15  ポツダム ・ ベルリン(その2)

 

 

  この日は、ベルリン郊外のポツダムへ日帰り。

  ベルリンZoo駅からSバーン。左は、Zoo駅の外観。あまり大きな駅ではないが、旅行当時は、西部(フランクフルト、ハンブルク、ミュンヘンなど)への列車はこの駅が始発であった。

  Zoo駅という名前は、動物園がそばにあるからつけられたものだ。  

  Zoo駅発8時8分の電車は、すぐに旧東に入り、旧東ベルリンの車窓を楽しみながら、ポツダムに向かった。

  Sバーンは、分裂時代、旧西側を走る電車も含めて、すべて旧東独側が運営していた。ただし、旧東のSバーンと旧西のSバーンはまったく別個の運転系統で、旧西を走る電車が旧東に入ると、駅を通過した。

  車両は古く、ドアは手で開ける形式だ。走行中でも、手でドアを開けることができる。

  ポツダムシュタット駅。あまり大きな駅ではない。ポツダムの街を散策しながらサン・スーシー宮殿まで歩いた。

 

 

 

  左は、ポツダムのブランデンブルク門。

  40分ほど歩いて、サン・スーシー宮殿に到着。

  プロイセン王、フリードリヒ大王が1747年に建てたロココ様式の宮殿である。大王は、完成後は死ぬまでほとんど、この宮殿ですごした。

  大王の遺体は死後、あちこちを移転し、1991年にようやく、宮殿の庭に葬られた。

  内部はガイドに連れられての見学。見学まで40分ほど待った。10時から見学。

  上左  中庭

  上右  オランジュリー(離宮のひとつ)

  右   新宮殿

  新宮殿は、サン・スーシー宮殿本体とは2.7km離れている。それでも、同じ敷地内にあるのだが。

  大王が1769年に建てたバロック様式の宮殿だ。

  バスでツェツィーリエンフーフ宮殿へ。もとは、最後の皇太子ウィルヘルムの屋敷で、宮殿という感じのしない質素で小さな建物だ。

  ここで、1945年7月、日本の運命に大きな影響を及ぼしたポツダム会談があった。

  トルーマン、アトリー、スターリンが集まり、ドイツの分割占領や日本に対する降伏勧告の相談がなされた。彼らの泊まった部屋や会議場を見ることができる。

  ポツダムシュタット発14時7分のSバーンに乗車し、ヴェストクロイツで乗り換え、ハイデルベルクプラッツでUバーンに乗り換えて、ダーレムドルフ着。ダーレム博物館に行った。

  このあと、ダーレムドルフからワグナープラッツ下車。シヤルロッテンブルク宮殿へ。ここは、初代プロイセン王ヴェルヘルム1世の妃ゾフィーの別荘。

  シャルロッテンブルクからUバーンでZoo駅に戻り、バスでジーゲスゾイレへ。

  ジーゲスゾイレとは、戦勝記念塔。

  対デンマーク、オーストリア、フランスの戦勝記念だ。

  285段の階段を上ると、一直線の道路の向こうにブランデンブルク門が見える。

  再び、バスでZoo駅へ。そして、ホテルへ。

 

 

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