2  ベ ル リ ン の 壁 を 探 し て

 

 

ベルナウアー通りに残されたベルリンの壁
 2日目は22年ぶりにベルリンの壁を見に行った。22年前の1995年は、ベルリンの壁がなくなってまだ6年しか経過していなかった時点で、何ヶ所も壁が残っていたようだが、現在は保存目的で残されているいくつかの場所だけになっている。反面、22年前は未整備だったものが、現在は整備されて、見学しやすくなっているようだ。

 壁を見に行く前に、ツォー駅の構内で朝食。BACK WERKというパン屋のチェーン店に入る。
 
 構内にはほかにもパン屋があったのだが、この店は、セルフで選べるので、言葉を気にせず、値段の計算もしながら、自由に選べるので、この店にした。

 ベーコンと卵のサンド、ハムとレタスのサンド。コーヒーも自分で機械を操作してカップに注いだものをレジに運んで精算するしくみだ。連日、BACK WERKで朝食をとったのだが、10ユーロでおつりがあるか、もう少し必要な程度。調理パンは日本よりも少し高いと思う。
 ツォー駅というのは略称で、正式名はZoologischer Garten(動物園)。22年前に訪問したときには、島式ホームのさほど大きな駅じゃないのに、旧西ドイツ方面からのICE、ICの多くは、この駅が起終点になっていた。ベリリンが東西に分れていた当時、この駅が西ドイツと西ベルリンを結ぶ列車(東ドイツ内では乗降できないので封印列車とよばれたらしい)の起終点になっていた名残で、東西ドイツが統一してから5年後の訪問だったにもかかわらず、西ベルリンを代表する駅であった。その後、ベルリン中央駅ができ、ツォー駅は単なる途中駅になっている。
 上左  ツォー駅から乗車したSバーン。ドイツの大都市ではSバーンとUバーンの鉄道があり、Sバーンが国鉄の近郊電車、Uバーンが地下鉄である。同じ区間を走る場合でもSバーンのほうが駅数が少ないので、このときもSバーンを利用した。

 上右  Sバーンの車内。この旅ではいろいろな路線のSバーンに乗車したが、ほぼこのタイプの車両だった。22年前は、旧東ドイツ製の古臭い車両がほとんどだった。当たり前だが、大きく変わっていた。

 左  フリードリヒシュトラッセで下車。この駅は、東西べルリンに分れていた当時、西側と東側の接点になっていた駅で、当時の設備も見学できるようになっているので、今回の滞在中に見学するつもりだ。
 
 上左  フリードリヒシュトラッセの地下駅から別のSバーンに乗車。この路線は分断時はUバーンだったのだが、現在はSバーンになって、かつては市内だけを運行していたのが、現在は郊外へ直通している。

 上右  2つ目のノルトバーンホフで下車。

   左  この駅は、分断時代は「ガイスターバーンホフ(幽霊駅)」と呼ばれていた。西ベルリンから東ベルリンを経由して西ベルリンに向うUバーンが3路線あったのだが、それらの路線では、壁があった当時、東ベルリン内の駅は停車せずに通過した。こうした東ベルリン内の駅は警備の兵士以外は立ち入ることができず、廃墟と化していったのだ。例外がフリードリヒシュトラッセで、この駅だけは、東西を行き来する人のために停車した。
 
 
 上左  ノルトバーンホフの地上の駅舎。

 上右  分断当時の駅舎。入口や窓がブロックで閉じられている。

 左  駅の前の道路を渡ると、ベルナウアー通りに沿って鉄棒が立ちならんでいる。鉄棒の高さが壁の高さだ。また、写真の左端を見ると、鉄棒の延長線上にブロックが埋められているのがわかる。壁があった位置を示すためのブロックだ。このブロックによる壁跡の表示は、ベルリン全体でなされている。なお、通りの向うが旧西ベルリン。
  鉄棒が並ぶ区間が終わり、その先には壁が残されていた。壁の最上部は丸くなっていて、つかまりにくくなっている。ここの壁は200mほど続いている。

 下左  壁の東側は、今は公園になっているが、壁があった頃は緩衝地帯になっていた。50mほど東側には、内側の壁があり、その間の緩衝地帯を、ところどころにあった監視塔から兵士が目を光らせていた。写真の右側に写っている照明灯も壁があったときのもの。

 下右  内側の壁は壊されてその残骸が立てられていた。
 
 
 
  上左  壁があった当時の航空写真。下側は東、上側が西ベルリン。壁に沿って、西側には道路があり、それがベルナウアー通り。壁の東側に50m幅の緩衝地帯があり、その東に内側の壁があった。

 上右  壁があったときの緩衝地帯の写真。

 左  ベルナウアー通りの西側にある、ベルリンの壁記念センター。センターには壁のあった当時の写真などが展示されている。また、上部から壁の跡を見ることができる。
 
  センターの上部から見た緩衝地帯。監視塔も残されている。緩衝地帯の中は、上部からでないと見えない。なぜなら、この付近では、緩衝地帯の東側にある内側の壁も残されているからだ。

 下左  1985年には、緩衝地帯に残されていた贖罪教会が破壊された。そのときの写真。

 下右  贖罪教会があったところには、「和解の礼拝堂」が建てられている。
 
 
 
  上左  東西ベルリンの境界に建物があった場合、壁ができた最初は、東側の窓から飛び降りて西側に逃れた人もいた。そのため、西側に面した窓はブロックで閉鎖された。

  上右  その後、境界にあった建物は取り壊され、住民は立ち退きさせられ、緩衝地帯が完成した。かつてあった建物の土台部分の展示。

  左  東側から壁の下を通るトンネルを掘って西側に脱出した人もいる。そのことを示した展示もあった。
アレクサンダー広場からポツダム広場へ
   ベルナウアー通りを歩いて、Uバーンのベルナウアーシュトラッセまでやってきた。約1kmにわたって、壁または壁の高さの鉄棒があったのだが、途中の見学個所が多くあり、1時間半ほどかけてじっくり歩いた。

 写真はUバーンの地下駅に下りるところで撮影。右手が旧西ベルリン。

 下左  Uバーンの車両はどの路線もほぼこのような車両。

 下右  アレクサンダープラッツで下車。
 上左  アレクサンダープラッツ周辺は旧東ベルリンで最大の繁華街であったところ。今もベルリン東部の1つの中心になっている。

 テレビ塔。東ドイツ時代のもので、時代を感じさせる形をしている。さかんに宣伝をしていたので、時間の余裕があれば、上ってみようと思ったが、上がるだけの時間はなかった。

 上右  世界時計。数字の書いてある部分が動いて、世界各地の時間を表示するようだ。旧東ベルリン時代には、これも名所的な存在だったのだろう。

 左  世界時計の都市名の表示のひとつ。ピョンヤン、東京、ソウルとなっていて、東ドイツらしさを感じさせられる。
 大通りを歩いて、ブランデンブルク門まで4kmほどを散歩することにした。

 マルクスとエンゲルスの銅像。この銅像は、22年前には別の場所にあったのを覚えていたのだが、今回は大通りからすぐにわかった。移転させてでも保存しているのは、現ドイツでも偉人の扱いをしているからだろう。東ドイツの痕跡はなんでもなくそうというわけでもなさそうだ。

 下左  シュプレー川。時間があれば遊覧船にも乗ってみたかったのだが、これも時間がなくて無理だった。川の向かいのビルの最下層(道路よりも低いので地下1階)にDDR博物館がある。

 下右  DDR博物館。東ドイツの当時のものを集めたような博物館。DDR(デーデーエル)は、Deutsche Demokratische Republik(ドイツ民主共和国)。
 東ドイツの量産車トラバント。長らくモデルチェンジされていなかったので、走行性能も安全性もデザインも劣り、統一後は急速に淘汰された。その後環境基準を満たしていないことから走行が禁止され、博物館行きになった。

 下左  アレクサンダー広場から歩いてきた大通りは、カール・リープクネヒト・シュトラッセ。第一次大戦後のドイツ革命で活躍した共産主義者の名が、今も残っている。

 下右  22年前には、共和国宮殿とも呼ばれた旧東ドイツの国会議事堂があった。統一後、アスベストが利用されていたので、破壊も利用もされずに建っていた。今は破壊され、そのあとに、ベルリン宮殿の再建工事が行われていた。ベルリン宮殿は、かつてのプロイセン王、さらにプロイセンを中心に統一されてできたドイツ帝国皇帝の王宮であったが、第2次大戦時に破壊された。その後、旧東ドイツ時代は、マルクス・エンゲルス広場になってうたが、1970年代に共和国宮殿が建設された。
 ベルリン宮殿の建設現場の端には、工事の宣伝のための施設があり、宮殿の模型などが展示されていた。

 下左  さらに歩き進むと、東西分断以前には繁華街であったウンター・デン・リンデンにやってきた。道路は広いが、華やかさはない。

 下右  22年ぶりにやってきたブランデンブルク門。前回に比べて観光客も少なく、落ち着いた感じになっていた。前回は、まだ壁の崩壊の余韻が残り、壁の象徴であったこの門が観光地化されていたのだろうが、いまは熱気も冷め、静かになったのであろう。
  Reichstag(国会議事堂)。ドイツ帝国の時代からの議事堂で、現在もReichstagを直訳すれば帝国議会となる。分断後、議会としては利用されていなかったが、統一後ただちに、国会議事堂として使われるようになった。その後、整備が行われ、中央にガラスドームが設置された。無料で見学できるが、予約が必要で、旅行前に予約を試みたが、予約できなかったので、見学はあきらめた。

 下左  ブランデンブルク門から西に少し行ったところに、ソ連軍の戦勝記念碑がある。分断時代は、西ベルリン内にある東側の飛地として、ソ連兵が警備していた。22年前に行ったときには、まだソ連の戦車などが残されていて驚いたのだが、今回もまだ戦車などが残されていた。

  下右  記念碑にあるロシア語の碑文。
 ソ連軍の戦勝記念碑。現在でも連合軍の戦勝記念日である5月8日にはここで式典が開かれる。

 小さな博物館があったが、中には入れなかった。その外側には、写真展示があり興味深く見ることができた。
 
 いったんブランデンブルク門まで戻り、かつての壁の跡に沿って南に向った。写真で道路の真ん中に埋められているブロックが壁の跡を表す。かつての壁の跡の道路は幹線道路になっていた。

 下左  壁の東側にあたるところに、何やら無数の四角い石が置かれていた。ホロコースト記念碑だ。

 下右  ポツダマープラッツ。壁のあったころ、広場自体が分断されていた。22年前には盛んに工事が行われていた。今は高層ビルが林立し、統一後ベルリンで最も変化が著しい場所かもしれない。
 
 
  ポツダマープラッツでも壁が少しだけ残されている。地面の線が壁の跡を示している。

 下左  ソニーセンター。屋根がテントになっている。プツダマープラッツのひとつの中心になっている。

 下右  ソニーセンターで昼食をとっていくことにした。入った店はリンデンブラウ。
 
 
 ニシンの酢漬けとジャガイモと生野菜。12.5ユーロ。3枚におろしたニシンを酢につけただけのもの。単純な料理だが、あっさりしていて美味しい。

 下左  ドイツへ来て初のビール。自家製のベルリナー・ピルスナー。8ユーロでほかのビールより少し安いので選んだのだが、すっきりした感じの美味しいビールだった。

 下右  食事後は壁跡に沿って散歩再開。水道管が上空に設置されているのが面白い。どうしてなのだろう。
 
さらに壁を探して歩く
 ポツダマープラッツから500mほど歩くと、壁が残されている区間がある。この付近は壁の向こう側が旧東ベルリン、壁の手前は旧西ベルリン。西ベルリン側には、ナチス時代に秘密警察(ゲシュタポ)や親衛隊(SS)の本拠地である国家保安本部が置かれていた。その跡地には「テロのトポグラフィー」という名の博物館ができている。ここでいうテロは恐怖、トポグラフィーは、分析、解説というような意味で使われているようだ。
 
 壁に沿って、内側(西ベルリン側)には、国家保安本部にあった地下牢が残されていた。牢の区切りがわかるでけで、牢の入口は封鎖されている。22年前に行ったときには整備されていなかったのだが、現在では見学しやすく保存されている。

 下左  「テロのトポグラフィー」博物館。ナチス時代である1933年から1945年の歴史の展示で、特にナチスによる反対派の弾圧などに重点を置いている。

 下右  写真展示が多いが実物もあって興味深いものもいろいろあった。それほど大きくない施設だが、一通り見学するのに2時間近くかかった。
 
 
 
  上左  「テロのトポグラフィー」付近の壁は300mほど残されているが、すでに壊れている部分もあった。午前中に行ったベルナウアー通りの壁に比べると保存状態が良くない。

 上右  レストランだろうか。チャーリー検問所のほうに向って歩いていると、トラバントが空中に置かれていた。郵便局の車として利用されていたトラバントのようだ。

 左  さらに歩き進むとチャーリーチェックポントに到着。右側が西ベルリンの米国占領地区、左側が東ベルリンのソ連占領地区だった。当時の検問所を再建したものだが、意外に小さな小屋だと思った。米兵に扮した人もいた。

 チェックポイントの向う側の建物が「壁博物館」。22年前に訪問したが、またやってきた。

 下左  車に中に隠れて西側に脱出した人の展示。

 下右  出入口付近には壁の一部も保存されている。
 
 
 最寄りのコッホシュトラッセからUバーンで南下。狭いホームに売店があった。

 下左  テンペルホフでSバーンの環状線に乗り換える。ベルリンの環状線の南側の駅だ。

 下右  環状線はRingだが、時計まわりはS41、反時計まわりはS42と系統番号が異なっている。また、環状線からほかの路線に直通する系統も運転されている。例えば、シェーネフェルト空港行きの系統などが書かれている。環状線とは限らないので、乗車には注意がいる。
 
 
 
 上左  テンペルホフを出てすぐ、線路の北側に、かつてのテンペルホフ空港の跡地が広がっている。

 上右  テンプタワー駅。ここから15分ほど歩く。

 左  やがてシレジア・ブッシュの監視塔に到着。付近には壁は残されていないが、監視塔だけが保存されている。夏季にはこの中に入ることもできるようだが、行ったときは閉鎖期間であった。
 
 今はのどかに流れているこの川の左側の川べりに壁があった。壁の内側には緩衝地帯があり、その中に監視塔があったのだ。

 下左  シュプレー川。ここでは川の右岸に沿って壁があった。

 下右  川の右岸の壁は残されていて、壁には落書きも描かれたままになっている。それでイーストサイドギャラリーと呼ばれている。イーストサイドギャラリーのはじまりの部分。
 
 
 
 上左  恐らくこの絵がイースストサイドギャラリーで一番有名な落書きだろう。ロシアのブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー書記長の熱いキス。ロシアでは親愛の証であるらしいのだが、ドイツではそんな習慣はなくつきあわされた感じだ。

 上右  イーストサイドギャラリーの最後の部分。

   左  まもなくオスト(東)駅に到着。22年前にはオスト駅からラピチッヒなどへ出かけた。東西分断時には東ベルリンのターミナルになっていて、統一後5年後に利用した時も、旧東ドイツ方面へのICE、ICはこの駅を起終点としていた。その後、中央駅ができ、ターミナル機能が移された。いまは中間駅になったっが、大駅であることには変わりがない。

  下左  オスト駅構内のビアホールで夕食をとっていくことにした。

  下右  ビアホール内はかなり混雑していたが、空席を見つけることができた。
 
 
 
 
 
 上左  黒ビールを注文。

 上右  ケチャップにカレー粉をかけたソーセージであるカレー・ブルスト。

 左  ツォー駅まで戻るのに、中距離列車ノツォー駅行きがあったので乗車。本来はツォー駅を経由してもっと遠方の駅に向かう系統だが、夜になってツォー駅止まりになっていた。

 下左  車内はガラガラ。2階建て電車で2階に乗車した。

 下右  ツォー駅に到着。ホテルに戻り1日が終了。
 
 

 

 

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