マ ン ダ レ ー その2

 

 マンダレー2日目、この日は、今回のミャンマー旅行の中で特別な日だ。それは、ネット仲間で、このサイトもリンクしていただいている、藤原昌明さんとお会いして、オフ会をすることになっているのだ。

 藤原さんとは、2002年に新疆ウイグルの旅で知り合いになり、その後、長期の旅に行くたびメールをやり取りして、お会いできないか連絡を取り合ってきた。今まで、同時期同方面の旅は一度もなかったのだが、今回はじめて、海外でお会いすることが可能になったのだ。互いのスケジュールを検討した結果、マンダレーでこの日にあえることがわかったので準備をすすめた。

 前日に引き続き、マンダレーのみどころを回り、ホテルに帰ってからしばらく休憩ののち、藤原さんの泊っているホテルで待ち合わせすることになっている。8時に シンさんの車がやってくることになっている。その前にマーケットと2つの寺を見に行ってくることにした。夜が明けるのを待って6時40分出発。前日には暗くてわからなかった泊っているユニバースホテルをパチリ。このホテル、10階建てなのだが、マンダレーでは高層建築の部類に入る。

  

 5分も歩けば、マーケットエリアだ。魚はエーヤワディー川のものだろうか。背後では、セージョーマーケットとよばれるマーケットの建物の工事がおこなわれていた。

 ところで、マンダレーのような主要都市でも、道路の整備がきちんとされていない。舗装はされているのだが、道路の表面にはかなり起伏がある。穴があいていたりもするので、歩くときは足元をよく見ないと危ない。とくに夜は街灯が少ないこともあり、慣れない旅行者は懐中電灯が必要だ。

 マーケットの中の食事の屋台。

 どこから人が集まってきたのかと思うくらい賑やかだ。

 エインドーヤパゴダへ。早朝のパゴダでは、お参りにくる人にくわえ、ほうきで清掃をしている。バガンでは、脱いだ履物をその場に置いたまま境内に入る人が多かったのだが、このパゴダでは皆、手に履物をもって歩いているので、自分もそうする。このあと訪問したマンダレーのパゴダは、いずれも履物をもって移動した。

 エインドーヤパゴダの近くにて。手には携帯電話。ミャンマーでも携帯が普及しているのだろうか。

 続いてセッチャーヂーパゴダ。鳩の糞にも気をつけて歩かないとならない。

 境内で遊んでいた3人組。

 ホテルに戻ると7時45分。大急ぎで朝食のうえ、部屋に戻って出発準備。朝食は、麺も選べたので麺を注文。

 玄関へ行くと、ドライバーのシンさんが待っていた。昨日のドラーバーの仕事仲間だそうだ。本日、回るコースを書いた紙を渡す。OKだが回る順番を変えるということだが、行きたいところに行けるなら問題はなく、彼にまかせる。昨日の話通り、1日25ドル。

 8時10分スタート。まずは、市内の南のほうにあるマハムニパゴダに向かう。ヤンゴンにシュエダゴォンありというならば、マンダレーにはマハムニありって感じで、マンダレーを代表するパゴダである。大変大きなパゴダで(後日訪問したシュエダゴォンはもっと大きいが、、)、入口から本堂まで300mくらい歩く。この間の参道には、お供え物などを売る店が並んでいる。

 本堂には本尊であるマハムニ仏が安置されている。(この画像は、うまくピントがあわなかったので、小さめになっています)

 仏さまの左にいる人が手を伸ばしているのがわかるだろうか。マハムニ仏を訪れた人は、金箔を貼りつけるのだ。だからこの仏さまは黄金に輝いている。

 なお、仏さまのある場所は女人禁制だった。女性は、ホールの入口で参拝していた。

 下の青銅像は、もともとアンコールワットにあったものだという。これを15世紀にタイが持ち去ったのだが、16世紀にアユタヤを攻めたビルマ軍がバゴーに持ち帰ったという。その後も国内を移動して、18世紀にマハムニパゴダに置かれるようになったとのこと。

 マハムニパゴダのすぐそばに大理石工房が並んでいる一帯がある。下の画像は、大理石を彫って仏像を造っているところ。すぐそばでは、彫りあがった仏像を女性が磨いていた。

 さらに、少し南にいったところには、木彫工房があり見学。丸太が彫られて仏像になっていくのだ。

 このあと、前日行ったアマラプラへ向かう。前日はウーペイン橋しか見ていないので、この日はそれ以外のみどころを見て回る。マハガンダーヨン僧院の食事風景は10時20分から見られるので、それにあわせてほかも回る。

 アマラプラで最初に向かったのは、パトドーヂーパゴダ。白くて目立つパゴダである。19世紀に建てられたパゴダで、ここは上に上がることができる。

 ただし、女性はあがることができない。

 テラスから眺めると、アマラプラもパゴダが多いことがわかる。バガンに似ている。ただ、バガンに比べて、木々が高くて見晴らしが良くなく、パゴダ群が見えにくい。

 アハガンダーヨンに行く途中、ウーペイン橋の近くを再び通った。

 10時20分の少し前にマハガンダーヨン僧院に到着した。ここでは1000人ほどもの若い僧侶が衣食住をともにして、修行生活を送っている。しばらくすると、ぞろぞろと若い僧が集まってきて行列ができた。これから食事だ。赤茶色の袈裟は、1人や2人ではよく目立ちすぎるのだが、数多く並ぶと、周りの木々の緑になじんで美しい。

 やがて、食事の配給がはじまった。街中では、早朝に托鉢の行列があり、ご飯やおかず、果物などをもらう姿もよく見かけるが、こうした大きな僧院では、敷地内で食事の配給が行われているのだろう。ご飯を盛っている人は、係りの僧侶のほか、ボランティアと思われる人も混じっている。以下は、食事風景。

 10歳くらいの少年たちもいた。彼らは白い僧衣を着ていた。

 食事のあと、僧院の中を見て回った。ご飯を炊く大きなかまど、食事を終えた僧侶が托鉢壷を洗う姿、僧侶が集団生活を送る部屋や一人分のベッドと荷物、、

 いろいろ見ていたら1時間ほどかかってしまった。だが、ここは食事風景が見られないとつまらない場所でもあるので、訪問するのは食事にあわせてがよい。その意味で、前日は飛行機の遅れのために、ここを訪問できず、この日になったのでかえってよかったと思う。

 続いて、織物工房を訪問。日本では見かけなくなった機織がなつかしくしばらくながめていた。隣り合っている売場で土産を少し購入。

 アマラプラはマンダレーに遷都されるときに、木造建物はマンダレーに移築され、石やレンガはのちに英国によって使われたので、現在は、宝物殿として使われていた建物と監視塔が残っているだけとガイドブックにある。

  \で、シンさんに残っている建物に連れて行ってくれるよう頼み、シンさんも地元の人にいろいろ聞いてくれたが、どうもはっきりしたことがわからない。アマラプラの全体が王宮跡で当時のものは何も残っていない、とシンさんも地元民も思っていたようだ。ようやく、今は使われていない建物にたどりついた。これが、ガイドブックにある宝物殿のようだ。監視・ではっきりわからなかった。すでに12時近くになり、午後はマンダレー市内をいろいろ回りたいので、ここは写真をとっただけ。

 マンダレー市内に戻った後、食事の前に、金箔工房に立ち寄った。そこでは、ハンマーの音が、トントン響き渡っている。パゴダでは仏さまに金箔を貼り付けることが多い。その金箔を造るには、竹の皮を薄く薄く延ばし、それに金粉を包んでまた薄く薄く延ばす作業をする。金粉を包んだ竹の皮を伸ばすには、ハンマーでひたすらたたき続けなければならない。金箔の厚さは、0.00001mmだそうで、1枚の金箔紙をつくるために5時間たたくということだ。大変な重労働。

 また、竹の皮の造り方も展示してあった。竹がよくぞ、薄くなるものだと感心する。さらに、別室ではできあがった金箔を紙で包む作業をしていた。最後に、金箔を使った製品の即売所で土産を少し購入。

 結局、大理石、木彫、織物、金箔の工房を見学し、手作業による技術が生きていることを確かめることができた。近代化の波に遅れているがために、伝統工芸が生き残っているように思った。今後、近代化はこの国でも進むだろうが、こうした手作業による伝統はどう維持されていくのだろうか。うまくしないと、失われてしまうことになりかねない。

 ところで、こうした工房見学は、製品販売がくっついているのが当たり前で、ツアーの場合などはしり込みしてしまう。今回は、自分で行き先を指定したので、やめておくなら最初からコースにくわえなかったが、ガイドブックでも1ページさいて紹介されていて、特に金箔をどうやって造るのか関心があったので訪問した。心配していた商品販売がそれほど熱心じゃなかったのが、意外だった。ミャンマーは、ほかの国に比べて、バガンでの物売りといい、こうした販売がひつこくないので、好感がもてる。ただ、織物と金箔工房では、いくつか土産を買った。大理石工房でも買っても良かったのだが、荷物が重くなるのを防ぎたかったので買わなかった。

 次に、市内の中心部にあるエアバガンのオフィスで、リコンファームをすませる。コンピュータ化されていなくて、ノートに必要事項を記入していく方法であった。画像は、エアバガンの近くにあったショピングセンター。こうした建物も見られるようにはなってきた。このあと、電話局で日本に国際電話。

 すでに13時を過ぎて、少し遅めの昼食。エィ・ミィッタでミャンマー食。フィッシュカレーを注文したら、やはりサイドメニューがいろいろと出てきた。左下が、フィッシュカレーだが、ほかに付け合せがいろいろと出てきた。スープは量が減ってきたら、継ぎ足してくれた。

 午後の最初は、シュエインピン僧院。チーク造りの木造僧院である。境内にはヤシの木が多く、ヤシの木の向こうに僧院が見えるという光景はなかなかよい。

 次に、旧王宮へ。王宮は市街の北のほうにあり、一辺が3kmの正方形をしている。かつての建物は1857年にミンドン王がマンダレーに遷都したときに造られたが、1885年以降は占領した英国の軍施設になった。その後、第二次大戦時には日本軍が占領したが、1945年の戦闘のさいに焼失してしまった。戦後は、独立したミャンマーの軍施設になっていたが、中心部分については、建物が再建され、一般公開もされるようになっている。

 旧王宮は堀によって囲まれ、東西南北に橋がかかっているのだが、入場できるのは東側の橋からだけだ。橋を渡ったところで、パスポートチェックがあるとガイドブックに書いてあったが、自分の行ったときは、入域料のチケットを提示すれば、そこに書いてあるパスポートナンバーが写されるという仕組みだった。チケットにはスタンプが押された。マンダレーのほかの見学箇所のいくつかでは、やはりパスポートナンバーが記録されスタンプが押された。入口から入って、中心部までは1kmくらいあり、その部分は道路以外は軍施設になっていて立ち入り禁止だ。

 まずは、旧王宮の玄関。ここで車を降りて見学開始。

 玄関の部分を逆方向から撮影。玄関を入ったところには、復元された玉座が置かれていた。

 つぎは、監視塔。外側にある螺旋階段を上がって、一番上まで行った。

 監視塔の上からの眺め。相当数の建物が復元されている。

 この中には、王宮博物館があって、そこにも入った。その入口に、日本語を勉強中という女性がいた。この博物館の仕事をしながら、夜学で日本語を習っているという。彼女の案内で博物館内を見て回った。

 旧王宮の次は、クドードォパゴダ。ここはバガンのシュエズィーゴォンパゴダをまねて造られたということだが、大きさは小さめだ。

 このパゴダには白い小パゴダ群がある。小パゴダは729あり、そのひとつひとつに、仏教の経典を大理石に彫ったものが入っている。ガイドブックによれば、1857年の旧王宮建設とともにミンドン王が、2400人の僧に24時間中6ヶ月の間、彫る作業を続けさせて729枚の石板が完成したという。

 次は、シュエナンドー僧院。この木造の僧院は、もともとは王宮にあり、ここでミンドン王は最期を迎えたという。その後、ティーボー王が今の場所に移したということだ。

 細かい装飾の施されたこの僧院は現在も使われているようで、少年の僧が修行中であった。

 次はサンダムニパゴダ。ここも小パゴダ群が林立していた。ここの小パゴダの中にも、仏典を彫った石板が入っているという。

 ここで16時30分。いよいよマンダレーヒルに上る。入口のところには巨大な獅子が狛犬のようにたっていた。ヒルの頂上近くまで車でいけるが、途中で見学したいところもある。かといって、下から歩いて1時間かけて上るのもなかなか大変だ。迷っていることをシンさんに告げると、中間地点まで車で上がり、そこから歩いて上がり、頂上で日の入りを見た後、頂上近くの駐車場でシンさんが待っているという行き方になった。

 中間地点で車を降り、そこからは屋根のついた階段を上がる。階段も参道になっているので、はだしで上がる。ところどころに、仏像がおかれていて、それぞれにお参りしながら上がっていく人もいる。しばらく上がると、「予言を与え給う仏陀」があった。右手を上げて、指差している仏像はほかでは見たことがない。

 さらに少し上がると、日本人慰霊碑があった。

 さらにしばらく歩き、30分ほどかけて頂上にたどり着いた。頂上は四方ともがテラスになっていて、真ん中に寺院がある。

 頂上にある寺院の内部。とてもたくさんの賽銭箱が並んでいる。

 日没のしばらく前に頂上に到着することができた。マンダレーヒルから見た日の入り。

 マンダレーヒルから車で下山し、もう暗くはなっていたが、麓にあるチャウットヂーパゴダに行ってみた。境内の様子はよくわからなかったが、有名な本尊を見てきた。この石仏は一枚岩から彫られたもの。よく磨かれた大理石でできている。

 さて、これでマンダレーの見学は終了。シンさんにホテルへ送ってもらい、翌日も8時にホテルに迎えにきてもらい、ピンウールゥンに行くことを確認しておく。

 部屋に戻ると18時30分。藤原さんとは、藤原さんの泊っているマンダレー・シティーホテルのロビーで20時に待ち合わせにしている。シティーホテルまでは歩いて10分ほどで行けるので、19時30分に出発することにし、それまでの間、翌日行く予定のピンウールィンの回り方を考えたりしてすごした。ただ、横になって眠ってしまうと、寝過ごしてしまう危険があるから、横になることは避けた。

 19時30分にユニバースホテルを出て、前日行ったレストラン、ラーショーレイと同じ方向に向かう。10分かからず、シティーホテルに到着。まだ、待ち合わせ時間にかなり早く、ロビーで待機。

 20時前に、藤原さんが出現。再会を喜び合った。藤原さんは、この日のスケジュールが遅れ目で、つい先ほど、ホテルに到着したばかりのようだった。それで、もうしばらくロビーで待つことになった。

 再び出てきた藤原さんと出かけた先は、前日、自分が行ったラーショーレイ。ガイドブックに掲載されているレストランの中で歩いていけるようなところがほかになかったのである。藤原さんは、マンダレーに到着されたばかりで、まだ右も左もわからないような状態なのでホテルの近くがよいと考え、自分が前日に行って、行き方がわかっているところにしたのだ。

 マンダレーの市街地の街路は、碁盤の目になっていて、それぞれの街路に数字ので番号がついているのでわかりやすい。東西の通りには、20,30,40番台の番号、南北の通りには、60,70,80番台の番号がつけられている。だから、交差点では、通りの番号が書かれている案内板がありさえすれば、位置がわかる仕組みだ。ただ、方角は南北又は東西を反対に考えてしまうおそれはある。また、碁盤の目になっているために、かえって、特徴がわかりにくくなっている面もある。

 懐中電灯で足元を照らしながら、ラーショーレイに向かった。シティーホテルから10分ほど。前日と同じく、店頭で料理を選んだが、すでに20時30分を過ぎて遅くなっているためか、すでに売り切れになっている料理もあった。選んだ料理をテーブルに運んでもらい、ミャンマービールで再会を祝して乾杯をした。

 3年あまりを経ての再会だったのだが、長期旅行のたびにメールをしあっていたし、ホームページも拝見していたので、何だか、そんなに間をあけずに出合ったような気がした。

 藤原さんは、ヤンゴンからまずインレー湖に向かい、この日は、ピンダヤからインワを経て、先ほどマンダレーのホテルに着いたところだそうだ。自分とは、逆周りのコースだ。自分の場合、バガンでは天候に恵まれず、飛行機が大きく遅れたことや、雨の中をパゴダめぐりしたことを話すと、藤原さんからは、インレー湖で傘をさしてボートに乗ったという話を聞いた。自分も藤原さんもほぼ同時にミャンマー入りしているのだが、ミャンマー全体で天候が良くなかったことがわかった。  

 このあと、1時間半、旅の話題を続けた。旅という関心事が同じうえ、藤原さんも、東南アジアやインド、中東などを旅の行先として好まれている点も自分と似ているので、話がとぎれることがなく、延々と話し続けた。

 落ち合ったのがやや遅めで、しかも、街灯もない真っ暗なマンダレーということもあって、話はつきなかったが、そろそろ、話を打ち止めにし、またどこかで再会することを約束して、この日は別れることにした。

 暗い道をホテルに戻り、シャワーを浴び、横になって翌日のことなどを考えていたら、何度も停電が繰り返されるので、寝ることにした。

 

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