灼熱のウズベキスタンを行く(8)

【パソ通仲間との出会い】

 サマルカンドホテル2日目の朝。のべ12時間以上も寝ていたため気分は上々。前日の疲れもどこへやら。すっかり元気を取り戻したようだ。もっとも、腹具合だけは今ひとつ。

 着替えをして、鍵をおばさんに渡し、早めにレストランへ。前日抗議したためか、入口から丁寧な応対。前日のピロシキ風のものにかわり、フルーツパイ風のものが出て、全部食べることができた。あとは、前日と同じメニュー。でも、てきぱきと料理が運ばれてきて気持ちが良い。やはり、抗議して良かった。

 朝食後、アフラシャブホテルに向かう。アフラシャブホテルはサマルカンドホテルから、500mくらいレギスタン寄りのところにある。日本からのパッケージツアーのパンフレットを見ると、たいていこのホテルで泊まる予定になっている。

 このホテルに向かった理由はふたつ。ひとつはパソコン通信の会議室で知り合った方に会うためである。もうひとつの理由は、サマルカンドでの滞在は当初は3泊の予定であったが、飛行機の便の関係で4泊することになったが、サマルカンドホテルは3泊しか頼んでいないので、もう1泊はアフラシャブホテルに泊まろうと思ったので、その下見をするためであった。サマルカンドホテルも快適で、この国へやってきてから泊まったホテルのなかでは、この時点では一番良いホテルではあったが、エアコンがないなどの不満はあった。それで、サマルカンド最後の夜はアフラシャブホテルにしようと考えたのだ。

 アフラシャブホテルは、ロビーもエアコンがきいていて快適だ。1階を一通り見て回ったが、この国へやってきてから泊まったほかのホテルよりずっと設備も従業員の態度も良い。出会う予定の方は、9時ごろ、ロビーで出発前のひとときをすごしているということが、会議室の書きこみなどによてわかっている。だが、8時30分ごろでロビーにはほとんど人がいない。

 やがて、ツアー参加である宿泊客が集まり始めた。半分ほどは日本人客だ。サマルカンドホテルでは日本人客は全く見かけなかったのに、このホテルにはずいぶん多くの日本人客が泊まっていたものだ。客の顔を見て、思わずほほえむ。ソウルからの飛行機で初めて出会い、その後、ウルゲンチへの飛行機、ヒワ、ブハラと行くところ行くところで出会っていたパッケージツアーの人たちだ。さらに、ほかにも、2、3の日本人のグループ、いくつかの欧米人のグループが集まり出して、ロビーはかなりの混雑。

 こんな混雑の中で顔を知らない方に出会うのはかなり難しい。出会う予定の方の本名も年齢もわからない。書きこみから女性らしい感じはしているが、これとて絶対とは言いきれない。一方、自分がこのホテルに行きます、ということは会議室のコメントに書きこんでいたのであるが、出発後の予定変更でどうなるかわかりません、とつけくわえてなくてはならなかった。だから、相手の方も、本当に自分がやってくるかどうか知ってはいらっしゃらないという状況である。

 この方は、公的な団体がおこなっている交流プログラムの団体にロシア語の通訳としてついてきているのだ。それで、ウズベク人かロシア人のガイドらしき人と話している日本人はいないかと探してみたら、どうもそれらしき方がいた。会議室で使っていらっしゃるハンドル名で呼びかけてみた。思った通りであった。めざす相手に一発で的中した。

 そう長くは話しをすることができなかった。ちょうど、この日は観光の日にあたっていたようなのだが、バスで出発される直前で、ガイドと打ち合わせをされているところだったのだ。仕事のじゃまをして申し訳なかったばかりか、体調が不良であるというような話しになって、医師もついてきているのでみてもらったら、ということまで言ってもらったが、それほどひどい状態でもないので遠慮申し上げた。

 もう少し話しをしたかったのだが、立ち話しだけで、すぐに話しを切り上げた。会議室の書きこみされている内容から、昼も夜もほとんど自由時間のないスケジュールになっているということも知っていたので、できれば夜にでもまたお会いしたいとな思いつつも、それも遠慮した。

 ほとんど話しらしい話しはできなかったとはいえ、ネット上だけで知っていた方と、会議室で話題の対象としているその国で実際に出会うことができたのは感激ものであった。これこそ、パソコン通信をやっている醍醐味じゃないかと思った。


【シャフリサブスへ】

 アフラシャブホテルのロビーが混雑したのは、ほんの半時間足らず。いろいろなツアーのグループの人たちが出発するのを見届けると、また静けさが戻ってきた。しばらく、涼しいロビーでこのままじっとしていたい、という思いにかられたが、そろそろ自分も立ちあがらなくてはならない。サマルカンドホテルの前にタクシーが9時30分にやってくるからである。

 外に出たとたんに猛暑を実感。サマルカンドホテルの前まで戻ると、まだ9時20分だったのだが、ホテルの横には、すでにタクシーが止まっていた。フロントで教えてくれた色の車でナンバーもあっている。

 ドアをノックして開けてもらう。お互いに名前を名乗り、握手。この国の男性は、何かにつけて握手をする習慣がある。日本人にとって、お辞儀をするのと同じような感覚で握手をするみたいに思える。女性の場合はどうなのかはよくわからない。

 この運転手は英語で話しかけてきた。少しだけなら英語がわかると運転手は言っていたのだが、十分に意思を通じ合えた。英語の通じるタクシーは、この国へ来てはじめての乗車だ。

 タクシーの中に乗りこんで気づいた。このタクシー、何とエアコンが入っていたのだ。今まで、この国に来てからというものいろいろなバスやタクシーに乗ってきたが、エアコンというものがついていたためしがなかった。だから、この国にもエアコンのついた車があったんだと感心してしまった。

 アフラシャブホテルから歩いて戻ってきたところなので、汗が滝のように吹き出ている。それを見た運転手は、エアコンをさらに強力にしてくれた。この国にあっては、天国のような車に乗れて大助かりだ。$50という金額は、外国人観光客からふんだくろうという金額だと思っていたのが、エアコンつきなら許せる。

 タクシーはまずレギスタンまで行って、そこからシャフリサブス方面への道を進んで行った。すぐにガソリンを入れるために停車。有人のスタンドなのだが、セルフサービス方式になっていた。運転手はまず、ブースの中にいる係員に、お金を払っている。係員は、その払った金額の分に相当するガソリンが出るように操作して、入れること自体は運転手が行っていた。



 しばらく行くと運転手は車を止め、飲物は入らないか、という。前日のミネラルウォーターの残りを持ってきてはいたが、別のを買っておこうと思い、欲しい、と答える。そして、買ってくるので、ちょっと待っていてください、という自分を制止して、運転手が買いに行くという。ガスなしのミネラルウォーターと言うと、ないかもしれないということなので、なければ、ガス入りでも良いと言って買いにいってもらった。しばらくして戻ってきた運転手は、残念そうに、ガスなしのはなかった、と言ってガス入りのミネラルウォーターを手渡してくれた。お金はいくらかと聞くと、要らない、という。なかなかサービスの良いタクシーだ。



 タクシーは、荒地の中を走り続け、1時間ほどすると、かなり高い山脈に分け入って行った。ヘアピンカーブがいくつか連続し、どんどん高度をかせいでいく。やがて、峠の頂上に達した。そこでいったん休憩。ずいぶん高い峠だ。そしてかなり涼しい。とはいっても30度近くはあったのだろうが、下界の猛暑がうそのようである。

 今度は、山を降りている。車が少ないので、相当なスピードが出ているのだが、道のすぐ下が崖になっているようなところを走っていて、しかもカーブの連続しているものだから、冷や冷やしながら乗っていた。眼下には、シャフリサブスのある盆地がよく見渡すことができる。



 やがて、何事もなく盆地に降りて、ほっと胸をなでおろす。さらにしばらく走り続けて、いよいよシャフリサブスの町に入ってきた。サマルカンドと比べてみると、車も歩行者もそれほど多くはなく、道路に沿った建物も密集して建っているのではなく、ゆったりとしている感じがする。全般的にいって、ブハラと同じような感じで、ひっそりとした落ち着いた感じの町というのが、この町の第一印象であった。


【アク・サライ】

 シャフリサブスとは、緑の町という意味で、元来はオアシス一般をさす言葉であったのが、この町だけをさすようになってきたらしい。

 シャフリサブスの近くの村でチムールは生まれている。そのため、チムール帝国時代には、サマルカンドについで重要視され、繁栄した町であった。しかし建築物の多くは、チムール帝国滅亡後に破壊されて、今では当時をしのぶものは、アク・サライのアーチなど、いくつかの建築物に限られている。

 アク・サライは、シャフリサブスの市街地の北端にあり、白い宮殿という意味である。チムールが、夏の離宮として建設させたものでった。彼の存命中には完成せず、死の翌年まで工事が続けられたという。アク・サライのあった跡地は現在は広大な公園になっている。タクシーには、その公園の入口で待っていてもらっておいて、見学する。



 現在、残されている建築物は、敷地の一番北端にあるアーチだけで、それも半分崩れてしまっている。アーチといっても、最上部をつなぐ部分はなく、両側の柱に当たる部分だけが残されているのだ。しかし、残されている柱の部分だけであっても、高さが40mくらいあって、巨大なものである。アーチの最上部があれば、50mくらいの高さになるだろう。肝心の宮殿の建物自体は何も残されていないのだが、アーチの大きさからして、相当に巨大な宮殿であったことが想像できる。

 タクシーに待っていてもらっている入口から他の観光客も入ってくるのだが、かつて存在した宮殿を考えると、この入口はいわば裏口といえる。南端から芝生でおおわれた公園に入り、北端にあるアーチの残骸を目標に歩いていったのであるが、裏口から入って、表口へ向かって歩いているようなものであった。

 広大な公園になっているところに、かつては宮殿があったのだ。その姿を想像しながら歩く。たいへん暑い。サマルカンドより暑く、ブハラやヒワと同じくらいの感じだ。タクシーに待ってもらっている場所から、アーチまで500m近くあるのだが、あまりの暑さに途中で休憩する。

 休んだところのそばには、巨大なチムールの銅像が建っている。この銅像は、チムール生誕660年を記念して建てられたものだという。この銅像ができる以前には、第二次世界大戦で亡くなった無名戦士の碑があったいう。



 チムール生誕660年を記念して、タシケントに記念館が建設されるなど、国をあげてチムールをたたえている。660年という区切りが、この地域で重要な意味を持つ数字、期間であるのかどうかわからない。だが、日本だったら、600年とか700年、せいぜい650年記念ということで、大きな行事を行うことが多い。660年という数字、期間には余り意味がなく、ともかくチムールをたたえるための事業を推進しようとして、あとから660年という数字をとってつけたように思える。

 旧ソ連時代には、共産主義思想がいわば宗教のようになって、国民を統合させておくことができた。しかし、ソ連崩壊後、この地域ではイスラム教の勢いがどんどん増している。イスラム教を認めはしても、警戒感をもっている現在の政権にとって、国民の心をイスラム教以外の何かでつなぎとめておく必要にせまられたのであろう。その役割をチムールに負わせようといているように思える。共産主義思想の代りが、イスラム教にならないように、チムールを代りにすえようとしているのだろう。

 しばらく休んだのち、アーチの下までたどり着く。アーチのところだけは、入場するのに料金がいる。真下から上を見るとたいへん高い。アーチの上には、さらに別料金を払えば登れることになっている。上からの見晴らしはすばらしいことであろう。しかし、とても歩いて登るだけの元気はなかった。でも、元気な観光客は、どんどん上まで登って行く。



 そばにあった売店で飲物を求め、腰を下ろすと、なかなか立ちあがれない。50度近い気温のなかで、あちこち歩きまわって観光するというのは簡単にできることではない。


【シャフリサブス市内一巡り】

 アク・サライのアーチ見物を終え、汗をふきふき、タクシーに戻ると、駐車場の向かいに歴史博物館があるので是非行くと良い、と運転手にすすめられる。せっかくなので、見学してみる。小ぶりのマドラサの建物が利用されている。中には、アク・サライの宮殿跡で発掘された遺物のほか、シャフリサブスの歴史全般や地元の民族文化に関しての展示がなされている。

 このあと、タクシーでシャフリサブス市街地にある観光ポイントを回る。最初は、アク・サライの駐車場で2時間くらい待っていてもらおうと考えていた。2時間後に迎えにきてくれれば、その間に別の客を乗せてひと稼ぎしてもらっても別にかまわないと思っていたのだ。しかし、運転手が行きたいところへ案内すると言い出したので、ガイドブックの地図に行ってみたい場所いくつかに印をつけ、彼に見せた。

 まずは、アリク・アジャルのハーンカー。かつては、スーフィーという宗教集団の修道場と宿坊だったというが、今は訪れる人もないのか、入口は閉ざされていた。それで、運転手はわざわざ管理している人を中から呼び出して、中を見せてくれるように頼んでくれた。



 門を入り、かつての修道場の鍵を開けてもらい、中へも案内された。何も置かれていない空間であるが、管理員らしき老人は、いろいろと説明してくれた。しかし、残念ながらロシア語の説明。外国人と見るとロシア語で話しかけられることが多い国である。普通なら見られないところを見ることができたことだけでうれしい。スパシーパ、と言ってタクシーに戻った。

 続いて、バザールへ。外でタクシーを待たせて、雑踏の中へ入っていった。ここには、たくさんの人が集まっていた。観光客以外の人たちは、バザールでの買物がシャフリサブスへやってくる目的なのだろう。

 昼前の時間帯なので、バザール内で簡単に腹ごしらえをすることにした。シシャリクやピロシキ風の揚げものを立ち食い。冷たいチャイを求めて飲む。果物売場では、スイカを8分の1に切ってすぐ食べられるようにして売っていた。思わず買い求めて食べた。みずみずしいスイカだ。

 さらに町の南端の廟やモスクの集まっている一帯へ向かう。まずは、コク・グムバス・モスク。これは、ウルグ・ベクが建てたもの。このモスクと同じ敷地にふたつの廟があるのだが、訪れた日は修復工事をしていて中はよくわからなかった。



 このモスクから、少し離れたところに、ジャハーンギール廟がある。それほど離れていないのに、タクシーで向かう。歩くのがたいへんな日であったので、わずかの距離とはいえ、エアコンのきいたタクシーで向かえるのはうれしいことだ。反面、自分の足で歩かないので、町の様子などを細かく見ることはできない。ひとつひとつの見学場所が印象に残っても、町全体がどのようであったのか、日数がたつと思い出せなくなってしまう。



 ジャハーンギールは、チムールの長男であるのだが、若くして戦死したため、チムールが廟を建てさせたのである。現在はかなり崩れてしまっている。この廟のほかにも多くの建物があったのだが、現在では、かつて建物があったことをうかがわせる建物の土台だけが残されている。

 一通り、建築物を見てタクシーに戻ろうとすると、まさかと思った人たちに出会った。ヒワのホテルで一緒だったイタリア人たちだ。彼らとは、サマルカンドにある、ウルグ・ベクの天文台で出会って、再開を喜び、同じ日にシャフリサブスに向かうことがわかってので、もう一度会おうとは言っていたのだが、本当に出会うとは思っていなかった。

 タクシーに戻ると、運転手が冷えたミネラルウォーターを買って待っていてくれた。気のきく運転手である。シャフリサブスには、このほかには見たいところがないので、2時間ほどの滞在だったのだが、サマルカンドに戻る。小さな町だったのだが、タクシーで回ったため、シャフリサブスの様子の記憶は薄い。


【ホジャ・イスモイル】

 シャフリサブスは、それほど大きな町ではないし、そのうえ、タクシーで回ったので、2時間ほどで一通り見て回ることができた。外を歩きまわるよりも、エアコンのきいたタクシーのほうが快適であるということもあって、早々と見学を切り上げた観光ポイントもあった。

 このままサマルカンドに戻れば15時前である。さあ、戻ってからどうするか。やはりホテルで一休みか、と考えていたら、運転手がホジャ・イスモイルに行かないか、と話しかけてきた。ウズベキスタンで一番きれいなモスクがあるので、行って見ると良い、とさかんに勧められた。

 ただし、いったんサマルカンド近くまで戻って、シャフリサブスとは反対の方向へ行くので、追加料金が$20かかるという。ちょっと高いかなと思ったけれども、日本でタクシーに乗ることを思えば、安い。それに、この機会を逃してしまうと、ニ度と来ない可能性が強い場所でもある。少し考えて、ホジャ・イスモイルに行ってください、と伝えた。

 やがて、行きにも通った峠にさしかかる。タクシーはどんどん高度をあげ、頂上に達する。行きと同じく、いったん峠で休憩する。行きはかなり涼しい峠だとおもったのだが、帰りにはさほど涼しく感じなかった。身体がエアコンになれてしまって、ちょっとの暑さでもがまんできくなってしまったのだろうか。

 そして、サマルカンドのある盆地へと下って行く。サマルカンドの市街地に入る直前のところまでは、往路に通った道路と同じ道路を通った。馬車も通る道を時速100キロの猛スピードで飛ばす。サマルカンドの近郊までやってくると、市街地を通らずに、バイパスらしき道を通って、別の道路に入る。



 ホジャ・イスモイルには、イスモイル・ブハリという学者の墓があり、聖地となっている。墓のあるところには、モスクがあるのだが、このモスクが美しいのだという。広大な原野のど真中にそのモスクはあった。ほかに何もないようなところをずっと走ってきて、突然、明るい青のドームを持つモスクが見えてきて、そこを訪問する客が車を止めている場所が出現する。



 タクシーを降りて、モスクのほうに向かって歩く。建物の入口まで300mくらいの距離がある。しだいに、明るい青のドームが近づいてきた。サマルカンドは、青のドームで有名なのだが、どのドームも青といっても、群青色といった方が適当な感じの、比較的濃いめの青をしている。それに対して、ここのモスクのドームは、空色といったらよいのだろうか。明るい青をしていて、ずいぶんと違う印象を受けた。

 入口の前まで行くと、大きな噴水がある。思わず手をさしだして、涼をとる。同じようなことをしている人が何人もいる。汗を流すのに都合の良い噴水である。中に入ると、まわりに回廊があって、そこから中に入れるようになっている。広い室内になっているのだが、行ったさいには礼拝の時間ではなかったので、礼拝をしていた人はいなかったのであるが、たくさんの人々が室内に入って礼拝をしている光景を想像することができる。



 敷地の一番奥まったところに、イスモイル・ブホリの墓が置かれている小さな建物がある。この地へやってくる人たちは、この墓が目的地のようになっている。遠くからやってきてきたグリープは、墓のまわりを取り囲み、礼拝をおこなっていた。やってくる人は多いのだが、観光客らしき人はあまりいないようである。外国人は自分以外には見かけなかった。



 建物全体がごく近年に新しく修復されたのであろうか。たいへん新しい感じのするモスクだった。その中でも、明るい感じの青のドームが印象的な場所であった。たいへん美しく、掃除も行き届いていたのが、ほかの観光地化した場所とは違っていた。そんな訳で、日本で言えば、近年新しくつくられたような新興宗教の教団の施設を連想させられた。

 一通り見てタクシーに戻る。歩いてくる自分の姿が見えたのであろう。車を自分の歩いてくるのに便利な場所に移動させて待っていてくれていた。再びサマルカンドへ戻る。ホテルに到着したのは15時半。いったんホテルの自室に戻って、夕食までの間、しばらく休むことにした。運転手に、$70を払い、握手をして別れたのであった。


【強制ランドリー】

 エアコンタクシーでの快適な観光を終え、サマルカンドホテルに帰着。鍵は、フロア担当のおばさんのところへもらいに行く。担当のおばさんが朝までの人とは別の人に変わっていた。一日中、担当のフロアに詰めて仕事を続けるわけだから、何日かごとに変わるのは当然だ。

 おばさんから鍵を受けとって、部屋へ戻り、鍵を開けようとしたのだが、なかなか開かない。前日も、その前日も、開けるのにはなかなかコツがいるドアだなあ、なんて考えながら開けていたのだが、この日はしばらく挑戦してみたもののなかなか開いてくれなかった。安ホテルではよくある話なのだが、中級ホテルでもこんなことでは困る。

 おばさんが自分が鍵を開けられないでいたところを見つけてすぐにやってきてくれた。こうしたらいいんだよ、とか言って、開けてくれた。さすがであると思ったのだが、そのあと、思いがけないことがおこったのだ。おばさんが、自分と一緒にの部屋の中に入ってきたのだ。

 おばさんは、昨夜、洗濯して、椅子の背もたれに掛けて干してあったポロシャツを見つけて、それを奪って、ロシア語で何か言っている。それが、「洗濯してくる」と言っているということだけはすぐにわかった。おばさんは、掛けてるシャツが洗濯してあるシャツであるとは思っていないらしい。そして、3時間くらいで洗濯して、乾かして持って来るとも言っているようだ。

 余計なお世話だ。勝手に部屋の中に入り込んできて、その上に、必要でない洗濯を無理にしようというのは、何を考えているのか。こちらは、英語で「必要ない」「自分で洗濯した」「かけてあるだけ」「洗濯してほしいときは頼みにいく」などと断っているつもりのだが、どうも通じない。

 すでにシャツはおばさんの手にある。シャツをおばさんの手から取り戻そうとしたのだが、きつく握っていてとり返せない。何か意地悪をされているようですらある。「必要ない」と繰り返すが、通じてはいない、あるいは、通じていても、何が何でも洗濯しようという考えでいるので、こちらのいうことにいっさい耳を貸そうとはしないのだろう。

 余計なお世話で大迷惑なのだが、疲れている身である。こんなことで、時間をとりたくはない。おばさんは、何とかして少しのお金でも稼ごうとして、強引なことをしているのだろう。腹立たしいことではあるが、もういいかと考えてしまった。今から考えると、フロントに連絡するなりして、不当なことに対して抗議すべきだったのだが、その際には、それができなかった。

 そのうちにとうとう「いくらか」と聞いてしまった。そのくらいの英語はわかっているみたいで、「$2」とのことだ。$2は、おばさんにあげたと思えば、それでいいじゃないかと考え、とうとう洗濯を頼んでしまった。おばさんは、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。

 おばさんが部屋から出て行たあと、わずかの金額とはいえ、強引なやり方に負けてしまったことを悔やんだ。一挙に疲れがでてきてしまった。しかし、頼んでしまってからでは遅い。

 しばらく寝ようと思い、ベッドに寝転び、眼を閉じたら、またたく間に寝入った。1時間半くらい熟睡。目がさめると、もう17時をすぎていた。目がさめても、これからどうしようかとか、翌日のこととかを考えていると時間の過ぎて行くのが早く感じられた。ベッドに横たわったまま、何もすることなく1時間が過ぎて行った。

 さあ、そろそろ外へ食事にでかけないと食事抜きになってしまうといけないので、重い腰をあげようとしていたら、ドアをノックする音がする。おばさんが洗濯したシャツを届けにきたのであろう。立ちあがって、ドアを開けると、やはりそうであった。シャツを受取り、代金$2を支払う。


【サマルカンドの魚フライ】

 ホテルで熟睡したのち、夕食に出かける。また不愉快な思いをしたくないので、鍵を持ったままだ。この日こそは、バザールそばのオープンレストランに行くことにする。すでに時刻は19時を回っていて、あたりは真っ暗。すでに元気が回復していて、歩いていっても、30分くらいで着けるが、暗い中を歩くのは心配なので、タクシーをホテルの前で拾う。

 すぐにバザールに到着。暗くなってからも人通りが結構ある。あいている店もかなりある。バザールの前に、オープンレストランが3軒並んでいる。まずは、ひとつひとつの店を見て回り、どの店に入るかを考える。

 どの店も、歩道に面したところで、シシャリクを焼いているのは共通。前を通ると、羊肉の焼ける匂いがする。ほかに、ブロフを大きな中華鍋のようなもので焼いている店、ラグマンを煮ている店、魚のフライをこれまた大きな鍋で揚げている店と少しづつ違うが、どの店でも、客が食事をしているそのすぐそばで調理が行われている店は共通だ。

 どの店とも似たようなメニューみたいで、結構客の入りが良くて、空席があまりなかったから、空席がある店に入り、すぐに席に着いた。

 何が食べることができるのかよくわからなかったので、メニューがないか聞いてみたが、ない、ということだ。で、最初は、シシャリク、トマトサラダ、コーラを注文する。シシャリクは、どの種類のシシャリクにするか、言葉では説明することができないので、調理しているそばへ行って、指差しで注文。3種類の串があったので、それぞれ2本づつを頼んだ。

 串が焼きあがるまでのしばらくの間、道行く人たちを眺めてぼんやり過ごした。老若男女、たくさんの人が通る。ホテルの前の閑散とした状態とはかなり違う。バザールのあたりが、この町で一番賑やかな場所であるのかもしれない。

 サラダが先に運ばれてきたが、シシャリクがなかなか運ばれてこないので、シシャリクが焼き上がってきたころには、サラダがなくなりかけていたので、サラダを追加注文。

 シシャリクは、ブハラで食べたものよりも、味付けも香辛料がたくさん使われていて食欲をそそる。焼きたてであるので、柔らかくて、臭いが気になることもない。この店では、肉を串に刺したまま食べるようになっていて、フォークを持ってきてくれない。

 温かいうちにシシヤリクを食べたあと、まだまだ食欲があったので、今度は、魚のフライを注文。こちらも注文を受けてから、魚を開いて、内臓を取り出して料理を始めるので、結構待たされるのだが、鮮度のいい食事ができるのはうれしい。

 かなり待たされて、運ばれてきた魚フライは、想像していたよりもずっと大きかった。皿一面に広がった魚は、何という魚なのだろうか。海から遠く離れた国であるから、川魚であろうが、どこで獲れたのだろうか。それにしても、ユーラシア大陸のど真ん中のオアシス都市で、魚フライを食べることになることは、思ってもみなかったことだ。

 揚げたてのフライは、たいへん熱いのだが、この店では、これも手でちぎって食べるようだ。だが、あまりに熱いために、手で持つことができない。しばらくは、すこしづつ身を切り離していくのが精一杯であった。

 たいへん淡白な魚である。骨をとらずに、開いて内臓を取っただけで揚げてあるので、骨をとりながら食べていく。こういう豪快な食べ方は経験がないので、なかなかうまくできない。手は油だらけになった。

 すっかり満腹になって満足。最後に、ガスなしのミネラルウォーターを持ちかえり用に注文するが、置いていないということなので、ガス入りのを求め、精算。全部で1800cym(約540円)。調理に時間がかかったので、1時間以上かかってのゆっくりとした食事であった。すでに、20時半となり、さすがにこの付近の人通りも少なくなってきた。タクシーを拾って、ホテルに戻る。

 この夜は、このホテル最後の夜だ。シャワーを浴びた後、テレビをつけながら、荷物の整理。