1日目後半 キリングフィールド & トゥールスレン

 

 

キリングフィールド

 

  着替えなどをすませ、11時過ぎにホテルの前へ。空港から乗ってきたトゥクトゥクが待っていた。午後は、このトゥクトゥクでキリングフィールドとトゥールスレンを回る。

 まずキリングフィールドに向かう。ポルポト時代に大量虐殺があった場所だ。プノンペン訪問がほかの東南アジアの首都に比べて遅れたのは、キリングフィールドに行くことにためらいがあったことが大きいと思う。

 キリングフィールドはプノンペンの南15kmほどのところにある。途中、道路の真ん中の部分だけが舗装され、両端が未舗装のままの区間がかなりあった。ものすごい土埃が舞い、タオルで口、鼻を覆った。ドライバーもマスクをしている。

 首都の少し郊外に行けばインフラ整備がまだまだ遅れていることがよくわかる。

 ポルポトは1975年プノンペンを陥落させたのち、全市民に対し農村移住を命じた。市民は集団農場で強制労働につかされたという。ポル・ポトは原始共産社会を理想としたようで理解に苦しむ。

 旧体制のロンノル政権を支えた政治家、軍人や抵抗する人々は処刑され、教師、医師、技術者、僧侶など反抗するかもしれないと考えられた知識人が処刑された。 のちにはフランス語を話せるとかメガネをかけているというだけで知識人とみなされ処刑されたという。 またポルポト政権内にいた人物も疑いをかけられ処刑された。彼らが収容されたのがトゥールスレンで、処刑場がキリングフィールドと呼ばれるチュンエク虐殺記念館であった。

 12時すぎ、ホテルから1時間ほどでチュンエクのキリングフィールドに到着。ドライバーは1時間と時間を指定した。たぶん1時間では回りきれないだろうと思った。実際、ただ回るだけなら15〜20分で回れるが、オーディオガイドを全部聞き、ビデオもとなると2時間必要だった。

 正門は閉じられているように見えるが、右側の小さな入口から入場した。

 入場券3ドル。
 オーディオガイド3ドル。 オーディオガイドは強制ではないが、あるのとないのとでは理解度は全然違うものになるだろう。

 あわせて6ドルを払う。入場券売場のそばにオーディオガイドの係りがいて、何語か尋ねてオーディオガイドを渡されれる。日本語のものもあった。

 入場すると、まず正面に見えるのが慰霊塔。ここは最後に入場することになり、まず慰霊塔の右手から反時計回りにぐるっと一周することになる。一周して500mほどなのだが、オーディオガイドを全部聞こうとすると時間がかかるのだ。

 最初にこの写真を撮影した場所で、ポルポト時代やキリングフィードの一般的なことの説明を聞いた。

 手前の看板のあるところが夜に処刑される人々を乗せたトラックが到着した場所。人々は別の施設に移されると言われトゥールスレンからここまで目隠しをして運ばれた。

 向こうの看板のるところには処刑人たちの事務所があったという。ここで処刑される人は処刑執行書にサインをさせられたあと処刑された。ポルポト政権の崩壊後、建物は壊されたという。燃料不足のため、木材を燃料として使うためだったという。

  処刑場のあったところ。のどかな感じで。ここで虐殺が行われたとは信じがたい場所である。

 処刑のさいには、まず、ヤシの木の皮の鋭い部分でのどを切ったという。これで声を出せなくする。そのあと、斧や鎌などの農作業用の道具で頭を打つという苦痛を伴うようなやり方だったという。銃弾が不足していたため、銃殺は行われなかったという。

 1979年、ベトナム軍のプノンペン占領後、ポルポト派は敗走し、ベトナム軍によって、ここから450人の遺体が発見されたという。

 ベトナムはポルポト派の悪行と報じたが、当時の世界はカンボジアに侵攻したベトナムが悪で、ポルポト派を擁護する傾向があった。ポルポト派の保護者のようだった中国を別にしても、西側諸国やASEAN諸国はベトナムとその背後のソ連が悪く、ポルポト派の悪行はみすごされた。

 虐殺が秘密裏に行われたこともあるが、ベトナム戦争でアメリカをやぶったベトナム憎しというムードが西側にはあったのだろう。残念ながら日本も大勢は反ベトナムで、唯一、共産党が反ポルポトを主張していた。自分も当時は侵攻したベトナムのほうが罪が大きいと感じていた。

 たくさんの穴がある。遺体が埋められていたところだ。いまでも雨が降ったあとには、骨や衣類が土の中から出てくることがあるという。
 虐殺されたのは知識人だけだけだはなかった。ベトナム系住民も多く処刑されたという。ここはベトナム系住民の遺体が多数発見された穴で、遺体には首がなかったという。ベトナムに対する憎しみが感じられる。

 伝統的にカンボジアはベトナムとタイの2地域大国にはさまれ、2国の関係はよくなかったが、ポルポト政権が打倒したロンノル政権の時代から国内のベトナム系住民は迫害が激しくなったという。そしてポルポト政権時代にはベトナム系というだけで処刑対象になった。ベトナム系のなかにはベトナムに逃れ、ベトナム軍のカンボジア侵攻とともにカンボジアに戻ったものも多いという。

 子供を処刑するのに使われた木。処刑人が子供の両足を持って、頭を木の幹に打ち付けたのだという。根元には白いものが。ここで殺された子供の骨だろう。
 マジックツリー。枝にスピーカーが取り付けられ、大音量の革命歌などを流して、処刑時の断末魔の声が外に漏れないよいうにした。外部ではポルポト派が革命歌と鳴らして集会を開いているのだと思われたという。
 キリングフィールドをぐるり一周して、慰霊塔に戻ってきた。最後に慰霊塔に入り、殺された人々に対して黙祷。
 塔の内部には13段の頭蓋骨の収納庫があった。収められているのは9000体分。ここで殺された人は2万人というから、まだ土の中にも多くの遺体が残されているのあろう。
 最後に小さな博物館があったので、入ってみた。これは処刑に使われた凶器。背筋が寒くなった。

 別室でビデオ上映をしていたが、入ってまもなく終わりだった。

 門を出ようとしたらドライバーが中に入ってきていた。1時間のところ2時間入っていたので、探しにきたようだ。トゥクトゥクに乗ってから、しきりにロング、ロングと言っていたので、対応策を考えた。

トゥールスレン

 トゥクトゥクでプノンペン市内に戻り、トゥールスレン刑務所へ。今はトゥールスレン虐殺博物館になっている。ドライバーはここでも1時間を提案してきた。自分は2時間見学したかったので、キリングフィールドからここに向かう途中考えたプランを伝えた。

 ドライバーとはここで別れ、約束の10ドルを支払うというものだ。ここからホテルへは街歩きを兼ねてブラブラ帰ることし、ドライバーはここで仕事から解放させた。キリングフィールドではドライバーを2時間待たせたが、ここでは待つ必要がないので、ドライバーにとって拘束時間に変化がない。しかもここからホテルまでは自分を乗せなくてもよい。ドライバーも満足したようだった。

 入場料は2ドル。すぐそばで小冊子を売っていて3ドルで購入した。 

 多くの市民が捕らえられ、ほとんどはここで拷問で殺されるか、キリングフィールドで処刑された。

 トゥールスレンはもともとハイスクールだった建物を転用した。見るからに学校という感じで、教室が並んでいる。ここには4棟のもと校舎があるのだが、これはA棟。

 A棟の前にある墓。ベトナム軍が占拠する直前に殺された人たちの墓である。

 ポルポト派がここを撤退する直前にも虐殺がおこなわれたのだが、その死体が放置されたままになっていて、その写真も展示されていた。その人たちの墓なのだろう。

 トゥールスレンには14000〜20000人が収容されたが、生きて出ることができたのは、ベトナム軍が占拠したときに生きていた7人と他の刑務所に移送されて生きていた1人の計8人だけだという。

 A棟1階の教室は、政府高官であった者を収容した部屋だった。ロンノル時代の政治家などを収容したのかと最初は思ったのだが、説明を見るとポルポト政権の高官で虐殺、処刑された者を収容したということだ。ロンノル時代の政治家などは、ポルポト政権になってすぐ処刑されていたのだろう。

 鉄製の足かせをはめ、ベッドにくくりつけていたようだ。1階にはこうした部屋が並んでいた。この棟は、1つの教室が1つの独房という形だったが、政府高官用だったからだ。

 A棟2,3階は尋問室であった。尋問という名の拷問であったのだが。拷問によって罪を認めさせると、次には処刑が待っていた。

 尋問室の中には、黒板がかかったままの部屋もあった。学びの場が拷問や虐殺の場となったのだ。信じられないという思いで見て回った。 そして写真を撮る気にはならず、とっていないのだが、床や壁のところどころに血が黒ずんだような箇所が散在しているのだ。

 A棟3階の廊下。上の階まで上がってくる人は少なく、廊下を歩くのも気味が悪いものだった。 下に階でさえ、見学客の数自体は多いのだが、みんな黙って歩いているので足音だけが聞こえるって感じだが、3階は静寂そのものなのだ。
 A棟2階から拷問用具を見る。写っている校舎はB棟。

 柱の上部についている横棒から囚人が後ろ手にしてつるされ、上げ下ろしされたり、足からつるされ下においてある壷に水を入れて逆さまに水の中に頭を入れ る拷問や、絞首刑に使われたのだという。

 B棟も尋問室だったが、今は博物館。いくつかの部屋は犠牲になった人の写真で埋め尽くされている。

 上右  写真をとられる際の番号札の実物。これをぶらさげていた人は処刑されたのだ。

 左  番号札をつけていない人の写真もあった。ほとんどが少年少女。ポルポト政権下では、古い思想に染まっていない子供が重用され、ここでも看守は少年少女が行っていた。子供が大人を拷問したり、処刑したりしていたのだ。写真は看守をしていた少年少女だ。しかし、彼らも施設の秘密を守るため、やがて処刑された。処刑前に撮影された写真だという。

 ポルポトなど幹部の銅像の顔の部分が檻に入れられ、床に置かれていた。

 このほか、足かせが大量に置かれていたのが生々しかった。この写真の左のほうに少し写っている。

 撮影をする気分になれず撮影しなかったのだが、死体の写真も膨大な量が展示されていた。

 B棟2階では、沖縄の平和祈念博物館とのコラボレーション展示が期間をくぎっておこなわれていた。平和を求める博物館として協力していて、沖縄の平和祈念博物館が技術的な援助もしているようだ。

 この展示はいくつのもの部屋の壁を取り去った長細い部屋で行われていた。学校のときには講堂だったのかもしれない。

 トゥールスレンがベトナム軍によって占拠されたときに生き延びていた7人。(ほかに別の刑務所に移送されていた1人が生還者だ。)

 このうちの1人はトゥールスレン内の売店で働いていて、本などを売っていた。観光客の中には写真をとったり、一緒にとらせてもらっている人もいたが、自分はとても写真をとる気にはならず、撮影しなかった。

 C棟は獄舎として使われていたためか、建物全体が鉄条網で覆われていた。

 

 1階はレンガでつくられた独房であった。 教室だった部屋の中に独房がつくれられているのだ。こんなところに閉じ込められることを想像するだけでも悲惨で吐き気がする。
 独房の壁からは鉄の鎖が伸びている。両足に足かせをはめられて 、鎖につながれていたのだろう。

 箱は用をたすためのものだろうが、部屋中、悪臭がただよっていたことだろう。

 2階は木製の独房であった。 これも教室だった部屋の中につくられている。
 3階は雑居房であった。一見すると、何もない教室だったが、よく見ると、壁には番号が書いてあった。居場所が指定されていて、足かせをはめられていたのだろう。
 D棟は1階が博物館であった。拷問用具や処刑用具が展示されたりしていた。これは水責めの箱。

 チュンエクはじめ各地のキリングフィールドの写真もあった。チュンエクはきちんと整備されて平和公園のようになっているが、地方のキリングフィールドのなかには整備がすすんでいないところも多いようだ。慰霊のために、また歴史を風化させないために国際的に支援してきちんと保存してほしいものだ。

 ここからの生還者が見たことを描いた絵が何枚かあったが、これ も衝撃的なものであった。ほかにも悲惨なものが何枚もあった。

 2階は閉鎖されていて、3階はビデオ上映をやっていた。しかし、非常に暑い中で見るのがつらく、終わりに近かったので、見ないで外に出た。

 このあと、スコールがあり、雨の間に売店で飲み物を買って一休みしてからトゥールスレンをあとにした。16時近くで、2時間ほど滞在した。

北朝鮮レストラン

 トゥールスレンを16時に出て、街歩きしながらホテルに戻った。

 プノンペンを南北に貫くモニボン通り。バイクが多い街でホーチミンやハノイに似ている。

 トゥールスレンから500mくらいで出られる。ホテルへはここを北に向かうのだが、南に向かった。南に500mほど、夕食時に訪問する予定の北朝鮮レストラン「平壌冷麺餐庁」があるので、場所を確認しておこうと思ったのだ。

 左  モニボン通りに面していて、すぐにわかった。

 下  しかも番地は400ジャスト。トゥクトゥクのドライバーにも伝えやすく便利だ。

 

  

 そのあとはモニボン通りをどんどん北に向かった。ホテルよりも少し南のあたりで横道に入ると、会員制のような長距離バスを運行していて有名なキャピトルツアーがあるので、どんなところか見に行った。

 あまり大きくはなく、食堂の一角に長距離ツアーバスや近郊のパッケージツアーの窓口があった。長距離バスらしいバスも止まっていた。

 キャピトルツアーのすぐ北側の道路は水浸しだった。先ほどのスコールの影響だろうか。
 モニボン通りをもう少し北上し、右折するとホテルがある通りだ。交通量も少なく、のんびりした通りだ。

 ホテル近くのコンビニで飲物を買って帰った。部屋に戻ると、まずアンコールビールでのどをうるおした。

 17時にホテルに戻り、19時まで休憩。

 19時にホテルを出て、ホテル近くの交差点に待機しているトゥクトゥクで北朝鮮レストランに向かった。”モニボン通り、400、コリアンレストラン”と簡単に場所を伝えられる。しかし、ドライバーはこのレストランを知らないうえ、さきほど歩いたモニボン通りを下らず、別の道を通っていったのものだから、自分もよくわからない。着くと19時25分。2ドル払う。
 レストランはかなりの客の入りで、大部分が中国人のような感じだった。ビジネスマンらしきグループもあれば、観光ツアー団体もあった。日本人は見かけなかった。

 ここで少し誤算をした。20時からショーがあるものとばかり考えていたのだが、19時30分からだった。ショーの出演者はウェイトレスも兼ねているので、ショーの準備が忙しいため、注文もなかなかとりにきてくれない。ようやく注文ができ、すぐにショーが始まった。

 ショーの合間にビールが運ばれてきた。おつまみつきだ。
 ショーは歌あり、踊りありで楽しめた。中国人客が多かったたため、中国の歌も歌っていた。曲名は知らないのだが、自分もよく聞く曲でメロディーは知っている。
 楽器演奏もあったりと盛りだくさん。ショーは30分くらいで終わると思っていたら、45分ほど続いた。
 ショーの終わりも近くなったことに注文した冷麺が運ばれてきた。その場でハサミで麺を切ってくれた。まぁ普通の朝鮮風の冷麺だ。
 最後にスイカがでてきた。しめて14ドル。

 食べ終わり、ウェイトレスに見送られながら店を出ると、中国人客のための車が多数止まっていた。トゥクトゥクも待っていたので乗り込んで、ホテルに帰った。長い1日目が終わった。

 

 

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