4 日 目 後 半
【 21 江南貢院 】
夫子廟から10分ほど繁華街を歩いて、江南貢院へ。周辺もたいへんな賑わいだ。 中国古来の官吏の選抜制度であった科挙。貢院とは科挙の試験場のことである。 江南貢院は、12世紀、北宋の時代に造られた試験場で、江南地方では最大の試験場であったという。 ただ、残念ながらのこされているのは、入口の楼閣などだけで、試験場そのものは残っていない。かわりに、試験場の模型があった。 右の画像にある入口を入ると、その中に小部屋がたくさん並んでいるのである。小部屋が、下のようなものだ。間口は2mくらい。
科挙の受験生は部屋に寝具なども持ち込むとか聞いていたが、本当にこの部屋の中で寝たとしたら、狭い中で大変だったと思う。
入場券をよく見ると、小部屋の並んだ長屋風の建物が無数に見える。現在、繁華街になっている一帯は、科挙の試験場だったのだ。 夫子廟付近一帯の繁華街はたいへんな人出であった。ここで小吃を何種類か買って歩きながら食べて、昼食とした。 1元の肉饅。具が少なめ。 左から、臭豆腐2元、香蕉竹3元(竹入りの炊き込みご飯)、飲み物の店頭。
【 22 梅園新村記念館 】 夫子廟から路線バスに乗車。総統府近くの梅園新村記念館に向かった。総統府とあわせて訪問すればよかったのだが、総統府の見学時間が予想外に長くなったため、別日に見学にきた。 ここは、1946年5月から1947年3月まで、南京で開かれた国民党と共産党の和平交渉のさい、共産党の事務所、宿舎になった場所である。周恩来と薫必武が共産党側の代表であった。 入場すると、まず目に入るのが周恩来の像。
記念館に入ると、和平会談のことについて細かな展示があった。 中国語だけだが、何となく意味がわかるので、丁寧に見ていた。すると、突然、声をかけられた。無料ガイドのようであったが、自分を中国人だと思っているらしい。ガイドをしてもらっても、何もわからないので困ってしまう。それで、プーヤオ、プーヤオと連発。どうも、日本人だと気付かれないまま、去ってくれた。 記念館を出ると、いったん、公道に出る。一般の道路に面して、かつて、周恩来らが滞在した建物などが保存されている。それぞれの建物の入口で入場券を見せるシステムになっていた。 左は、代表団の事務所。下は、その内部。
左は、周恩来の宿舎の内部。
【 23 鶏鳴寺 】 総統府のバス停から、路線バスで鶏鳴寺へ向かった。バスは満員。バス停から少し歩いて寺に到着。塔の建っているのは、ちょっとした丘の上。 もとは4世紀の東晋の時代に建てられ、その後、焼失したりし、明代に鶏鳴寺の名になり、現在の建物は19世紀のもので、南京を代表する古寺である。
【 24 燕子磯 】 鶏鳴寺から鼓楼まで歩き、鼓楼から地下鉄で終点の辺皋橋まで乗車。辺皋橋から燕子磯まではバスでいけるのだが、バス停を探すのに少し手間取った。いくつかあるバス乗場のうち、どの乗場であるかがわかりにくかったからだ。
燕子磯はバスの終点だが、その付近に名勝地があるという雰囲気ではなかった。
この道路を200mほど歩いて、燕子磯のある丘が見えてきた。
燕子磯は、長江の河畔の展望地。古くから文人がこの地を訪れている。丘の一番上まであがって、長江を眺めた。
丘の上にある御碑亭にある、燕子磯の石碑の文字は清の乾隆帝によるものである。 燕子磯もまた南京事件の現場であった。
燕子磯の近くに、観音閣、頭台洞、三台洞があって、燕子磯の入場券で入れるので行ってみた。燕子磯から一番遠い三台洞へ観光用のミニカーで訪問したが、期待はずれ。頭台洞、観音閣も同じ。整備もされていない上、未舗装の道路をトラックが行きかい、ほこりっぽいところにある。
燕子磯からのバスに乗り、辺皋橋では降りずに乗り続けた。前日に行った繁華街である湖南路を通るからだ。この夜は、南京で最後の夜。もう一度、湖南路に行ってみることにした。湖南路まで40分ほど。着いた時にはすっかり真っ暗になっていた。 夕食には、伽哩鶏飯。カレー味のチキンと野菜の煮付けにご飯。
梅花糕というものを食べてみた。カップの中は、クレープの生地を固めたようなもので、その上に砂糖菓子などがのっている焼き菓子。 地下鉄でホテルに戻り、一日を終えた。
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