっている。こに1973年まで大仏殿があったとは、にわかには信じにくい。
 
 礎石らしきものが少し残されている。
 
 
 上左   妙法院にも入ってみることにした。

 上右   国宝の庫裡は工事中で覆いの中に隠れていた。

 左   工事は令和9年までとは、長期だ。

 大仏殿で毎年あった千僧供養でやってきた僧侶の食事はここの庫裡で作ったという。
 
 
 
 
 上左   続いて智積院へ。

 智積院はもとは和歌山にあったのだが、秀吉とは対立し、討たれかけて高野山に逃げていた時期もあったようだ。家康時代になり、土地を与えられ大きくなったようだ。

 上右   大書院。

 左   庭園。
 
 修行中の若い僧侶の一団が通る。
 
 新日吉(いまひえ)神宮。

 歴史は古いが廃絶状態になっていたのが江戸初期に復活された。豊臣氏とともに廃された豊国神社のご神体を祀り、江戸中期にはそのための「樹下社」も造られた。
 
 樹下社。

 秀吉の旧名、木下藤吉郎にちなむ。江戸時代は目立たぬように、豊国神社のご神体が隠しおかれ、ここで秀吉の供養が行われた。
 1598年に秀吉は死去。阿弥陀ヶ峰に葬られた。その墓が豊国廟で、正面の建物をすぎると階段がある。

 この写真の一帯には社殿も造られたが、1616年に豊臣氏が滅亡するとともに社殿は取り壊された。

 左の事務所か正面の建物の入口で100円を払う。
 
 
 上左   498段の階段を上りはじめる。頂上は見えない。

 上右   中間地点に門だあり、この付近で少し休憩。頂上が見える。

 左   豊国廟、秀吉の墓に到着。"串おでん型"だ。
 
 頂上には廟があるだけで、眺望もよくないのですぐに下山する。

 木々がなければ京都市街が良く見えるだろうが。廟の裏側を通って、京都一周トレイルに抜けることができる。京都一周トレイルでこの付近を歩いたとき、豊国廟へも立寄れたのだが、時間的に苦しくて立寄らなかった。
プリンセスラインで京都駅へ行き、東西本願寺
 豊国廟から下り、やってきた道を引き返す。

 途中、京都女子大学と付属の小中高の敷地があるのだが。そこにプリンセスラインの「京都女子大学前」バス停がある。ここから京都駅前へのバスに乗る。

 プリンセスラインは、実質は京都女子大学と小中高の生徒向けの路線だが、スクールバスではなく、誰でも乗車できる一般の路線バスだ。
 
 京都駅八条口、京阪七条、四条河原町と京都女子中高前、京都女子大学前を直結する路線バスなので、大半の乗客は京都女子大学と小中高の生徒。運賃は230円で、ICカードは使えない。
 
 通学時間帯ではないこともあり、ガラガラ。

 京都駅烏丸口には行かないので、烏丸七条で下りて歩くか、京都駅八条口まで乗るか、判断が難しい。
 
 京都駅八条口に到着。行先表示は「京都女子大学前」に変わっている。
 
 昼食のために向かったのは、"チコちゃんに叱られる"で店の名前こそでなかったけど、わかる人にはわかる形で紹介された「殿田」。

 京都駅八条口からほど近いということも紹介されていたが、実際、5分ほどで到着。ところが、残念、緊急事態宣言発令中のため休業中。
 
 4月27日からの緊急事態宣言が5月27日に延長されていた。酒類を出さない場合は20時まで営業できるし、この店の場合は、酒はあまり出ない店だと思ったので、営業していると思ったのだが。

 この日は6月18日。あと2日なので、今度は食べることができるだろう。
 
 京都駅八条口に戻り、自由通路を通って、烏丸口側にある伊勢丹へ。伊勢丹の中に「ラーメン小路」があり、そこの喜多方ラーメン「坂内食堂」に行くことにした。

 行ってみると「坂内食堂」は閉店していた。1年ほど行ってなかったので、変わったようだ。そこで入店したのは「博多 一幸舎」。
 ネギチャーシューラーメンに味玉をトッピング。さらに無料の高菜も。

 ボリュームのある豚骨ラーメンだ。固めんにしてもらう。
 
 替玉もしてみた。満腹になって満足。
 
 昼食後に向かったのは西本願寺。

 堀川通に面した御影堂(ごえいどう)門から入場。ここが正門に当たる。
 
 阿弥陀堂。国宝。

 工事のために入堂できず。本尊はここにあるのだが、工事中は御影堂に移されている。
 
 御影堂(ごえいどう)。国宝。

 本堂に当たるのは阿弥陀堂だが、御影堂の方が大きい。御影堂には開祖、親鸞像を安置している。訪問時は臨時に本尊が阿弥陀堂から引越してきていた。

 入堂したが、内部は撮影禁止。

 
 
 鐘楼。その右に少し見えている建物が、国宝、飛雲閣で、ここは非公開で外観も近くでは見られない。
 
 唐門。国宝。工事中だった。
 
 総門。堀川通りをはさんで、御影堂門と相対している。堀川通りの拡張に伴って、移設された。
 
 伝道院。これが西本願寺の一部だとは思えない洋風建築。1912(明治45)年の完成。内部の見学はできないが、ぜひ見てみたい。
 
 六角形の塔もある。窓の形はクローバーに似ている。イスラム建築の雰囲気も感じさせられる。

 このあと、仏具店などお寺関係の商品を扱う店舗がたくさんある通りを歩いて東へ。500mほど歩くと、行き止まりで壁の向こうは東本願寺。
 東本願寺に到着。

 御影堂門。ここが正門に当たる門で2階がある大きな門だ。
 
 御影堂。開祖、親鸞を祀る。

 本願寺が東西ある理由は信長時代にさかのぼる。信長に抵抗した石山本願寺(のちの大阪城の地にあった)は、信長の提案した和睦を受け入れようとする顕如と次男の准如と抗戦を主張した長男の教如が対立。

 信長の死後、教如が本願寺を継ぐが対立は続く。秀吉は今の西本願寺の地を寄進し、准如が宗主になった。教如は和歌山で勢力を持ち続けた。家康は、今の東本願寺の地を寄進し、教如は宗主になり、東西本願寺が並立することになった。
 
  阿弥陀堂。

 御影堂に比べて小さいのは西と同じ。

 阿弥陀堂も御影堂も東は重要文化財で国宝ではない。幕末の蛤御門の変のさいに焼失し、明治後半になって再建されたためだろう。

 その関係だろうか、西本願寺は世界遺産だが、東本願寺は世界遺産になっていない。
 
 阿弥陀堂門。かつては唐門と呼ばれていた。通常は出入りできない。

 東西本願寺の由来を知って、なぜ本願寺が2つあるのか理解できた。政治的な理由で、家康が親秀吉勢力をおさえ、また信長秀吉も苦労した真宗門徒を内部対立させて力をもたないようにする目的が大きかったのだ。
 
 枳殻邸(正式名は渉成園)。

 東本願寺の庭園だが、寺本体の敷地とは離れたところにあり、枳殻邸の東端は河原町通り。

 閉園17時30分、入園17時までで、17時ジャストに入園した。パンフレットが立派で、ガイドブックといってよい。でも、自分にとっては邪魔だった。

 
 左が臨池亭、奥が滴翆軒。撮影場所よりむこうへは行けない。

 下左   蘆庵。二階建ての茶室。蛤御門の変で焼失し、再建されたのは昭和。

 下右   傍花閣。二階建ての門だが、今は通り抜けられない。門の上へ上る階段が、傾斜の屋根の部分。
 
 
 回棹廊(かいとうろう)。

 唐門のような屋根がある屋根付きの橋。

 
 
 回棹廊を渡ってみた。真中の部分が高くなっている。

 この時点であと数分になり、見回りの人から急ぐようにせかされて、あとは駆け足見学。

 西本願寺に比べて、東本願寺は見どころが少なかったが、枳殻邸は例外で、時間不足だった。
 
 この日の起点の京阪七条駅に戻ってきた。右の峰に豊国廟がある。

 秀吉ゆかりの場所が多かった。方広寺、豊国神社、豊国廟、西本願寺。対して、家康は方広寺を小さくし、豊国神社を破壊し(明治に復活)、自身の意に沿う智積院、東本願寺を配置した。それらの関連がわかりやすかった1日だった。秀吉ゆかりの大仏は家康によって破壊されず、その後も破損しても造りなおされてきたが、昭和も戦後になってからの火災でなくなってしまったのが残念だ。


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