17  ベ ル リ ン(その3)

 

 

  Zoo駅からUバーンを乗り継いで、旧西ベルリン市庁舎へ。(現在はシェーネベルク区役所)

  ベルリン封鎖のさい、ここのバルコニーでケネディ大統領が「Ich bin ein Berliner」と演説したのは有名。入口の左側に、その記念の銅板がある。

  壁崩壊のときにはコール首相、ブラント元首相らが、ドイツ国歌斉唱を行ったのもここである。

  さらに、Uバーンを乗り継ぎ、ベルリン空輸記念碑へ行った。

  東側のベルリン封鎖に対抗して、西側は空輸作戦を実施。空輸の結果、ベルリン封鎖は失敗し、翌年、封鎖は解かれた。その記念碑だ。

  テンペルホーフ空港の近くで、プラッツ・デル・ルフトブリュッケ駅の上である。

  Schles Tor と Warscaur の間のシュプレー川に沿ったところに、壁が残っていた。

  壁の落書きから見て、右手が西側。左手にある川は、東側に属していたとわかる。

  壁がきれいに残っているのは、ここと、下で紹介するSS本部のあったところの2箇所だ。

  ポツダム広場の近くに残るヒトラーが最期を遂げた防空壕の跡。

  訪問当時は、まったく発掘が行われていなかったが、今はどうなっているのだろうか。

  ナチス親衛隊(SS)の本部跡。

  右  展示コーナー

  その右  屋根がついているところの下に地下壕がある。その向こう側にある壁は、ベルリンの壁。

  下左  本部跡の全景

  下右  壁の端

  壁のあったところの近くには建設中の建物が多かった。

  壁にあった照明灯が、街灯ととして利用されていた。

  これで、あとは帰国するのみとなった。

  ベルリンの空港は3つあるが、旧東のシェーネフェルト空港から帰国。旧西のテーゲル空港、テンペルホフ空港は、東西分断時代には、西ベルリンの占領国の米英仏の航空機だけが利用できた。旅行時は、そんな制限はなくなったものの、新たな国の航空機が利用できる余地が少ないため、新規に開設した国の航空機は主にシェーネフェルト空港を利用していた。日本航空もベルリン統一の直後に1年間で、フランクフルト便をベルリンにも伸ばしたが、やはりシェーネフェルト空港利用だった。

  Sバーンの空港駅があるが、当日は空港駅付近が運休で、代行バスで空港にたどり着いた。Zoo駅を出たのが14時50分。グリューナウから代行バスに乗り、空港着は16時30分。

  右は、シェーネフェルト空港の出発ゲート付近の待合室。旧東の空港らしく、簡素なつくりで、売店などが少なく寂しい感じだ。

  19時15分発。チューリヒに立ち寄り、シンガポールには、翌日16時着。14時間かかった。

  8時間の待ち合わせのあと、23時55分発の便で翌々日7時10分に関西空港着。これは7時間。あわせて、29時間かかり帰国。

 

 

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