14  ベ ル リ ン(その1)

 

 

  ベルリンZoo駅着6時39分。駅のコインロッカーに荷物を入れ、ベルリン探訪へ。

  まず、Sバーンで、かつての東西分断線を越え、東に入ったところのフェレードリヒシュトラッセ駅で乗り換え、ウンターデンリンデン駅で下車。

  地上に上がると、すぐ目の前にブランデンブルク門がそびえていた。壁崩壊の象徴の門を目にして、しばらく感慨にふけった。

  ブランデンブルク門最寄のウンターデンリンデン駅。

  壁のあった当時、このSバーンは、西から東を経て西に入るため、東側にあったこの駅は暗闇の中を通過。よって、駅名標やタイルは戦前のままで時代を感じた。

  この路線は、東が運営していたので、左の通り古くさい車両で運転されていた。

  次に、帝国議会議事堂に歩いていった。旅行時はドームがなかったが、1999年に、ガラスドームがつけられた。

  ドームは、最初はついていたのだが、1933年のナチスによる共産党弾圧の口実になった放火のさいに焼け落ち、そのままになっていたが、ここが再び、統一ドイツの議会として使われることになり、元の姿に戻された。 

  ブランデンブルク門の少し西に、右のようなモニュメントがある。これは、ソ連軍名誉慰霊碑である。

  ここは、西側の中にある、東側の飛び地であった。分断時代には、ここをソ連兵が警備していたという。

  この慰霊碑の後ろの緑地も飛び地だったようで、旅行時は緑地には入れなかった。

  慰霊碑の前には、ソ連軍の戦車が置かれていた。

  現在、ここがどのようになっているのか気になる。何らかの変更がなされていそうな気がし、現地に行って確かめてみたい。

  再び、ブランデンブルク門に戻り、ウンターデンリンデンを東に向かって歩いた。

  ここは戦前は、ベリリンで一番の繁華街だったところだが、東側に入ったためにさびれてしまい、旅行時も、とても繁華街だったとは思えない雰囲気だ。

  ウンターデンリンデンに面して、フンボルト大学やオペラ座があるのだが、どうもくすんでいて黒く汚れている感じなのだ。それでも、あちこちで修復工事をしていたので、現在は、かなり変わっているだろう。

  しばらく、ウンターデンリンデンを歩くと、博物館島へ向かう道がある。

  シュプレー川の中州にいくつかの博物館があるので博物館島とよんでいる。

  この中で一番行きたいのはペルガモン博物館。

  トルコのペルガモン(ベルガマ)で発掘された祭壇がどかんとあることで有名な博物館だ。日本語の案内テープの無料貸出はグッド。

  右が、そのゼウスの大祭壇。紀元前2世紀ころの作。

  ペルガモン王国は、ギリシャ系の国である。だから、この祭壇はギリシャの神殿の形をしている。

  この祭壇は、1864年にドイツ人が発掘し、ドイツに丸ごと持ち帰ったのだ。

  かなり広い部屋の全体を使って展示されているので圧倒される。

 

 

 

 

 

 

 

  上  これは何かメモがなくて不明

  右  古代バビロニアのイシュタール門

  このあと、博物館島のほかのミュージアムへ行ってみた。

 

 

 

 

 

 

 

  上  ナショナルギャラリー  修復中だが、入場できた。近代絵画の美術館。

  左  ボーデ博物館  エジプト、ビザンツ美術、中世西欧などのコレクションが特徴。

  次に行ったのは、ベルリン大聖堂。内部には、プロイセン王国のホーエンツォレルン王家の墓所もあり、入ってみたかったのだが、何か行事をやっていて、入れなかった。次回は入ってみたいと思う。

  この大聖堂は、改修を終えたようで、かなり美しくなっていた。

  大聖堂の南側は、旧東独の政治の中心であった一帯だ。

  ウンターデンリンデンは、この付近で向きを北東に変え、カール・リープクネヒト通りと名を変える。

  カール・リープクネヒトは、有名な共産主義者であるが、旅行時に、まだ通りの名が変わっていなかったので驚いた。現在は、変わっていることだろう。

  大聖堂から、カール・リープクネヒト通りをはさんで、旧東独の共産党の本部が残されていた。

  旅行時には、何も使われていなかった。

  さらに、その隣にあったのが、旧東独の国会議事堂で、通称は「共和国宮殿」であった。

  この建物、統一後は、ほかの用途に転用されたようなのだが、のちにアスベストが使用されているとのことで、使用が中止され、旅行時には、何も使われていなかった。また、壊すのにも、アスベストが飛び散るので、壊すこともできないと聞いた。今はどうなっているのだろう。

  「共和国宮殿」のそばの公園は、マルクス・エンゲルス広場。これまた、旅行時には、まだ改名されていなかった。

  座っているのがマルクス、立っているのがエンゲルスで共産主義の理論をうちたてた重要な人物である。

  この銅像、現在はどうなっているのだろう。このエリアの建造物や地名、何か気になる。

 

 

 

 

 

 

 

  マルクス・エンゲルス広場の東へ。

  上  マリエン教会

  右  テレビ塔  塔の右に写っている赤いのはパラグライダーをしている人 

  テレビ塔の下の広場が、アレクサンダー広場。

  アレクサンダープラッツ駅からSバーンでアルハンター駅に向かった。

  アルハンター駅は、かつてはターミナルのひとつだったが、戦後は使われなくなり(地下のSバーンだけの駅になった)、かつての駅舎の玄関の一部だけが残されていた。

  この駅で降りたのは、すぐ近くの交通博物館に行くため。

  機械の展示が中心で、交通というよりは科学技術の博物館という印象。

  このあと、かつての壁跡に沿って、ポツダム広場まで歩いた。

  壁があったところには、大きな通りができ、あちこちで建物の建設がすすんでいた。

  右  ポツダム広場

  ここは戦前は繁華街だったが、壁のために、まったくさびれた場所になった。なにしろ、壁に接する場所なので、誰も近づけなかったからだ。

  旅行時には、広場の周辺、あたり一面で工事中だった。工事完成時の予想図などを見ると、この何もないところが、ベルリンのひとつの中心になりそうな感じがした。

  ポツダムプラッツからSバーンに乗り、フレードリヒシュトラッセで乗り換え、ベルリンZoo駅で下車。

  ロッカーの荷物を出し、歩行者天国でごった返すクーファシュテンダムを通り、安ホテルの多いエリアに向かった。

  無事、ホテルを確保し、帰国日まで連泊することにした。すでに、夕方になっていて、食事とともに、壁博物館に行くことにした。

  ホテル近くのシュタットミッテ駅からUバーンで、コッホシュトラッセ駅へ。

  駅を降りるとすぐに、チャリー検問所跡があった。

  ここは、東西間を車あるいは徒歩で移動する場合に通過した検問所の跡地。

  向こう側が旧東。ここは保存されているのだろうか。

  この日、最後に訪問したのは、壁博物館。夜間も開館しているので、遅くに行ったのだ。

  東から西に逃げた方法や、失敗した話など、とても興味深く、2時間くらい滞在した。遅くに行って正解。

  普通のビルの1、2階を使っていて、かなり混雑していた。今もやっているのかな。

  見学のあとは、ホテルに戻って1日を終えた。

 

 

13へ  ドイツ編のトップ  ユーラシア紀行のトップ   15へ