2 日 目  ロシア建築めぐり

 朝食は6時30分から。6時30分になればすぐに朝食会場に行こうと思っていたが、ぐずぐずしてしまい、結局7時前になった。

 窓際に料理が並んでいるが、その種類の多いこと。味は普通だったが、種類が多ので、3日間なるべく違う種類のものを選んだが、それでも全種類制覇にはならなかった。

 そして、今まで中華圏のホテルをたくさん利用してきて、初めて、セイロで蒸している状態で点心を出しているのにであった。種類こそ多くないが数種類の点心を味わえた。全種類とってきて飲茶をしている客もいた。

 哈爾浜(ハルビン)らしいものとしてはボルシチがあったこと。これは料理の左上。レンゲがはいっている。あとキムチがあったのも朝鮮族の多いこの地方ならではだ。

 朝食会場である大宴会場は歴史を感じさせるところであった。天井のシャンデリアや壁面の柄模様が豪華。

 この大宴会場の名はボルガ。小宴会場にはエニセイとロシアの川の名前がついていると思ったら、ライン、ポー、信濃川と世界の川の名前がついた部屋があった。

 ホテルの歴史を紹介するコーナーがあったので、一通り見学。

 1936年の時点ですでに玄関の前には突き出し屋根がついていた。このころはホテルの前の道路も静かな感じであった感じ。

 満鉄傘下の「ヤマトホテル」だったのは1937年から45年で、ホテルの歴史110年からしてみれば、1割にも満たない期間であるのが意外な感じがした。ロシア時代、「ヤマトホテル」時代、新中国の時代といろいろな使われ方をしていて歴史を見つめてきた目撃者ともいえるホテルだ。

 このあと街歩きだが、その前にしておくことがあった。

 翌日の731部隊跡の訪問のため平房行きのバス乗場の確認のために哈爾浜駅前を歩いた。乗るべきバスの乗場も判明。

 このとき、哈爾浜駅前でオート三輪のタクシーを発見した。タイのトゥクトゥクと同じく、客席は後部にあるが、寒い東北地方だけあって客席や運転席の全体が車体で覆われている。歩道の上にも乗り上げて客待ちしている。でも数は多くなくて、淘汰されつつあるのだろう。

 ホテルの前では果物の屋台が出てぶどうやみかんを売っていた。

 いったん、ホテルの部屋に戻って、8時30分、街歩きスタート。この日のテーマはロシア建築を見ること。昨夜行った中央大街にたくさんのロシア建築が残っているが、そこに至るまでにもたくさんの建物があるようだ。

 ホテルの南側の道路は銀行路という。銀行街を東に向かった。

  街歩きをはじめるといきなり、ホテルのすぐ東となりに古い建築があった。まるでヨーロッパのお城のようだ。

 「哈爾浜医科大学付属第四医院」「哈爾浜医科大学第四臨床医学院」の看板が掲げられていた。医院=病院、学院=学部と考えれば、意味はわかる。

 ここはかつては、中東鉄道中央電話局だったということだ。中東鉄道とは、シベリア鉄道を満州を通って短絡する路線で、支線が哈爾浜から旅順。1903年に完成。T字型の路線の中心に哈爾浜があり、その電話局だ。

 1905年、日露戦争後のポーツマス条約で支線のうち長春以南が満鉄になる。満鉄がなぜ、「南満州」鉄道かという理由もここにある。その後も、「北満州」の鉄道はロシア、そしてソ連成立後はソ連が経営した。1931年からソ連と満州国の合弁、1935年に満州国国有鉄道になり、運営は満鉄がおこなった。「ヤマトホテル」が1937年からというのもそのことと関係している。

 さて、さらに歩くと、「哈医大四院」の大きく新しい病棟がいくつも並んでいた。

 北側が広大な「哈医大四院」になっている道路の南側は、古い家が取り壊されつつある現場だった。壊された家が多い中、まだ人が住んでいる家もあった。ここも高層ビルになるのだろうか。もし哈爾浜にまたくることがあれば確かめたい。

 果戈里大街で左折し、北に向かう。すぐに経緯街にぶつかり左折する。

 このT字路のところに中国風宮殿のような建物があった。近づいてみると、「哈爾浜市第三中学校」とあった。

 1925年にできた「普育中学」が前身。

  「哈站」から中央大街に向かうさいに、鉄道の線路を橋で超える。

 その橋が「●虹橋」(●は「雲」の下に「齋」)。橋の手前が南崗区、橋の向こうが道里区。

 この橋も古くて1927年完成。すでにソ連になっていたロシアの影響下つくられたようだ。

 欄干には中東鉄道の立体的なマークがとりつけられている。

 ちょうど列車が通りかかった。北のほうから松花江を渡ってやってきたローカル列車のようだ。

  経緯街を歩き、黒龍江日報社へ。

 1936年完成の日本式の建築である。当時は哈爾浜公報社であった。

 下左  路上で白菜を売っているところがあちこちにあった。

 下右  白菜を積んだトラック。

  哈爾浜といえばここ。ソフィスヵヤ寺院。ロシア正教の教会だがいまは教会としては使われておらず、建築の博物館の位置づけである。だから入場券必要。20元(約255円)。

 完成は1923年。本当に中国にいるのかって感じだ。

 上左  内部では哈爾浜の近代を写真でたどるような展示をおこなっていた。

 上右  ドームの下から入口の方向をながめたもの。

 左  ドームを下からのぞきあげたもの。

ソフィスカヤ寺院の前は広場になっているが、広場の一角に鉄骨だけのタワートアーケードがある。どうやら寺院の建築物のひとつらしいのだが、よくわからなかった。

 哈爾浜第一中学校。校庭をはさんでの撮影なので写真ではわからないのだが、玄関の一番上には1923とある。

 また玄関のすぐ上のオレンジ色で見えるのは、大学合格者の名前を電光掲示板で次々に映し出しているもの。

 地段街と石頭道街の交差点にあったデパート。最上部のドーム型の楼閣が時代を感じさせる。

 ドームには時計があるが、デパートの中に鐘表博物館があるからのようだ。どんな時計があるのか気になったが、先を急ぎたいのでパス。

 地段街を歩き続け、哈爾浜市兆麟小学校へ。1923年の建築。 小学校にしてはとても立派な建築である。

 地段街の一帯は日本人街で、ここは「桃山小学校」であった。

 同じ小学校。

 兆麟公園。ここは氷祭りの会場のひとつ。

 それほど広大な公園ではなく、園内には建築物も多いので、どこに氷の彫刻を設置するのかなとか思った。氷祭りは行ってみたいのだが、何せ寒さが半端じゃないので。

 

  中央大街は1904年に日露戦争が始まり、ロシア軍の拠点になった哈爾浜(ハルビン)には多くのロシア人がやってきたが、ここにロシア人向けに商店やホテルなどがここにつくられた。当時は「中国大街(キタイスタヤ)」と呼ばれた。

 1925年に哈爾浜(ハルビン)の施政権は中国に返還され、「中央大街」となった。

 上左  もと「秋林商行道里支店」。1914年建築。ロシア商人チューリンがはじめた秋林(チューリン)商行の支店。

 上右  これは不明。ロシア建築を模して、新しく作ったのかな。

 左  これも不明だが、こちらは古そう。

 左  もと「万国洋行」。1922年建築。

 下左  もと「秋林洋行」。当初はユダヤ人の商店で1910年の建築。のちに秋林洋行。

 下右  もと「松浦洋行」。1909年建築。現在は新華書店で特に教育書店と表示してある。

 

 
 
  歩き回ってすでに13時。かなりお腹もすいてきたので昼食タイム。ロシア料理店を探して2食目のロシア料理を楽しんだ。

 今度の店は「波特曼西餐庁」。”ポートマン”と読む。店内にはステージがあり、ピアノの自動演奏をしていたし、食事中にはヴァイオリンの生演奏もあった。

 飲物は哈爾浜ビールの純生。

 
 まず、紅菜湯(ボルシチ)をパンとともいただく。
 
 メインは俄式猪肉排(ロシア式トンカツ)。ソースは酢のきいたドレッシングのような感じ。

 これは分厚くてボリュームがあった。

 
 莫斯科色拉(モスクワ風サラダ)。

 これまたかなりの量。ハム、キュウリ、リンゴが和えてあるものだった。

 ビールが12元、ボルシチが12元、トンカツが40元、サラダが16元。しめて70元(約880円)。これだけで全部食べるのに苦労するくらいでてきてよかった。

 

 もと「モルデンホテル」。1906年建築。現在も、馬迭爾賓館。

 

 もと「マルス」というロシアカフェ。1925年建築。現在、華梅西餐庁。

 

 もと「イコライビッチ商店」。1921年建築。

 

 これは何か不明。

 

 もと「カフェミニアチュール」。1927年建築。現在、哈爾浜撮影社。

 

 中央大街を離れ経緯街を10分ほど歩くと、新シナゴーグ(新しいユダヤ教会堂)があった。1921年の建築。

 現在は教会として使われておらず、建築美術館になっている。ソフィスカヤ寺院と同じような扱いになっているようだ。

 画像左下に入場券を売る小屋があるが、行ったときには小屋の窓口は閉ざされ、シナゴーグの入口も閉ざされていて入ることはできなかった。

 

 新シナゴーグのところで通江街に入りしばらく歩くと、メインシナゴーグ(メインのユダヤ教会堂)があった。1909年の建築。

 ドームの上には、ユダヤを象徴するダビデの星がとりつけられている。

 

 現在は国際青年旅舎、つまりユースホステルになっている。大きな礼拝堂だったところにベッドがたくさんならんでいるのだろうか。 なんだか見てみたい。宿泊費は格安なのだろうな。

 ユースホステルの入口の左右には商店が入っている。

 

 かつてのユダヤ教の教会学校。1919年建設。1927年に音楽学校になったという。大戦後は普通の中学、今は朝鮮族の中学になっている。

 窓の形は、よく見るとドーム型になっているし、屋根についている塔状の突起物も独特の形をしている。

 

 玄関のドアも教会風。この玄関の上の方にドームがある。

 「哈爾浜市朝鮮族第二中学校」、「哈爾浜市韓国語●遊培訓基地」(●は「巳」の下に「寸」)、「哈爾浜市民族科技高級駛業中学校」の看板がかけてあった。

 韓国語とあらわしていることが意外な感じがした、”韓国”と”朝鮮”をどう使い分けているのだろうか。

 

 さらに10分ほど歩くと松花江(ソンファチャン)に出た。満州語ではスンガリなので、満州国時代の影響で日本でも昔はスンガリ川と呼ばれていたようだ。

 幅1kmはありそうだ。対岸には太陽島があり、行ってみたかったのだが、とてもその余裕はなかった。この川が冬には凍結して、対岸に歩いて渡れるとか。

 ロープウェイと船で対岸とは結ばれていたが、ロープウェイは無人状態で、船も運航されているのかいないのかよくわからなかった。

 

 松花江に沿って幅の広い緑地帯と遊歩道があり、斯大林(スターリン)公園と名づけられている。いまどき、スターリンの名前を冠した地名があるとは驚きだ。

 まだ16時ごろだったが、太陽は沈みかけていて。雨が降ったあとの公園で見る夕日もなかなかいいものだった。

 トイレと売店もかわいらしい造りで面白かった。トイレは翌日の夜に利用したが、屋根には電飾がついていた。

 
 
 

 上  松花江大橋を渡る列車。1kmほど離れていたのでぼんやりとしか見えなかったが、望遠最大限で撮影したら何とか列車がわかった。

 中央大街のところまで戻ると、防洪紀念塔があった。松花江はしばしば洪水をひきおこすのだが、1957年の大洪水に勝利したことの記念碑ということだ。

 1957年の洪水では塔の最上部から少し下に黒い線があるが、そこまで水没したらしい。また塔の土台の石組みのところに横線がついているが、そこは1998年の洪水のときの水位だそうだ。

 

   再び中央大街を散歩。17時をすぎ少し早いが夕食をどこでとろうかと考えながら歩いた。

 建物に明かりがともり始め、一段と風情がでてきた。哈爾浜(ハルビン)は、東方莫斯科(東方のモスクワ)とか東方小巴黎(東方の小パリ)と呼ばれるが、その雰囲気がでてくる時間だ。

 よく見ると、看板にロシア文字が目に付き、ロシア人が多くやってくることをうかがわせる。

 中央大街の「ユーロプラザ」というショッピングセンターに行ったのだが、その地下でおしゃれなスーパーを発見した。

 中国では日系のデパートの地下などできれいに整備されたスーパーは入ったことがあるが、他は記憶にない。

 昼食が遅めだったのであまりお腹が減っていなかったこともあり、ちょっと見て回るうちに、ここでお惣菜を買って、ホテルの部屋で食べることにした。
 

 

 缶ビールはハルビンビールと雪花ビール。どちらも3元弱(約35円)。お惣菜は串カツと焼豚で、どちらも5元(約63円)。カップラーメンは3.5元(約44円)。みかんは量り売りで量ってもらって値段のシールを貼ってもらう。2.3元(約28円)。計22元(約275円)。

 昨夜と同じく13系統のバスで「哈站」に戻った。ホテルに帰って、風呂に入っている間にビールを冷やしておいた。みかんだけは全部食べられず3個 は翌日食べた。2個だけ買うのも、なんだかと思い5個にした。たまにはこういう食事もいいものだ。

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