4 タ ン ペ レ
トゥルクからタンペレに向かった列車。2時間ほどでタンペレ着。 タンペレは、ヘルシンキにつぐこの国二番目の都市である。この町は、ヘルシンキやトゥルクのような、古くからの歴史を感じさせるものはない。なぜなら、19世紀になってから発達した工業都市だからだ。 最初に発達したのは綿工業。この町の近くには2つの湖があって、その標高が違う。2つの湖を結ぶ水路の落差を使った水車を動力として、工業ははじまった。 |
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やがて、動力源は石炭にかわるが、紡績業からはじまった工業はいろんな分野に及びこの国で第一の工業都市になった。 現在も、この国の工業の拠点である。現在はハイテク産業が工業の中心だが、、、世界の携帯電話会社のなかで有名な会社、ノキア社。実は、19世紀はじめに創業したときは製紙会社だったのだが、このノキアの名は、タンペレ郊外の地名からとったものだ。 駅近くのホテルにチェックイン。 |
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そんな、タンペレにどうしてやってきたか。どうしても行きたいところが2つあるから、、 一番の目的地は、ムーミン博物館。トゥルクのようなテーマパークじゃなく、トーベヤンソンの描いたイラストなどが見られるらしい。 その次に行きたいのは、レーニン博物館。ロシア革命指導者のレーニンは、いまや本家ロシアではあまり人気がなく、タンペレの博物館は世界唯一らしい。でも、なぜフィンランドのそれもヘルシンキじゃなく、タンペレに、、って思ったから。 |
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フィンランドのホテルは3軒目だが、ここも簡素だが、清潔感にあふれていることは共通している。。しかも、簡素っても、いままでのホテルで見なかったものを見た。上の画像の左上にTVがあるが、部屋に入ると、画面に、Welcome
Tombi と出ていてびっくり。ホテルの案内も全部、画面に表示される。 少し休んで、町に繰り出す。ホテルのそばにには、落差のある水路があった。水門があり、船が通れる。 |
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工業都市だというのは、歩いてみてすぐに実感できた。れんが作りの長大な建物で煙突があれば、現役か昔の工場であろう。 そんな中で最初に向かったのは、中央労働博物館。 |
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昔の工場を保存して、かつての工場の内部を再現するとともに、労働運動の歴史についての展示をしている。 | |
左の空間では何をしていたのだろうか。なお、ここは紡績工場だったという。 | |
こちらは労働運動の歴史の展示コーナー。このほか、社会保障の歴史などの展示もあった。北欧の社会保障制度はすすんでいるといわれるが、それができあがる間にはいろいろなことがあったということの展示だ。 | |
次にやってきたのは、ムーミン博物館。愛称はムーミン谷。変わった形をしていて、雷鳥を模したものらしいが、なかなかそうは思えない。外壁の多くがガラスになっていて、とても明るそうだ。 |
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さて、2階建てのこの建物。タンペレ市立図書館と同居していて、1階がムーミン博物館、2階が図書館になっている。 ムーミンの原作者トーベ・ヤンソンは、作家であると同時に画家で、自分で書いたイラストや水彩画が展示されている。ただし、アニメで印象付けられているものとは違う。(館内の撮影は禁止なので、アニメとの違いとかお見せできないのが残念。気になる方、ぜひ行ってみてください。) |
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左はムーミンハウスを描いたポスター。館外で撮影した。館内には、ムーミンハウスの実物があるのだが、それぞれの部屋の中には、家具や道具がひとつずつ丁寧に作られている。人間の背より少し低い程度の大きなものである。 このほかにも、有名な場面を描いた立体模型がおかれている。これらも、トーベ・ヤンソンのイラストに忠実に作られていて、アニメのものとは違う。 日本語のパンフレットを、貸してくれたので見ながら進んだ。売店では、このパンフも販売されていた。 |
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多くの国の言葉で書かれた絵本のコーナーや子供が遊ぶコーナーもある。 出口には、さまざまなムーミングッズが売ってあって、少し値段の張るものが多かったが、お土産をここでかなり買った。 トゥルクのムーミンワールド、タンペレのムーミン博物館を訪問して、フィンランドでの一番の目的は終わったが、旅自体はあとしばらく続く。 |
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続いてやってきたのは、レーニン博物館。ロシア革命の指導者レーニン、本名ウラジミール・イリイチ・ウリヤーノフの博物館である。ソ連崩壊後、本家にあったレーニン博物館はなくなり、今や、世界唯一の博物館だ。 ロシア帝国時代、フィンランドはロシア領だった。独立したのは、1917年12月。この年、ロシアでは、2月に帝政が倒され、10月にレーニンを中心としたボリシェヴィキ(のち共産党)が政権をとった。だから、フィンランドが独立したのは、レーニンの意向だったのだ。 ただし、独立後、フィンランドでは、親ソの赤衛軍と反ソの白衛軍の内戦がおこり、白衛軍が勝利し、レーニンの期待通りにならなかった。 |
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上の建物は、現在、タンペレ労働者会館で、その2階がレーニン博物館になっている。 右の碑文は、この建物に取り付けられているのものだが、1906年4月9〜12日にフィンランド労働者大会がここで開かれたとある。なぜ、この町で開かれたか。このページの最初に書いたように、当時、ここはフィンランドを代表する工業都市で、フィンランドの労働運動もこの町を拠点にしていたからであろう。この労働者大会でレーニンは、フィンランドの独立への賛同を語ったのだという。 |
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さらに、1905年12月と1906年11月には、ここで、ロシアのボリシェヴィキ(のちの共産党)の大会が開かれているのだ。フィンランドは、帝政ロシアの中である程度の自治権を有していたので、安全だったらしい。 その議長はレーニンで、参加者の中にスターリンがいた。そして、レーニンとスターリンがはじめて握手をしたのが、ここだというのだ。なお、大会といっても、参加者は14人だったそうだ。 |
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戦後も、この町はフィンランドを代表する工業都市で、労働運動はさかんで、共産党も一定の力をもっていたのだろう。 この地では、フィンランドで反ソ派が政権を握った後も、親ソ派の拠点だったのだろう。そして、ソ連崩壊後も、その後継勢力が一定の力をもっているのでないかと思われる。この地にレーニン博物館がなぜあるのか、ある程度わかったような気がする。
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開館は1946年だというから、第二次大戦後の中立政策のはじまったころにできた。そして、ソ連崩壊後も存在し続けているのだ。 2階に上がると、全フロアではなく一部がこの博物館になっていた。こじんまりとした博物館である。 係員に聞くと、写真撮影OKだということだった。ついでに、ホームページで紹介したいが、と切り出すと、これまたOKということで、思う存分、撮影した。また、紹介にそなえて、ここではメモをたくさんとった。
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上は、壇上に立って演説するレーニンの油絵。この構図のレーニンは割と見かけるような気がする。この博物館で、唯一の大きな絵である。 右はレーニンの顔像。ずいぶんと険しい顔つきをしている。
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レーニンの立像。 | |
レーニンは、1917年のボリシェヴィキ政権が誕生する少し前にヘルシンキに住んでいた。左は、そのときの住居の様子。 | |
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レーニンの著書「何をなすべきか」 ここでレーニンは、革命をめざす党は、大衆政党ではあってならず、規律ある職業革命家の党でなくてはならないと主張している。 この考え方は、その後の各国の共産党にみられた集権的体質に影響を与えた。
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1917年10月28日発行のボリシェヴィキの新聞「イズベスチア」 これは「土地に関する布告」を報じたものである。 この布告によって、地主による土地所有は無償で廃止された。すなわち、地主の土地の没収である。土地の個人所有を廃止するということは、社会主義革命の根幹をなすものである。
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ボリシェヴィキ政権がフィンランドの独立を承認した文書(1917年12月31日) 右下にレーニン、トロツキー、スターリンなどのサインがある。レーニンのサインは、ウリヤーノフと書かれた後、カッコの中にレーニンと書かれている。
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ポスター「君は義勇兵に登録したか?」 ドミートリー・モール作 1920年、赤軍への志願を呼びかけるもので、ほかでも見た記憶がある。有名なものなのだろう。
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レーニンの死を報じる「イズベスチア」 下部のレーニンの絵が印象的である。 |
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続いてやってきたのは、アムリ労働者住宅博物館。19世紀から20世紀中ごろまでの労働者の家を移築したもの。 | |
部屋の中には、家具や電化製品が展示されていて、生活の変化がわかる。 一番興味深かったのはサウナ室。ずいぶん質素なサウナ室だということとともに、一般の民家にサウナ室があるということが驚き。それも、最近のことじゃなく、ずっと昔の家なのに、、昔からこの国の人たちはサウナ好きだったのだ。 |
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次にやってきたのはサルカニエミ・ツーリストセンター。地元客向けの、遊園地なのだが、その中に展望台がありあがってみようというわけだ。 | |
展望台の下には気温の電光掲示があり、何と15度。確かに、フィンランドでは涼しく、ずっと長袖を着ていたのだが、8月に15度だとは、、 | |
展望台からの景色。こちらは、湖のある風景。森と湖の国、フィンランドらしい様子。 | |
こちらはタンペレ市街地。現役の工場からは煙もでている。 | |
夕食。記録にとどていないので料理名は不明。わかる方いたら、お教えください。 | |
こちらのスープもどのようなものか不明。コンソメ風のように思えるが、、 このあと、ホテルに戻って休む。 |