5 日 目 長崎ぶらぶら
| 西坂教会、福済寺、"三吉"など |
朝食。左上が「ひょっつる」。南有馬のもので、わかめをゼリーにして作った麺。 大皿の下が「からべ煮しめ」。外海のもので、煮たあと、水分を切った煮しめ。 |
右は、ちゃんぽん飯。長崎の伝統料理ではないと思う。ちゃんぽんのスープと具を使った炊き込みご飯。 |
9時30分出発。NHK長崎放送局のすぐ上にある26聖人の殉教慰霊碑へ。26人の処刑は1597年、秀吉の命令で行われた。 |
慰霊碑の横には、殉教地であることを示す古い碑もある。背後の博物館も含めて複数回訪問している。今回は、時間の関係で、博物館はパス。 |
殉教地と道路を隔ててあるのが、日本26聖人記念聖堂 聖フィリッポ教会。通称、西坂教会。2本ある塔がガウディ設計の塔じゃないかって感じで印象的だ。入堂は坂を上り裏手に回ったところから。 ネット情報を調べてみて驚いた。この教会の設計者は今井健次で、この人は昭和初期にガウディを日本に紹介した人だということだ。 |
聖堂の裏手に回って中へ。塔の1つがあり、じっくりと見た。教会は、記念碑、博物館とともに1962年に作られた。 |
聖堂内。豪華ではないが、ステンドグラスを通る光で落ち着いた気持ちになる。 |
聖堂の中に、26聖人のうち聖パウロ三木、聖ヤコブ喜斎、聖ヨハネ五島の遺骨が納められていた。遺骨は、1630年に長崎からマカオへ、1632年にマカオからマニラへ、1962年にマニラから長崎へと運ばれた。 |
ここにはローマ教皇が2度、訪問している。1981年のヨハネ・パウロ2世、2019年のフランシスコ。写真はフランシスコ教皇の訪問時のもの。 |
つぎの訪問地に行くために、スマートフォンの地図アプリを使ったのだが、階段を上がったり、下ったりするルートが示されたが、それに従って行ったので大変だった。しかも、両側が墓地であるルートで失敗したなって思った。 |
たった今、行ったばかりの聖フィリッポ教会の塔もよく見えた。下 大変なルートだったが、よかったのは、泊まっている長崎マリオットはよく見えたこと。近くからは全景はわからないが、丘の中腹からは目の高さで見える。 自室は、一番下(8階)の右端。 |
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墓地の中から、つぎに行く寺にある大観音の背中側が見える。 |
下に下りて、正面から見た大観音。後になってからわかったのは、地図アプリで示された推奨コースじゃなく、遠回りでもいったん丘を下りて歩くほうがよかったということ。下を歩けば20分ほどのところを40分ほどかけて歩いた。 |
大観音がある福済寺へ。入口は中華風の門になっている。 江戸初期に泉州からの渡来僧の覚海が開創。黄檗宗。 |
門の上には平和の鐘があった。つきたい人は何時に集まってくださいということ。 |
大観音は亀形の堂の上に立っていた。亀形の堂は閉まっていた。どこが本堂なのかわからなかった。かつてあった本堂は国宝だったとにことだが、原爆で焼けてしまった。 |
つぎに聖福寺へ。1677年、渡来僧の鉄心道胖の創建。黄檗宗。ここができた当時、すでに長崎三福寺があったが、ここも含めて長崎四福寺と称せられるようになった。三福寺と異なるのは朱塗りじゃないなど、和風っぽいこと。 |
境内に入ると、境内の全域が工事中で参拝しにくい状態だった。 |
工事中の境内で、すぐにわかったのは坂本龍馬の像。聖福寺は、いろは丸事件の談判が行われた場所。1867年、龍馬が乗った「いろは丸」が紀州藩の船「明光丸」と衝突して沈没。その補償交渉は、鞆の浦とここで行われた。龍馬は紀州藩に補償をさせた。 |
サント・ドミンゴ教会跡資料館。前々日に気づいてたのだが、急いでいたので、その時は入館しなかった。 |
教会の柱や排水路などがあった。小学校の校舎を取り壊して。新校舎も建設する際に、教会跡が発掘された。 教会は5年で、禁教令のため取り壊された。その後は、長崎代官の屋敷になった。 |
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上 展示室があった。左は、教会の瓦。右は代官の屋敷になってからの皿。左 桜町小学校。向こうの校舎の1階は資料館。資料館は小学校と一体で建設されたようだ。 |
昼食は「三吉」へ。 |
5人すわれるカウンターだけの店だ。色紙が多く貼ってあり、仲代達矢さんのものもあった。 下 皿うどん(太麺)セット。セットは、焼きめしがついてくる。 |
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太麺の皿うどんでは、麺が柔らかいものを使う。 |
| 亀山社中、"ツル茶ん"、崇福寺など |
亀山社中記念館。龍馬がつくった日本最初の商社の跡。 |
撮影可の部屋。下 亀山社中の付近からの眺め。 |
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龍馬通りと呼ばれる坂。龍馬もここを上り下りしたようだ。 |
興福寺。山門は朱塗り。江戸初期に渡来僧の真円が開創。黄檗宗。 先に行った福済寺、この後行く崇福寺とあわせて長崎三福寺。 |
大雄宝殿。明治に再建されたもの。 |
媽祖堂。媽祖は海上の守護神で中華圏ではよく見たが、中国南部の僧により開創されると日本でも作られるのか。 |
「ツル茶ん」。トルコライスとミルクセーキの発祥店。前回訪問時はトルコライスをいただいたので、この日はミルクセーキをいただくつもり。 |
店内。壁一面に写真などが貼られている。 |
ミルクセーキ。長崎のミルクセーキは氷状のもの。この店が発祥。オレンジ色っぽいのは、卵の影響かな。 |
玄関横の「ツル茶ん」の看板に並んで孫文ゆかりの地の碑がたつ。この地には鈴木天限の東洋日の出新聞社があった。鈴木は孫文の支援者で、長崎を9回訪問した孫文は決まってこの地を訪れたという。 ツル茶んの開業は1925(大正14)年。一方、鈴木も孫文も1925年没で、新聞社は1934年の廃業で、ツル茶んと新聞社の敷地が重なるかは不明。 |
崇福寺。楼門が竜宮城のような中華風。江戸初期に渡来僧の超然が開創。黄檗宗。 |
楼門を入り石段を上がったところの第一峰門は国宝。もとはここが山門だったが、楼門ができたので、"第一峰"の門となった。 |
大雄宝殿。ここも国宝。"大雄"は釈迦のことで、釈迦の本尊が安置され、ここが本堂。この寺では主要な建物は全部朱塗り。 |
廊下にかかる巨大な木魚。大人の人体と同じくらい。お腹の部分をたたくので、かなりすり減っているようだ。 |
媽祖堂。この日回った渡来僧が創建したほかの寺と同じく、媽祖堂がある。ほかの寺も含め、最初に媽祖堂がつくられる傾向があるとのこと。 |
大釜。1680年代、不作のため飢饉が起こり、粥を提供するために造られた釜。 |
崇福寺やツル茶んの付近は古い建物も目立つ。明治から昭和初期のころはこのあたりが、長崎の中心であったのだろう。写真の建物は古いのか、昔の建物の特徴を残して再建したものだろう。 |
思案橋横丁。居酒屋、バー、スナックなどが多かったが、昼間はあまり活気のない通りだった。かつては長崎最大の歓楽街であったのだろうが、地盤沈下したような感じが漂っていた。 |
東の楼門から新地中華街に入る。 |
中華街では、土産物屋が店頭でスナックを売っている場合もある。そうした店で少し食べてみる。下 「ハトシ」をいただいた。食パンに魚の練り物を入れた揚げたもの。 12分待ってくださいということで、しばらく店頭で待った。 |
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左 現金のみという案内。右 台湾の黒松沙士も売られていた。 |
別の店の店頭でもせいろを置いて、何種類か売っていた。下 左はせいろの中、右は買った煮豚まんじゅう(刈包)。 |
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上左 宿に戻り、コーディアルタイム中のラウンジに向かった。冷たい料理少々とスパークリングワイン。上右 ビール。黒ラベル瓶ビール。 左 デザート。 |
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