4 ザクセンハウゼン強制収容所
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フリードリヒシュトラッセで朝食とってザクセンハウゼンへ |
![]() この駅には、分断時代に西ベルリンに出国する手続きの行われた施設が現存しているので、この日、ザクセンハウゼンから帰ってきたあとに行ってみよう。 |
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![]() ナチス時代の強制収容所跡はいくつか訪問済みだ。すでに訪問したところを列挙すると、1995年の最初のドイツ旅行で、ミュンヘン郊外のダッハウ、ワイマール郊外のブーヘンヴァルト、1998年の中欧旅行でプラハ郊外のテレジン、2000年のポーランド旅行で、最も悪名高いアウシュヴィッツ、ルブリン郊外のマイナデクを訪問している。それ以来なので、17年ぶりで、6か所目の訪問になる。 |
ザクセンハウゼン強制収容所 |
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![]() 上右 まずはインフォメーションで収容所内の地図を購入。 左 正門まで500mくらい歩いた。アウシュヴィッツでも見たような門が姿を現した。 |
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![]() 上右 壁の内側には高圧電流を流した鉄条網が張られている。 左 囚人が収容された建物は2つを除いて、なくなっている。現存する建物塗りなおされたりして。ここに入ってみる。 |
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![]() 上右 トイレ。 左 囚人の収容された建物があった位置がブロックで示されている。 |
![]() 下左 その内部。両側に監房が並ぶ。 下右 監房内のようす。 |
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![]() 下左 洗濯室。 下右 調理室。 |
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![]() 下左 巨大なモニュメント。 下右 モニュメントの下部にある銅像。社会主義時代に作られたような感じのする銅像だ。 |
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![]() 下左 監視塔。 下右 第2次大戦後、ここの収容所は、そのままソ連に反抗的な人々などを収容する施設になった。壁の外側には、ソ連時代に新たに作られた、囚人を収容する建物が作られた。 |
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![]() 上右 ソ連時代の収容所についての博物館。 左 解剖などを行った建物。 下左 解剖台。 下右 解剖などのための死体などが置かれた地下室。 |
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![]() 下左 医療関係の展示がいろいろとあった。 下右 サクセンハウゼンにもガス室はあった。しかし1952年に破壊されたという。東独時代になぜ破壊されたのだろうか。破壊前のガス室のあった建物の写真があった。この建物の中にあったようだ。 広い敷地内を歩き、4時間くらいかけて回り、見学を終えた。 |
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全強制収容所を統括する司令部 |
![]() ただ、道順がわかりにくくかった上、着いた建物の周辺が工事中で正門にたどりつきにくかった。そのため、裏口のようなところから建物の中に入った。写真でL字型になっている部分の、縦横の建物が交わっている部分からだ。 |
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![]() 上右 司令部の当時の建物の設計図。T字型をしている。 左 展示室。強制収容所司令部のあった当時には、司令官の部屋が置かれた部屋だ。展示物は多くなかった。 |
![]() この司令部には各地にあった強制収容所の代表が毎月、集められて、囚人の管理や処刑のことなどについて指示があったという。アウシュヴィッツの愚行は、アウシュヴィッツ独自の判断で行われたのではなく、この司令部でナチス党の指示として行われたのだ。 |
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![]() 下左 近くによると、赤い星がついた碑でソ連に関係している記念碑だとわかった。 下右 ドイツ語はよくわからないが、ソ連軍による解放を記念する碑のようだ。 |
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フリードリヒシュトラッセにあった東西移動時のチェックポント跡 |
![]() 中央駅ができたあとは、ドイツ各地へのICEなどは地下ホームから出ており、地下の南北路線がメイン路線だ。1995年にベルリンを訪問した時には、この駅はまだできていなかった。 高架ホームに移動し、フリードリヒシュトラッセ駅へ移動。 |
![]() 東ベルリンから西ベルリンに向う場合には、このガラス張りの建物の中の出国審査場を通って、駅舎に入った。写真の左端に少しだけ建物が写っているが、これが駅舎。なお、西側には東側の住民は行けなかったので、ここを通って西側に向ったのは、ほとんどが西側から東側にやってきて、西側に戻る人たちであった。 |
![]() 下左 荷物検査場。 下右 出国審査場のブースの内部。通路側の幅は60cmくらいで、人はすりぬけるのを防止している。 |
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![]() 下の写真は、駅舎の中にあった入国審査場を通過して、東側に出てくる様子のようだ。 下左 出国審査場を抜け、駅舎に向う通路。 下右 かつて、出国審査場を出て駅舎に入ったあたりの様子のようだ。現在は、駅舎との間の通路は取り払われているが、当時は、出国審査場を抜けた人は駅にしか行けないようになっていた。 |
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ベルリンで一番古いビアガーデン |
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![]() 上右 まず、アルターク・イン・デアDDRへ。旧東ドイツの日常生活にスポットをあてた博物館だ。 左 東ドイツの国章。ハンマーとコンパスを麦で囲んでいるという。なるほど言われてみれば確かにその通りだ。 下左 トラバントの屋根に載せて使うテントが人気を集めたという。 下右 東ドイツの雑誌など。雑誌の表紙は社会主義らしいものではなく、西側のものとそう違いはない。紙質もそこそこ、いいものを使っている。見学中に、閉館を示す音楽が流れて、大急ぎでの見学だった。 |
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![]() 日本に多い、ビルの屋上のビアガーデンを想像して行ったら、広場にテーブルが広げられたビアガーデンだった。 セルフサービスでビールと料理を買って、テーブルを選んで座るという仕組みだ。 下左 プラター・ピルスビール。他の銘柄より少し安い3.5ユーロ。自家製なのかな。 下右 ロスト・ブラート・ヴルスト。大きなソーセージをパンで挟んだものだった。3ユーロ。 |
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![]() 下左 英語でプラター・ダークビア。自家製の黒ビールなのだろう。4ユーロ。 下右 ポテトのクリームチーズ添え。5ユーロ。 |
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![]() 下左 カリー・ヴルスト。刻んだソーセージの上にケチャップをかけ、その上にカレー粉がかけてある。そしてフライドポテトの上にマヨネーズ。 下右 ビールはベルリナー・キンドル。グラスはなく、ラッパ飲みするようだ。 |
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