1日目後半 キリングフィールド & トゥールスレン
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キリングフィールド
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![]() まずキリングフィールドに向かう。ポルポト時代に大量虐殺があった場所だ。プノンペン訪問がほかの東南アジアの首都に比べて遅れたのは、キリングフィールドに行くことにためらいがあったことが大きいと思う。 |
![]() 首都の少し郊外に行けばインフラ整備がまだまだ遅れていることがよくわかる。 |
![]() 旧体制のロンノル政権を支えた政治家、軍人や抵抗する人々は処刑され、教師、医師、技術者、僧侶など反抗するかもしれないと考えられた知識人が処刑された。 のちにはフランス語を話せるとかメガネをかけているというだけで知識人とみなされ処刑されたという。 またポルポト政権内にいた人物も疑いをかけられ処刑された。彼らが収容されたのがトゥールスレンで、処刑場がキリングフィールドと呼ばれるチュンエク虐殺記念館であった。 |
![]() 正門は閉じられているように見えるが、右側の小さな入口から入場した。 |
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![]() あわせて6ドルを払う。入場券売場のそばにオーディオガイドの係りがいて、何語か尋ねてオーディオガイドを渡されれる。日本語のものもあった。 |
![]() 最初にこの写真を撮影した場所で、ポルポト時代やキリングフィードの一般的なことの説明を聞いた。 |
![]() 向こうの看板のるところには処刑人たちの事務所があったという。ここで処刑される人は処刑執行書にサインをさせられたあと処刑された。ポルポト政権の崩壊後、建物は壊されたという。燃料不足のため、木材を燃料として使うためだったという。 |
![]() 処刑のさいには、まず、ヤシの木の皮の鋭い部分でのどを切ったという。これで声を出せなくする。そのあと、斧や鎌などの農作業用の道具で頭を打つという苦痛を伴うようなやり方だったという。銃弾が不足していたため、銃殺は行われなかったという。 |
![]() ベトナムはポルポト派の悪行と報じたが、当時の世界はカンボジアに侵攻したベトナムが悪で、ポルポト派を擁護する傾向があった。ポルポト派の保護者のようだった中国を別にしても、西側諸国やASEAN諸国はベトナムとその背後のソ連が悪く、ポルポト派の悪行はみすごされた。 虐殺が秘密裏に行われたこともあるが、ベトナム戦争でアメリカをやぶったベトナム憎しというムードが西側にはあったのだろう。残念ながら日本も大勢は反ベトナムで、唯一、共産党が反ポルポトを主張していた。自分も当時は侵攻したベトナムのほうが罪が大きいと感じていた。 |
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![]() 伝統的にカンボジアはベトナムとタイの2地域大国にはさまれ、2国の関係はよくなかったが、ポルポト政権が打倒したロンノル政権の時代から国内のベトナム系住民は迫害が激しくなったという。そしてポルポト政権時代にはベトナム系というだけで処刑対象になった。ベトナム系のなかにはベトナムに逃れ、ベトナム軍のカンボジア侵攻とともにカンボジアに戻ったものも多いという。 |
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![]() 別室でビデオ上映をしていたが、入ってまもなく終わりだった。 門を出ようとしたらドライバーが中に入ってきていた。1時間のところ2時間入っていたので、探しにきたようだ。トゥクトゥクに乗ってから、しきりにロング、ロングと言っていたので、対応策を考えた。 |
トゥールスレン |
![]() ドライバーとはここで別れ、約束の10ドルを支払うというものだ。ここからホテルへは街歩きを兼ねてブラブラ帰ることし、ドライバーはここで仕事から解放させた。キリングフィールドではドライバーを2時間待たせたが、ここでは待つ必要がないので、ドライバーにとって拘束時間に変化がない。しかもここからホテルまでは自分を乗せなくてもよい。ドライバーも満足したようだった。 |
![]() 多くの市民が捕らえられ、ほとんどはここで拷問で殺されるか、キリングフィールドで処刑された。 トゥールスレンはもともとハイスクールだった建物を転用した。見るからに学校という感じで、教室が並んでいる。ここには4棟のもと校舎があるのだが、これはA棟。 |
![]() ポルポト派がここを撤退する直前にも虐殺がおこなわれたのだが、その死体が放置されたままになっていて、その写真も展示されていた。その人たちの墓なのだろう。 トゥールスレンには14000〜20000人が収容されたが、生きて出ることができたのは、ベトナム軍が占拠したときに生きていた7人と他の刑務所に移送されて生きていた1人の計8人だけだという。 |
![]() 鉄製の足かせをはめ、ベッドにくくりつけていたようだ。1階にはこうした部屋が並んでいた。この棟は、1つの教室が1つの独房という形だったが、政府高官用だったからだ。 |
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尋問室の中には、黒板がかかったままの部屋もあった。学びの場が拷問や虐殺の場となったのだ。信じられないという思いで見て回った。 そして写真を撮る気にはならず、とっていないのだが、床や壁のところどころに血が黒ずんだような箇所が散在しているのだ。 |
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![]() 柱の上部についている横棒から囚人が後ろ手にしてつるされ、上げ下ろしされたり、足からつるされ下においてある壷に水を入れて逆さまに水の中に頭を入れ る拷問や、絞首刑に使われたのだという。 |
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![]() 左 番号札をつけていない人の写真もあった。ほとんどが少年少女。ポルポト政権下では、古い思想に染まっていない子供が重用され、ここでも看守は少年少女が行っていた。子供が大人を拷問したり、処刑したりしていたのだ。写真は看守をしていた少年少女だ。しかし、彼らも施設の秘密を守るため、やがて処刑された。処刑前に撮影された写真だという。 |
![]() このほか、足かせが大量に置かれていたのが生々しかった。この写真の左のほうに少し写っている。 撮影をする気分になれず撮影しなかったのだが、死体の写真も膨大な量が展示されていた。 |
![]() この展示はいくつのもの部屋の壁を取り去った長細い部屋で行われていた。学校のときには講堂だったのかもしれない。 |
![]() このうちの1人はトゥールスレン内の売店で働いていて、本などを売っていた。観光客の中には写真をとったり、一緒にとらせてもらっている人もいたが、自分はとても写真をとる気にはならず、撮影しなかった。 |
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![]() 箱は用をたすためのものだろうが、部屋中、悪臭がただよっていたことだろう。 |
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![]() チュンエクはじめ各地のキリングフィールドの写真もあった。チュンエクはきちんと整備されて平和公園のようになっているが、地方のキリングフィールドのなかには整備がすすんでいないところも多いようだ。慰霊のために、また歴史を風化させないために国際的に支援してきちんと保存してほしいものだ。 |
![]() 2階は閉鎖されていて、3階はビデオ上映をやっていた。しかし、非常に暑い中で見るのがつらく、終わりに近かったので、見ないで外に出た。 このあと、スコールがあり、雨の間に売店で飲み物を買って一休みしてからトゥールスレンをあとにした。16時近くで、2時間ほど滞在した。 |
北朝鮮レストラン |
![]() プノンペンを南北に貫くモニボン通り。バイクが多い街でホーチミンやハノイに似ている。 トゥールスレンから500mくらいで出られる。ホテルへはここを北に向かうのだが、南に向かった。南に500mほど、夕食時に訪問する予定の北朝鮮レストラン「平壌冷麺餐庁」があるので、場所を確認しておこうと思ったのだ。 |
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下 しかも番地は400ジャスト。トゥクトゥクのドライバーにも伝えやすく便利だ。
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![]() あまり大きくはなく、食堂の一角に長距離ツアーバスや近郊のパッケージツアーの窓口があった。長距離バスらしいバスも止まっていた。 |
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17時にホテルに戻り、19時まで休憩。 |
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![]() ここで少し誤算をした。20時からショーがあるものとばかり考えていたのだが、19時30分からだった。ショーの出演者はウェイトレスも兼ねているので、ショーの準備が忙しいため、注文もなかなかとりにきてくれない。ようやく注文ができ、すぐにショーが始まった。 |
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![]() 食べ終わり、ウェイトレスに見送られながら店を出ると、中国人客のための車が多数止まっていた。トゥクトゥクも待っていたので乗り込んで、ホテルに帰った。長い1日目が終わった。 |
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